第4話

「二宮綾佳(にのみやあやか)……さん? えっ、僕のこと見え……てるの?」

「見えてるってどういうこと? ちゃんと見えてるよ。びしょ濡れの水瀬くんが」

 ようやく僕のことが見える人が現れて、「良かった」という言葉と同時に思わず涙がこぼれた。

「どうしたの? 大丈夫?」

 止めようと思っても、涙がどんどんあふれて止まらなくなった。


 綾佳は、優人が周囲の人に見えていないことなど分かるはずもなかったが、泣き崩れている優人が、まるで見えていないかのような雰囲気に対して不思議に思っていた。

「何があったの?」

 そう綾佳に訊かれるが、優人は泣いているため言葉を発せない。


 もちろん、綾佳にだけしか優人の存在は見えていない。そのため、泣き崩れている優人に目線を合わせるためにしゃがんでいた綾佳は、他の人から見ればしゃがんで見えない何かを見ている変わり者にしか見えなかった。そのため、すれ違う人全員に見られていた。さすがに視線が気になった綾佳。

「ちょっと、場所変えよ」

 そう言って駅内から出て、夜道を相合い傘をして2人は無言で歩いた。お互い肩がぶつからないようにと、2人の間には少しの隙間があった。綾佳は、優人が泣き止むまで待った。

 そして、泣き止んだ優人は階段を上りながら、今日あった出来事を綾佳に話そうと口を開いた。

「あのさ……僕」

「待って、着いた。話は中に入ってから聞くね」綾佳は笑顔でそう言った。

「ちょっと待って、ここって二宮さんの……」

「そう。このアパートの103号室に住んでるの。大丈夫、一人暮らしだから。」

 優人は心の中で、一人暮らしだったらなおさらダメだろとツッコんだ。

「そんなにびしょ濡れだと風邪、引いちゃうよ? ささっ、早く上がって」

「分かったよ……。お、お邪魔します」

 優人は綾佳に急かされ部屋に上がった。部屋の間取りは1R。ほんのり柑橘系の香りが部屋中に広がっている。

「一旦、これで拭いて。大体拭き終わったらお風呂沸かしてあるから入って」

 そう言って綾佳は優人にタオルを渡した。

 タオルで濡れた髪や顔を拭いていると、タオルからほんのりフローラルの香りがした。

「さっきから匂いばかり気にして気持ち悪いな」

 優人は独り言を言いながらお湯に浸かっていた。

「まさか僕のことが見える人がいたなんて……」

 そんなことを呟いていると感傷的になり、また涙がこぼれそうになった。

「あっ、着替えどうしよう」

 そんなことを考えながら浴室を出ると、案の定着替えがなかった。

「二宮さん……あのーそのー、僕が着れる服とかある?」

 申し訳なさそうにそう言った。

「あっ、忘れてた。そうだよね。全部濡れちゃってるから着れないよね。ちょっとだけ待ってて。すぐ買ってくるね。」

 そう言って綾佳は部屋を飛び出しコンビニへ向かった。5分後、綾佳は帰ってきた。

「ここ置いとくね」

 綾佳が優人の着替えを用意してくれた。優人は浴室から出ると、そこにはコンビニで買ってきてくれたパンツと、綾佳の高校時代の体操服が置いてあった。

「二宮さんの体操服だけど……着てもいいの?」

 そう問いかける。

「いいよ」

 ただ一言、そう返ってきた。本当にいいのかと優人は自分に問いかけながらも、本人がいいって言ってるしと自分を納得させた。

 そして綾佳の体操服をきた。優人が170cmで綾佳が169cmとほぼ同じ身長だったため、サイズ的には問題なかった。しかし、異性の同級生の服を着ているという事実に優人は緊張していた。


