第一話

揺り戻し

「訪問に行ってきますー」

「はいはい、気をつけてね~」

 私、 洞家日和どうかひよりが事務所を出ようとした時、保護課4係の主査である藤堂玄弥にいきなり呼び止められた。

「ねえ、足泊あしとま地区に行くなら俺も一緒に乗せてくれない?」

「えっ、私……ですか?あ、もちろん大丈夫ですけど」

 藤堂主査に声をかけられたのはその日が初めてだった。

 私は北海道の雨納芦うなあし市役所にこの春採用された新米ケースワーカーだ。関東の四年生大学を卒業後、人口八万程度で都会過ぎず田舎すぎないこの土地に憧れて移住してきたばかり。

「ありがと!実は車取れなくて困ってたんだ。荷物取って来るから先に行ってて、洞家さん」

 藤堂主査が慌しく走り去り、コーヒー牛乳のようにほんのり甘い香りが私を包み込んだ。

「了解です!」

 ようやく半年の仮採用期間が終わり、私が公用車を運転してケース生活保護受給者の家まで行けるようになったのはつい最近のことだ。それまでは汗だくになりながら自転車で担当地区まで外勤していたから、一度車の楽さを知ったらもう戻れなかった。

 雨納芦市の保護受給率は人口の0.8%ほどで、これは全国的にかなり少ない方らしい。全部で五つある係にはそれぞれ三人のケースワーカーがいて、四十世帯程を抱えている。

 それだけ職員がいると必然的に使える公用車の台数が限られることから、近場の地区同士で乗り合わせて外勤に行くことが多かった。

「……洞家ぁ。仕事に集中しろよ」

「わっ、すみません」

 後ろから同じ保護第一係の主査、 無貌依子むぼうよりこに一喝され、私は慌てて背筋を正した。優しいと評判の先輩に声をかけられ少し浮き足立っていたかもしれない。

「藤堂ぉ、お前もだからな!」

 厳しいことで有名な無貌主査の前であまりに迂闊だった。無貌主査がまとう無言の圧力が私の背中をくすぐった。

「おいおい無貌、あまり新人を怖がらせるなよ」

 いつの間にか私の横に藤堂主査が涼しい顔で立っていた。藤堂主査は彼女の圧に屈せず対等に話しができる数少ない人物らしい。

「お前が手を出すからだろ」

「あのなぁ……。他係との乗り合わせなんて普通だろ。もう行こうか洞家さん」

 藤堂主査は会話を早々に切り上げると、すたすたと事務所を出て行ってしまった。

「あ、はい! すみません」

「……気をつけろよ」

 藤堂主査を急いで追う最中、無貌主査の低く重い声が私の背中に鋭く突き刺さった。


「無貌に何かされたら俺に言いなよ」

 発進前の公用車の車内で、藤堂主査が私にこっそりとそう耳打ちした。

「ありがとうございます! 無貌主査とはよく話すんですか?」

「一応同期だからね。まあ、腐れ縁ってやつさ」

「なんか羨ましいです。私、同じ係なのにいまだに話しかけずらくて……」

「あはは、あんだけピリピリしてたら仕方ないさ。あれでも昔は穏やかだったんだけどなぁ。あんな……」

 藤堂主査はそこで不意に動きを止めると、とろんと恍惚の表情を浮かべてその場に立ち尽くした。

 視線が虚空を彷徨い、半開きの口から壊れたラジオのように言葉の断片が漏れ出ていた。

 注意深く聴くとそれは祝詞のように独特なふしを持っているのがわかったが、およそヒトの口から発せられるとは思えない何かだった。

「あの……大丈夫ですか」

「ん、ああ、行こうか」

 声をかけると途端に藤堂主査の目に光が戻り、録画された映像を途中から再生するように滑らかに公用車を発進させたのだった。


「今日の外勤はどんなとこなの?」

 片手ハンドルで軽快に車を走らせながら藤堂主査が私に聞く。なんかやることなすこといちいち絵になるんだよな、この人。横顔なんてもう整いすぎて絵画みたいだし、左手に光る高級感溢れる腕時計とシックな灰色のシャツがまた似合う。大きくて空のように澄んだ青い瞳で屈託なく笑うその姿は、見るものを捕らえて離さない。

 藤堂主査が隣にいるだけで、ただの古びた軽自動車がたちまち高級外車に早変わりだ。

「えーと、今日は足泊通あしとまどおりにある有料老人ホームと、近場の世帯を数件回る予定です」

 ケースワーカーは市役所職員でありながら私服で勤務できる特殊な部署だ。スーツ姿で訪問すると役所の人間であることが一目瞭然なので、ケースのプライバシーに配慮してそうしている。この車も市役所の名前が入っていない覆面公用車だった。

