正体見たり、灰の雪 3

 あれから数日が経ち、遂に訪問調査の日がやってきた。

「新規の調査に行ってきます!」

「くれぐれも粗相のないようにねぇ」

 私が外勤の準備をしている間、後ろで無貌主査と井道さんが何やらひそひそ会話するのが聞こえていた。

「おい井道、お前は……」

「あー、はいはい。狛さん絡みでしょ?◼️◼️さんのようにはならないんで、ご心配なく」

 内容はよくわからないが、なんでもすぐに流されてしまう私と違って、どんな時も誰に対しても媚びずに我が道を行くその姿が少し羨ましくもあった。


「じゃ、運転よろしくー。着いたら起こして」

 フロントガラスにべっとりへばりついた雪をやっとの思いでこそげ落として車に乗り込むと、当たり前のように井道さんが助手席に座っていた。

「くしゅん」

 軽く頭を振るとぽろぽろと白い結晶がこぼれ落ち、体のあちこちに滑りこんだ。それは私の鼻頭から熱を奪い、視界をぼんやりと歪ませ、ブーツの隙間から靴下をぐっしょりと濡らしていく。

 井道さん曰く、鳥狛S Vのお願いは碌なことがないから、後々のために余力を残しておくとのことだが、だからって隣で寝ていいことにはならない気がする。

 井道さんはその言葉どおり、事務所を出発してものの数秒でいびきをかき始めた。はだけたダウンジャケットの下から経文のようなものがプリントされた白いトレーナーがのぞいている。

「もー、風邪ひきますよ」

 今日は雪催いでとても冷え、車内もまだまだ息が白む。手袋をしないと硬いウレタンのハンドルすら心臓が縮み上がって握れないほどだ。天気予報では、これから灰雪まで振るらしい。アイヌ語で「灰の振る町」という由来のとおり、厚みがあって大きな雪がまるで灰のようにゆったり地面に降りそそぐ……らしい。いくつかの気候的条件が重ならないと発生しない珍しい現象だそうで、何を隠そう私もまだお目にかかったことがない。

「ぶぶぅ」

 いつも気怠げで、灰のような銀髪と粗野な言動も合間って普段は中々話しかけにくいのだが、こうして気持ち良く寝ている姿は無防備にお腹を出した犬のようで、何故だか無性に可愛がりたくなるから不思議だ。

「あれ、なんだろこれ」

 足元にあったブランケットを井道さんにかけようとして、めくれた右袖付近に油性マジックで書いたような黒い線が伸びているのが目に入った。

 まさか、公務員でありながら刺青を……?

 凄く気になるのに、運転中でじっくり見れないのがもどかしい。

 次の信号待ちでもう一度目をやると、丁度すすすと線が引っ込むところだった。

「青だぞ。運転に集中しろよ」

 井道さんは薄目を開けてそれだけ言うと、またすぐにいびきをかき始めた。

 きっと見間違いだろう。今回は重めの新規案件とあって、私も神経が過敏になっているようだ。

「すみません」

 こんな時、あの人はいつも絶妙なタイミングで現れて私を励ましてくれて、助言までしてくれたっけ。優しくて、イケメンで、頼りになる、あの……。

 あれ。

 なぜだろう。

 名前が出てこない。

 誰だっけ。

 いや、そもそもそんな神様みたいな完璧な人が現実にいるだろうか。

 なんだかそこだけぽっかりとくり抜かれたみたいに記憶が曖昧だ。

 三か月程前に起こしてしまった外勤中の自損事故で、記憶が欠落するほど頭を強打した影響だろうか。CTで脳に異常はなかったと言われたけど、改めて病院を受診した方がいいのかもしれない。

 でも、どうにか思い出したいなぁ。

「んなもん考えるだけ無駄無駄」

「でも気になるじゃないですか、忘れてるとしたら」

「その結果がアレだろ」

「でも」

「思い出くらい綺麗なままにしとけよ」

 井道さんに寝言で諭されながら、雪の布団を被った白銀の道路を覆面公用車は緩やかに走る。今日の寒さはひとしおで、油断すると少しの踏み遅れで車体が横滑りするほどだった。

 あの事故以来、車を運転するのは久しぶりだった。同じ過ちを繰り返さないよう、しばらく車に乗るのを避けていたのだ。私が電柱に衝突させたことで公用車は大きく歪み、管財課や鳥狛SVに随分と迷惑をかけてしまった。

 私の担当する足泊地区は事務所から歩いてギリギリ外勤できる距離なので、少しの不便は我慢するのが賢明だった。

「わ、綺麗」

 信号待ちの橋の上から、ふと窓の外を見ると、街をぐるりと取り囲む大雪山連峰の銀嶺さが一際くっきりと私の目に映った。外の空気はこれ以上ないほど澄んでいて、世界の解像度を数段上げていた。

 雲の切れ間から時折差し込む陽光が、空気中に漂う雪の結晶に反射してきらきらと輝いている。この景色だけでも北海道に移住してきた甲斐があったというものだ。

 盆地である雨納芦市は川の町だ。大雪山連峰を水源とする灰振川を中心地として、大小様々な河川が放射状に市街地に流入している。

 初島さんの住むアパートは、私の受け持つ足泊地区の外れ、果栄川の袂にあった。そこは小高い堤防と空き家に挟まれた、中洲のように外界から隔絶された場所だった。

 公用車をごみ置き場の隣に横付けすると、散らばったゴミを漁っていたカラスがジロリとこちらを一瞥した。

「ほら、起きてください井道さん。着きましたよ」

「ふわぁあ……。ねむ」

 よろける井道さんを支えつつ、私たちは所々剥がれて錆の浮いた鉄階段を登っていく。半ば雪に埋もれた駐車スペースに、そこからひょっこり顔を出すタイヤや錆びた自転車といった産業廃棄物。パンパンに詰め込まれた郵便受けから吐き出された赤青黄色の督促状が、足跡のない雪の上に色鮮やかに幾何学模様を描き出す。雪が覆い隠しても誤魔化せないほどの寂れようで、これで基準外であることに衝撃を受けた。

「こんにちは、調査に来た洞家ですが」

 二階の渡り廊下の先にある209号室が初島さんの部屋だった。微笑んだおばあさんのゆるキャラ【 『おうな』が描かれた古い玄関チャイムを押すと、「お待ちくださいねぇ」と柔らかみのある声がこちらを迎え入れてくれる。

 この『おうな』は市民からの評判はあまり良くないらしいけど、優しかった祖母を思い出すから私は結構気に入っている。微笑みながらも何故か視線だけ上向きなのが気持ち悪いと言われる所以だけど、描いたデザイナーさんは既に亡くなっているようで、真相は誰にもわからない。

「はいはい、お待ちしてました……」

 遅れて出てきた初島さんは、私の隣にいる井道さんを見て一瞬顔をへの字に歪ませた。

「あ、すみません。こちら、同じ係の井道です」

「どうも」

 初島さんは井道さんをじっと見つめたまま動かない。視線の先では井道さんのくるんとカールした寝癖が風に揺れていた。

「俺になにか」

「お兄さん、難儀な体だねぇ」

「……どうも」

 初島さんの熱っぽい目と粘ついた声に流石の井道さんも思わず後退りしたのだった。

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