「そっか、有老なら空振りもなくて安心だ。それにしてももう半年かぁ。時が経つのは早いね。どう、訪問にはもう慣れたかい」

「いやぁ、それが中々慣れなくて。全然予定通りにいかないんですよね」

 ケースワーカーの主な業務の一つが訪問調査だ。

 日本国憲法第二十五条で定められた理念に基づき、ケースは生活保護法で健康で文化的な最低限度の生活を保障されているのだが、その中で当然守らなければいけないこともあった。

 働ける者は働いて、売却できる資産を処分し生活費にかえつつ、公的年金や介護サービスといった他の制度をできる限り活用しなければならない。

 だから訪問してケース一人一人の生活状況や課題を聞き取るのだが、雑談やらお茶菓子やらで中々帰れなかったり、逆に上手く会話が続かなくて時間が余ったりと、これまで予定通りにいった試しがない。

 それに、知らない人の家ってどこか居心地が悪いんだよなぁ。

「はは、わかるよその気持ち。俺も最初は断りきれずに長居して、次の予定飛ばしたこともあったっけ」

「ええ、本当ですか」

 藤堂主査の笑った口の端から眩しいほどに白い歯が覗く。完全無欠に見える先輩の慌てふためく姿は、とてもじゃないけど想像できなかった。

「そういえば藤堂主査って隣の幕湊まくみな地区担当でしたよね。こっちに用事あるんですね」

「ああ、探してるのさ」

「ケースの引越し先とかですか」

「ん? まあね」

 生活保護法の基準内の家賃で物件を探すのはケースにとって大変な労力がかかる。

 ー深入りするなよ。戻って来れなくなる。

 無貌主査には常々そう言われてるけど、ケースのために親身になるのはいいことだよね。足泊地区は市の中心街だし、他の地区よりも転居先も充実していた。

「おっと。この辺りだ」

「ぐえっ」

 藤堂主査が突然急ブレーキをかけて、身体を振られた私は思わず蛙を踏みつぶしたような醜い声を出してしまった。穴があったら入りたいとはこのことか。

「じゃあ、俺はここで降りるよ」

 藤堂主査は車を路肩に停めると、サッと車外に躍り出る。

「あ、わかりました。ええと……帰りはどうしますか?」

「ありがとう。終わりの時間が違うから、帰りはゆっくり歩いて帰るよ」

 私は颯爽と去っていく藤堂主査の背中を黙って見送った。どこまでも広がるうろこ雲の切れ間から、不自然なほど澄んだ空がこちらを覗いていた。


 *


 順調に老人ホームとその近隣ケースへのアポ無し訪問を終えた私は、外勤の最後にとあるアパートに赴いた。

 伸び放題の雑草が放置され、外壁塗装があちこち剥がれたその古びたアパートには棚橋洋子という六十七歳のケースしか住んでいなかった。

 重い足取りで錆びついた外階段を登ると、カンカンと乾いた音がひつじ雲に吸い込まれていく。

 私の心に共鳴するように、空模様も翳り気味だ。

 無造作に貼られた不動産会社のチラシと壊れた網戸の網が肌寒い秋風を受けて虚しくはためいている。

 棚橋さんの部屋の前に立つと、微笑んだお婆さんの顔——これは雨納芦市のゆるキャラ、「おうな」だ——が描かれた古い玄関チャイムが私を暖かく出迎えた。

 それとは対照的に、押しボタンは何重にもガムテープが貼られていて、セールス、勧誘お断りを謳う角の剥がれたステッカーがすりガラスの上で鈍色に光っている。

「誰だい」

「ふわっ」

 ノックもしていないのに郵便受けの隙間からくぐもった声が漏れ、私は居眠りから起こされた学生のように間の抜けた声を上げた。

 まさか四六時中ドアにべったりと張り付いているのだろうか。

「あ、こんにちは、洞家です。お電話頂いた件で伺いました」

「ああ」

 少し間があって、次々と鍵を開けるガチャついた音が聞こえてくる。

 ようやく出てきたと思ったら、棚橋さんは玄関の前に立ち塞がってしまい、そのまま寒空の下で立ち話をすることになった。

 棚橋さんは三和土に置かれた欠けて色褪せたバケツを引き摺って、跳ね返ってくるドアのストッパーにした。中には緑色のなんだかわからないものが大量に漬けてあり、足元からすえたカブトムシの臭いが漂ってくる。

 ちらりと見えた薄暗い部屋の中は床一面に新聞紙が引かれていて、ゴミがあちこち散乱し足の踏み場もないほどだった。

 改めて顔に目を向けると、黒い穴のようなまあるい両の目玉の間から、今にもちぎれそうなほどに垂れ下がった鼻が覗いていた。小さくすぼんだ口は神経質そうに尖っていて、そこからみちゃみちゃと湿った音が漏れ出ていた。

「それで、老齢年金の件ですが」

 数日前に本人から「年金を盗られたから保護費を返して欲しい」旨の電話があったが、どうにも話の要領を得ないことから臨時訪問する運びになったのだ。

 収入がある世帯はその分だけ保護費を差し引いて支給していて、偶数月に老齢年金を受給中の棚橋さんもそうだった。

「あんたも印念と同じ手先なんだろ」

 棚橋さんは似顔絵の紙をくしゃくしゃにしたような酷い顰めっ面で言った。

 手元のメモを見ながら順番に話を聞いていくという私の目論見が早くも崩れ去っていく。

「えっ、手先?」

 前担当の印念さんは私が配属される直前に体調を崩したとかで、既に退職していた。

「橋本だよ。ぱっちりして、短く明るい髪で。……顔を思い出すだけで寒気がする。あんたも随分と似とるなぁ」

 棚橋さんは顔をぐいいと私に近づけると、値踏みするように隅までじろじろと睨め回した。燻んだエプロンが風で棚びき、雑巾の汁を煮詰めたような臭いが私の鼻腔を突き刺した。

「橋本さん?」

「ほんっ……と忌々しい。毎日毎日毎日」

「あの、嫌がらせとかですか」

「あんたにいい事教えてやる。地下だよ」

 棚橋さんは弥次郎兵衛のようにふらふら話題が逸れるので、会話についていくのが精一杯だった。

「ほれ、そこの街灯の下。あそこに秘密の階段があってな。そこからこっちをずうっと見張ってるのさ。ああ嫌だ嫌だ。あんたにも見えるだろ? ほれ」

 棚橋さんが指した街路灯の付け根部分は、コンクリートの舗装ではなく銀色の鉄板で覆われていた。確かに見ようによっては謎めいた地下室の入り口に見えなくはないが、恐らくそこから千年万年凝った怨嗟の声も、とても言葉で表せないような醜悪で冒涜的な容貌のナニカも出てはこないだろう。

「あいつがあたしの年金をぜぇんぶ持ってった。卑しい盗人だよ。通帳から何から名義を勝手に変えて、あたしを貶めようとして。あいつは……」

 〈あれ?〉

 街路灯の周辺をうろつく人影が見えて目を凝らすと、果たしてそれは藤堂主査だった。もうとっくに帰庁したとばかり思っていたけど、まだ引っ越し先の物件を探しているのだろうか。

 藤堂主査は地面に顔がくっつきそうなほど腰を曲げた不自然な姿勢で歩き回っていて、時折何かを愛でるように歩道に頬擦りし、あまつさえ蓋の裏に残ったヨーグルトの残り滓のように端から端まで執拗に舐め回していた。

「ちょっとあんた、聞いてるのかい?」

「あ、すみません。でも、年金事務所には本人以外が勝手に口座変更の手続きができないことを確認済みです。なので、口座の変更は棚橋さんが自分で……」

「あたしはそんなことしないよっ!!」

 突然棚橋さんが顔を真っ赤にして怒鳴り出したので、私は危うく階段から落ちそうになった。閑静な住宅街に棚橋さんの声がこだまする。

「す、すみません」

「振り込まれてないだろ! ほれ、通帳。見てみな。橋本があたしの印鑑偽造して自分の口座にいれた証拠だよ。ほれ。ほれ。ほれっ」

 目の前に三度突き出された通帳を慌てて目で追うと、確かに途中から年金の支給がぱったりと途絶えていた。

「ええと、確かに見た感じ振込はないですけど……。でも、もし本当だとしたら立派な犯罪なので、きちんと警察に相談した方が」

「警察にはとっくに調べて貰ってんだよ! あたしゃ中央署の副所長さんと知り合いなんだから。ほれ」

 棚橋さんは私の会話を遮って懐からくしゃくしゃの紙を取り出すと、私の手に無理やり握らせた。その場で広げてみると、幼い頃に流行った呪いの手紙のように不穏で目障りな文字で「うなあしちゅうおう 安山巌」と書かれているのが辛うじて読みとれた。

「でも、棚橋さんの同意なしに振込口座は変えられなくて」

「いーや、あいつは何だってやるよ。書類の偽造なんてお手のものさ。気づかないのはあんたら役所のミスなんだから、早く金返しな」

「ええと、だから、同意なしでは口座の変更はできなくて。本人確認書類だって用意できないでしょうし……」

「あたしの留守中に勝手に家に忍び込んで、保険証や鍵を複製したのさ」

「証拠とかあるんですか」

「あいつはやるよ」

 棚橋さんの目は最初からずっと蛇のように私を捉えて離さないでいて、とても正気を失っているようには見えなかった。それなのに私の言いたいことが、ともすると日本語さえもが伝わらない。

「だから」「いいや」「でも」「いいや」「それなら」「いいや」「いいや」「いいや」

 そこから不毛な議論を何度も繰り返し、その度に説明して、説明して、説明して、ようやく一定の理解を得ることができた……と思う。

 棚橋さんとは終始初めて会った友人の友人と話した時のような噛み合わない居心地の悪さを感じていた。

「ああそうかい。でもあんた、橋本の手先じゃないだろうね」

 その後は通院状況や部屋の掃除といった当たり障りのないことを聞いた気がするが、正直内容はあまり頭に入ってこなかった。

 アパートを後にすると、気づけば街路灯が煌々と地面を照らしていて、藤堂主査は影も形もなくなっていた。件の街路灯周辺にはもちろん地下の入り口なんてなく、鉄板が白い光を浴びてニヤりと笑って見えた。


 *


「それは軽度の認知症か無自覚の統合失調症かもしれないね。まあ、洞家さんも言われたことを必要以上に間に受けちゃいけないよ。彼らを本気で理解しようと思ったら、それこそ自分が同じステージに立つしかないんだからさ。何かあってからじゃ遅いから、まずは包括に連絡したらどう?」

 藤堂主査に昨日の挨拶がてら棚橋さんの様子を伝えると、意気消沈した私を見兼ねてかアドバイスだけでなく励ましの言葉まで貰ってしまった。イケメンで優しくて仕事もできるなんて、尊敬を通り越してもはや崇めてしまいそうだ。

 自分でも軽く調べてみたけど、どちらの病気も誰かに見張られている、物を取られたといった妄想や、部屋を片付けられなくなることがあるらしい。振り返ると、どれも棚橋さんの言動に当てはまっている。

 助言に従い足泊地域包括支援センターに早速連絡を取って状況確認に行って貰ったけど、

「体は何ともないよ。介護なんていらんわ」と申し出はあっけなく断られてしまった。本人が望まない以上、余程のことがない限り包括もそれ以上は踏み込めないようだ。

 ちなみに、あの時見た藤堂主査らしき人については、

「俺かい? あれから少し見回ってすぐに帰ったよ。たまには歩くのもいいもんだ」と本人が言っていたので、きっと私の見間違いなのだろう。


 *


「……ていう人がいて中々大変だったよ」

 私は中心街にある居酒屋「振り子」のカウンターで、同期である木月胎衣きづきはらいとまったりお酒を酌み交わしていた。三十三人の同期のうち、変わらず付き合いがあるのは彼女を含めもう数人だけになっていた。いや、数人どころか契約代行課の不動なごみくらいなものかもしれない。

「……そう。保護課って結構キツい仕事なのね」

 彼女は人事課に配属され、会計年度任用職員の雇用全般を担当している。かなり忙しい部署で残業続きらしく、漆のように艶やかで長い黒髪をはためかせて凜と歩く姿はすっかり鳴りをひそめ、静電気を全身に浴びたようなパサついた髪をして、頬は痩けて目の下にはうっすらくまもできていた。

「どこか調子悪いの?」

「……私は大丈夫。そんなことよりあなたこそ平気なの?」

 彼女の草臥れた姿から想像できない程に慈愛に満ちた声色で私に語りかけた。

「え、別にいつも通りだけど」

「うそ。まさか気づいてないの」

 彼女は大きな目を更に見開いて大袈裟に驚いて見せた。彼女の瞳にはいつもの眠そうな顔をした私が映っている。

「気づくって何に?」

「この街は危険よ。あの道が良くないとか、この場所に曰くがあるとか、そのレベルじゃないの。。あなたも少なからず感じているんじゃない?その証拠に、いなくなった職員が多すぎる」

 彼女は由緒正しき巫女の血を引いているとかで、いつも仰々しいことばかり言っていた。確かに前任の印念さんも辞めちゃってるし、同期の中には早くも休職したり退職した人が結構いて、社会の厳しさを実感している。

 でも。

「私は住みやすいと思うけどなぁ」

 ここには都会のゴミゴミした感じがないし、山に囲まれ自然豊かな大地は水も空気もとにかく美味しい。町全体が私を歓迎しているようなどこか懐かしくこそばゆい感じも好きだった。

 百年ほど前に市の北に位置する灰振山で大規模な火山活動があったけど、それ以降は自然災害が全く起きていないのも魅力的だ。

「それもある意味才能……か」

 彼女は意味ありげに呟くと、グラスの中の真紅の液体を一気に飲み干した。店内の明かりに照らされて琥珀色だった彼女の頬が、みるみる赤く染まっていく。

「まあでも、その腕の怪我だけはいただけないわね」

「あれ、よくわかったね。私言ったっけ」

 今は服で隠れているけど、実は昨日帰宅途中に路地裏で見つけた黒い猫のような動物に右腕を引っ掻かれてしまったのだ。

 夢中で餌を漁ってる所にたまたま出会して、撫でようと思って近づいたら、いきなり引っ掻いたかと思うとケタケタ笑いながら暗がりに消えてしまったのだ。

「私を誰だと思ってるのよ」

 彼女の探偵ばりの洞察力にはいつも驚かされてばかりだった。

「可哀想に、障られてしまったのね」

 腕をまくられると、そこには焼きすぎたトーストのようにどす黒く変色した包帯があった。

 軽く引っ掻かれただけなのに何故か包帯を替えても替えても血が止まらなくて正直困っていた所だ。

「※※※※※※」

 彼女が耳慣れない節のような何かを口ずさみながら私の傷口に指を這わせると、不思議なことに包帯から黒色だけが削げ落ちていった。

「わぁ、ありがとう」

「これに懲りたら無闇やたらに手を出さないことね。あんなもの普通は躊躇うでしょうに」

「え、なんで。可愛いじゃん」

「はぁ。お手上げだわ」

 彼女から言葉ほどの棘は感じられず、むしろ楽しんでいるようにさえ感じる。

「……ねぇ、板垣さんって知ってる?」

「板垣さん? うーん、知らない。誰その人」

 初めて耳にする名前だ。他の部署にいる職員だろうか。

「さっき言ってた橋本さん、昔は板垣さんって呼ばれてたらしいわ」

「えっ」

 橋本さんが板垣さんだった?ええと、つまり、婿養子になったとか、親が離婚したとか?そもそも昔の橋本さんをなんで彼女が知ってるんだろう。

 ……ダメだ、アルコールのせいで頭がうまく働かない。それ以上聞こうとしても、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべてはぐらかすだけだった。

「ふふっ。なんだか日和と話すと安心するのよね。あなただけは、いつまでもそのままでいてね。私はこれからもこの町の歪みを調べ続けるから」

 別れ際、彼女は私に小さなマネキン人形を手渡した。何でも、とある森にある御神木から作られたとかで、御守り代わりに持ち歩くとよいそうだ。

「はぁ。ありがとう」

 彼女の言ってることは時々よくわからない。でも、私のことを心配してくれるのは嬉しいな。


 *


 「あんた、やっぱり橋本の手先だったね。今すぐお金と通帳返さんとエラい目に遭うよ!」

 私は今、出勤してすぐに棚橋さんからクレームの電話を受けているのだが、どうやら昨日の話を綺麗さっぱり忘れているらしい。それどころか棚橋さんの中では何故か私が通帳を盗ったことになっていて、その誤解を解くのに一苦労だった。

「見せてもらいましたが、通帳は棚橋さんが自分でしまってましたよ。それに、年金は棚橋さんが自分で手続きした別な口座に振り込まれているはずです」

 そう何度説明をしても、自分の尻尾を獲物と思って追い回す蛇のように「そうかい。それで、あたしのお金は?」と話が戻ってしまい、こうして一時間以上も不毛なやり取りを繰り返している。

 同じ係の井道佐和李いみちさわりさんならそういう時、「もう堂々巡りだし切るから。これ以上もう話すことないんで」とか言ってスパッと電話を切るんだろうけど、そんな勇気を私は持ち合わせていなかった。できるなら相手に分かってもらいたいし、仮に同じことをしても余計に拗らせる未来しか見えてこない。

「あの、先ほども言いましたが、受給口座は他人が勝手に変えられないんです。だから」

「何遍も何遍も……。あたしをバカにしてるのかっ!」

 受話器が爆発するほどの大声で棚橋さんが怒鳴り散らし、周囲の視線が一斉に私に突き刺さった。

「あんたなんかクビだ! さっさと橋本にふられてしまえっ!」

「洞家さぁん、ちょっと貸してねえ」

 あまりの勢いに面食らった私を見兼ねてか、隣にいた鳥狛礼司SVとりこまれいじスーパーバイザーが流れるような所作で私の手から受話器を取り去った。

「どうもぉ、洞家の上司の鳥狛です。ああぁ、はいはい。もちろん聞いてますよぉ、お噂はかねがね……ね。あの橋本さんですよねぇ」

 ケースからの要求や訴えは日常茶飯事だが、その中には理不尽なものも多々あるのが現状だ。

 そうした案件にいざ自分が相対すると、まず理屈が通じないことに戸惑いを感じた。見た目も喋る言葉も一緒なのに、会話の意味を理解していないというか。棚橋さんと話をしていると、正しいはずのこっちの足元が抜かるんだ汚泥に立つがごとく覚束なくなっていく。

「あはは。わかります、わかりますよぉ。橋本さんにも困ったもんだ。もう結構経つからそろそろ潮時かもしれないですねぇ。ええ、次はしっかりウチから出しますから、どうかここは一つお願いしますよぉ」

 定年間近の鳥狛SVは、後退した生え際の下に八の字のように目尻と眉毛が下がって口元に常に微笑を携えた、好々爺然とした見た目にぴったりの優しくゆったりとした声と話し方をしていて、のらりくらりと相手の怒りをいなしていた。

「ああ、良かった良かった。お眼鏡に合う手土産を期待してて下さいねぇ」

 しばらくすると棚橋さんともすっかり打ち解けた風で和やかに会話を終わらせていて、その話術を見習わなければとしみじみと思ったのだった。


 *


「かむるのもりにおわしますかさいさまはな……」

 市役所三階の応接室に、棚橋さんの粘ついた声だけがこだまする。私はもうかれこれ一時間以上も棚橋さんの一人語りを聞かされ続けていた。

 今まで電話で済んでいたクレームが、遂に市民課の窓口に来庁して市長への手紙を持ってくるに至り、

「さんべそそのあんきょにささげられしみはしらの……」

 目と鼻の先にあるしわくちゃの顔の真ん中にぽっかりと黒い穴が空いていて、そこから唾液と共に吐き出される奇妙な言葉の羅列をどうにも頭で変換できないでいる。

 皮でできた長椅子にたぱたぱと透明な露が落ち、

辺りにすえたカブトムシの臭いが立ち込める。

「さんたつむのかごでゆられしみたまの……」

 取り止めのない話を延々と、私の口を挟む隙間もないほどに滔々と。壁掛け時計の針が刻む音が耳元で囁かれるほどに大きく聞こえてくる。

「あんた、かねかえさんとふられるぞ」

 棚橋さんは私にシミだらけの茶封筒を叩きつけると、不自然に首を左右に揺らしながら去って行った。応接室の時計の針が、戻らない空虚な時間を嘆いていた。


 *


「外勤行ってきます……」

「ふふふ、粗相のないようにねぇ」

 鳥狛S Vの励ましが心に沁みる。

 私の少し前に外勤に出た無貌主査からも、

「くれぐれも気をつけろよ」と強く強く念を押された。私の顔がよっぽど思い詰めていたのだろう。澄み切ってどこまでも青い空を見ていると、自然と視界がぼやけて空に染み出した。

 市長へ手紙を出されたからには、こちらも回答文章を作成する必要があるのだが、そこまでいく前に棚橋さんの理解を得られなかった自分が情けない。

 私は気落ちしつつも、足泊地区へ定例の訪問調査に向かった。複数世帯を抱えるケースワーカーとして、棚橋さんだけに時間を割く訳にはいかないのだ。

「洞家さんもしかしてこれから外勤?良ければ乗せてくれると助かるなぁ」

 公用車に乗り込む直前、大きな紙袋をぶら下げた藤堂主査に偶然声をかけられた。

「えっ。あ…ぜひお願いします!」

 ほんと、登場のタイミングまで神だなこの人は。いつもように爽やかに笑う藤堂主査は、雲の切れ間から除く太陽のごとく煌々と輝いて見えた。


「ははは。行動力あるね、そのケース。そのエネルギーを他に活かせば凄いことができそうだ」

 運転席で少年のように無邪気に笑う藤堂主査を横から眺めているだけで、不思議と気持ちが軽くなっていく。私も藤堂主査のように、どんな時でも余裕を持って仕事に臨みたいものだ。

「結局何が正解だったのかわからなくて……」

「うん、難しいよね。特に精神疾患はさ、関わり過ぎるのも良くないんだ。依存されちゃうからね」

「じゃあ、井道さんみたいに早めに切り上げるのが正解ですか?」

「いや、放っておくと自傷や他害の危険性もある。かと言って相手の思いを傾聴するのにも限度があるよね。だから、上手く聴いて、適切な関係機関に速やかに繋ぐ。ケースワーカーにできることは多くないよ。その辺のバランスが大事なんだ」

「はぁー、ためになります。親身になるのが必ずしもいい訳じゃないんですね」

 私はその言葉ですっと胸のつかえが下りた気がした。

 そうだ、私は資格がある訳でも相談のプロでもなく、文学部を卒業したてのただの新卒市役所職員だ。そんな私が一人で全て解決しようと考えること自体がおこがましい。

 もちろんいきなり実践してすぐに上手くいくわけじゃないけど、少なくとも目指すべきところは分かった訳で。

「おっと」

 ごとっ。

 舗装されていない悪路に車が大きく振られ、車内にくぐもった音が響く。バックミラーをチラリと覗くと、後部座席に置かれた赤い紙袋がドアにべったりとだらしなくもたれかかっていた。

「そういえば、あの紙袋って何ですか?」

「ああ……手土産だよ」

「手土産」

 紙袋の下はとっぷりと濡れそぼち、シートには乾わききった血潮のごとくどす黒い染みが広がっていた。そういえばさっきから車内が生臭い気もするから、中身は海産物なのかもしれない。でも、公務員が手土産っていいんだっけ。

「あれ、そういえばここ」

 話に夢中で気付かなかったけど、車はいつの間にか棚橋さんの家の近くの細い路地を走っていた。少し先で例の地下室の入り口が太陽に照らされ鈍い輝きを放っている。もしかして、私を先に降ろしてくれるつもりなんだろうか。

「例えば起きがけの眠い目を擦りながら濁った頭で部屋を見回したとき」

 ふと横を見ると藤堂主査の顔が以前見せた溶けかけのアイスのようにどろんと崩れかけていた。

「あの」

「ふとした瞬間に視線を感じて青空を見上げたとき」

「ええと」

「自分の生きる場所はここじゃないなって感じたことはないかい?」

「もしもーし」

 何度目かの私の呼びかけで藤堂主査の目に光が戻ってきて、しかしそれは死に際の病人が魅せる命の煌めきのようにか細く妖しく揺らめいているのだった。

「いまの」

「関わり過ぎるとさ」

 藤堂主査は唇の前でわざとらしく人差し指を立てると、私の話を笑顔で遮った。光の加減なのか、いつもの優しい表情に随分と翳りが見える。

「どうなると思う?」

 藤堂主査の手が私のお腹の辺りをうっかり背中に転がり込んだ蜘蛛のようにもぞもぞと動いていたかと思うと、かちり、と私のシートベルトが外れる音がした。

「えっ、何して……」

「どうなると思う?」

 藤堂主査は録音されたテープを巻き戻すように、寸分違わずそれを繰り返す。

「どうなるって……うっ」

 次の瞬間、藤堂主査が勢いよくアクセルを踏み込んで、私は弾みでシートに強く押し付けられた。

 陰は一層濃くなって、張り付いた仮面がぼろぼろ崩れ去っていくようだった。

 唸るエンジン音に紛れてかちかちと奇妙な音が聞こえてくる。気づいた時にはもう私の目の前に電柱が立っていて、まるでスローモーションのようにゆっくりとこちらに迫っていた。

「魅せられちゃうから」

 どんっと激しい衝撃があって、私はフロントガラスに頭から突っ込んでそのまま意識を失った。闇の中で、不自然に首を傾けた棚橋さんが口が裂けんばかりに満面の笑みを浮かべていた。


 *


 かちっ。

「ん……」

 磁石が吸い付くような軽い衝突音がして、私は薄暗い部屋で目を覚ました。コンクリートのひんやりとした感触が気持ちいい。壁にかけられた蝋燭の柔らかな灯りが天井付近の闇を朧げに照らしていた。

 壁際には女性のマネキンがずらりと並べられ、その首がゆらゆらと左右に揺れていた。並んだ間隔が狭いからか、傾いた拍子に隣の頭どうしがかち合って乾いた音を立てている。

 かちっ。

 家にも昔、そんなおもちゃがあった気がする。

太陽電池でずっと動き続ける花のやつ。あれ、単純なのに何故か目が離せないんだよなぁ。

 かち、かち。

「ああ。ようやく……。ようやくだ!」

 奥の方から藤堂主査の興奮した声が聞こえてきた。私は半身を起こすが、どうにも足に力が入らない。諦めてそのままの体勢で目を凝らすが、部屋の奥はとっぷりとした闇が蠢いているだけだった。

 辺りには私の外勤用のカバンから飛び出たものが散らばっていて、何故か木月さんから貰った御守りの人形だけは私の胸ポケットにすっぽりと収まっていた。

「聞いてるだろ? 次は俺の番だ」

 蝋燭の灯りでてらてらと妖しく輝くマネキン達が、私に優しく微笑みかけている。どのマネキンも人形とは思えないほど端整で艶めかしい表情をしていて、私もあそこに並びたいとさえ思ってしまうほど彼女たちは魅力的だった。

「これで俺を◼️◼️さんにしてくれ」

 かち、かち、かち。

 時計の秒針と同じように、一度気にしてしまうとやけに音が大きく聞こえ、いつまでも耳にこびりつく。

 ここはケースの家か何かだろうか。窓も電気もない天井の低いワンルーム。

「聞いてないのか」

 いつの間にか目の前の暗がりに男の生首が浮いていた。それは子どもが見様見真似で作ったヤジロベエのように不恰好で不規則にゆらゆらと左右に揺れている。左右の目が極端に離れていて、半開きの口と濁った目は小さい頃に空想上の動物を集めた図鑑で見た醜い半魚人を思わせた。

 藤堂主査は手に持った赤い紙袋を生首の前に乱暴に置いた。中に入った茶色の何かがばさりと揺れる。

「さあ、はやくっ!」

 藤堂主査が床を叩いた拍子に紙袋が倒れ、中身が勢いよく飛び出した。

 私はごろごろ転がってきた彼女と目があって、その瞬間に時間は緩やかに引き延ばされていった。

 大きく見開いた目はまるで木月さんみたいで、濁った瞳は生前さぞ綺麗だったことだろう。

 彼女は首だけだった。私は彼女と長い間見つめ合った。乾いて色を失った唇から、声にならない音が漏れる。

 「あ•つ•い」

 確かにここは秋だというのにじっとりとしていて、まるでサウナに入っているみたいに蒸していた。

 手を伸ばそうとすると、彼女は明るい茶髪をばさばさと揺らしながら暗がりに溶けていった。

 生首は藤堂主査には目もくれず、頭を左右に大きく振りながらゆっくりと私の元へ浮遊してくる。どういう訳か胸ポケットの中の御守りの人形もそれに呼応して緩やかに首を振り始め、にわかにクリック音の輪唱が始まった。

 かち、かち。

 目の前に来て初めて、生首から下が生えていることに気づく。体に対して頭が異様に大きく、黒い上下のスウェット姿も相まって首だけに見えたのだ。

 かっちかっち。

 男は私の目の前で立ち止まると、顔を粘土のようにぐにいっと私に近づけた。

 生臭い息が顔にかかっているのに、一向に私と視線が交わらない。男の目は左右それぞれ明後日の方向を向いていて、半開きの口から粘り気のある唾液がとろりと糸を引いて滴り落ちた。

 と、御守りの人形が狂ったように暴れ出し、遂には人形の首が力に耐えきれずに根本からへし折れて、からんと乾いた音を立てて足元に転がった。

「むぎをる、むぎをる」

 男は悲しそうな顔で何かを呟くと、人形を拾い上げて暗がりに消えていった。

「はやくはやくはやくはやく」

 藤堂主査はもう待ちきれない様子で、遠足前日の子どもくらいはしゃいでいる。

 少しすると、闇から染み出すように男が、左手に彼女の首を、一方の手には釘を打ちこむドリルのような機械を握って現れた。

 私はいまだ起き上がることが出来ず、その様子をただぼうっと夢見心地で見つめていた。

 男は端に一体だけ置かれた首のないマネキンの上に、手に持った彼女を無造作に嵌め込んだ。ぐりぐりと押し込む度に、彼女は発泡スチロールが擦れ合うような嫌な声で鳴いた。

 男は今度こそ藤堂主査の元に歩み寄ると、こめかみに無言で機械の刃を宛てがった。

「くふふっ。やあっと都市伝説の一部にぃ」

 粘ついた嬌声をあげる藤堂主査は恍惚とした表情で今か今かとその瞬間が来るのを待っている。

 機械が低く唸りを上げ、ゆっくりと刃先回転し始めると、すぐに部屋中が生臭い匂いに包まれた。

「んんんん」

 ドリルが骨を削る甲高い音が部屋の中に反響し、私は反射的に顔を顰めた。

「おっ。おっおっ。これこれこれかっ!これがみみみ見る景色いっ。俺のっがぎっぎぎががが!」

 麻酔も抑えつける器具もないのに、男は片手だけでゆっくりと確実に藤堂主査の頭蓋に刃をめり込ませていく。

 白目を剥いて痙攣している藤堂主査の口から、反射的に言葉の欠けらが吐き出され続けている。

 生臭さはもうツンとしたアンモニア臭に置き換わっていて、私の鼻腔を絶え間なくくすぐった。

 かち。かち。かち。かち。

 いつの間にか私の頭もマネキンと一緒に動いていて、藤堂主査のだらしなく緩んだ口元と肛門括約筋が私に幸せとは何かを思い起こさせる。

 かち、かち、ぎぎがが。

 かち、かち、ぐぐぐうっ。

 繰り返される言葉の断片と打ち鳴らされるマネキンの首を子守唄に、私の意識も揺り戻されて彼方へ飛んでいく。


 気づいたら私は棚橋さんの住むアパートの前に立っていて、傍で電柱に突っ込んだ公用車がボンネットを歪めて笑っていた。空は少し赤らんでいて、電線に止まったカラスが私を見て高い声で鳴いた。

 慌てて係に電話すると、鳥狛S Vが開口一番、「御守りがあって良かったね~」と気の抜けた声をだして、私はなんだか可笑しくなって吹き出してしまった。

 すぐに管財課が車両を回収に来てくれて、私も念のため病院を受診してレントゲンやらCTやらを撮ったけど、幸いどこにも異常は見つからなかった。診察室で見せられた脳の断面画像が無性に微笑んだ人の顔に見えて、私はこそばゆくてついつい首を左右に振った。

 帰庁してすぐに無貌主査に「だから言ったろ」と声をかけられたけど、私にはなんのことだかさっぱりわからなかった。

 窓口にはこんな時間でもケースが溢れていて、平常運転だなぁとしみじみと思う。

「俺が車に乗ってる証拠でもあんのかよ!」

「そんなのしょうがないじゃん。私に死ねって言うのぉ」

「俺が藤堂さんだ!」

「腰が痛くて働けないんです……」

 記憶の網に一瞬何かが引っかかり、けれど掬った手の隙間からさらさらと砂がこぼれ落ちるように忘却の彼方へ消えていった。

 私は白紙の事故報告書を前に途方に暮れる。これから身に覚えのない事故の状況を詳細に書き起こさなければいけないのだ。棚橋さんから受け取った市長への手紙と合わせて、しばらくは忙しい日々が続きそうだ。

「まあ、なんとかなるかぁ」

 不思議と気分は悪くない。むしろ、待ち望んでいた願いが叶ったような、どこか満たされた気分だった。

 事務所から望む雄大な灰振山が、夕陽を浴びて燃えるように輝いてみえた。

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