***


 お風呂から上がると座っていた綾佳が立ち上がった。

「私もお風呂入るから座って待ってて。あっ、覗いたりしないでよね」

 そう冗談っぽく言いながら、浴室へ入った。

 優人は待っている間、座りながら部屋を見回した。

「ちゃんと整理整頓してて、僕の部屋とは大違いだ」

 女性の部屋に入ることが初めてだった優人は、少し興奮しながらも、綾佳以外には見えていない事実と向き合っていた。

 そして待つことと10分、綾佳がお風呂から上がって部屋着を着ていた。

「水瀬くん、コーヒー飲む?」

 綾佳が訊いた。優人は綾佳の濡れた黒髪があまりにも妖艶すぎて見とれていたので、綾佳の問いかけを聞いていなかった。

「おーい、コーヒー要らないの?」

 聞こえなかったと思い、もう一度綾佳は訊いた。

「欲しい、ホットの砂糖多めで」

 優人はそう答えた。

「水瀬くん甘党なの? かわいい」

 そう言いながら綾佳は優人にコーヒーを入れた。

「どうぞ」

 綾佳はできたコーヒーを優人の前に置いた。

「ありがとう……」

 そう言って優人はコーヒーを一口飲んだ。砂糖の甘さが心に染みた。

「どう? 少しは落ち着いた?」

「うん。ありがとう」

「それは良かった。それでなにがあったの?」

 優人は人間関係に疲れて、病んで引きこもりになったこと。だから、自分の存在が誰からも視認されなければ良いと思っていたこと。そして今日、その思いが現実となって誰からも見えなくなったこと。そして、綾佳が見つけてくれたこと。これらを、1時間程かけて話した。綾佳は何も言わずに真剣に聞いてくれた。

 話し終えた優人は、また涙がこぼれてきた。その優人を綾佳は何も言わずに抱きしめた。

「辛かったよね」

そう一言だけかけた。また綾佳は優人が泣き止むのを待った。


「ごめんね、泣いてばっかりで」

 優人は綾佳に申し訳なくなって謝った。

「ううん、こんな状況誰でも怖いよ。これからどうするの?」

「正直、今は二宮さんが僕を見つけてくれて安心してほっとしてる。けれど、僕がここにいたら二宮さんの迷惑になっちゃうからさ。自分の家に帰るよ」

 優人がそう言うと綾佳は驚いた。

「帰ってどうするの?お母さんやお父さんに見えていない状態でどう生きてくの?」

 心配な顔をして綾佳は優人に訊いた。

「分かんない。今は死ぬのが怖いけど怖くなくなって死を選ぶかもしれない。けどさ、一番は二宮さんに迷惑かけたくないと思ってる」

「だったらここにいて欲しい。迷惑なんかじゃない。水瀬くんに死んで欲しくない」

 綾佳がだんだん感情が高ぶって涙がこぼれそうになった。

「分かった……ひとまず今日は終電なくなっちゃったから……泊まってもいい?」

「い……いよ」

 緊張気味に綾佳は言った。

「今日だけじゃなくて、ずっと一緒にいたいのに」 

 そう優人に聞こえないような声で言った。

「何か言った?」

 綾佳が何か言ったように聞こえたので、問いかけてみた。

「ううん、何にも言ってないよ」

 笑顔で嬉しそうに綾佳は言った。

「ってか水瀬くん、夕食は食べたの?」

 話を逸らすかのように優人に訊いた。

「食べてないけど別に気にしないで」

「大丈夫? お腹すいてない? 何か食べたかったら遠慮せず言ってね」

「うん、大丈夫だよ。ありがとう」


そこからは、高校時代の思い出話や綾佳の最近のことについて話していた。


「あ、もうこんな時間だ。」

 時計を見ると1時を回っていた。

「眠たくなってきちゃった」

 そう言って綾佳はベッドに移動した。

「そうだね。僕、床で寝るから。おやすみ」

 優人は床に横になろうとした。

「あのさ……一緒に寝てくれない……?」

 綾佳が言うと、優人は驚いた。

「なんで? 僕、床でも寝れるから気にしなくていいよ」

「違うの。その……雷が怖くて。だから、水瀬くんに近くにいて欲しいの」

 夕方から降り始めた雨は、時間が経つにつれて雷雨へと激しくなっていった。

「ふふっ」

 優人は綾佳を見ながら笑った。

「何?」

「意外だなと思って。二宮さんが雷を怖がるなんて」

「怖いものは怖いの」

 すると空が光って3秒後に雷鳴が轟いた。

「きゃっ!」

 少しわざとらしいように反応した綾佳。

「ねっ、一緒に寝て。お願い」

 綾佳にそう言われた優人。

「分かったよ……ベッドで寝るよ」

 優人は気まずそうな顔をしていたが、内心少し緊張と興奮していた。

 女性と一緒に寝るなんて初めてのことだった。優人は、ベッドに移動して綾佳と同じ布団に入った。室内はエアコンが効いていて、少し肌寒く感じた。

「この部屋、寒くない? 寒かったら調節するけど?」

 綾佳が優人に訊いた。

「寒いぐらいにして、布団をかぶるのが好きだからちょうどいい」

「私も同じ。一緒だね」

 そう言って綾佳は笑った。

「じゃあ、あのまま床で寝てたら風邪引いてたかもね」

 続けて綾佳がそう言った。

「風邪引いたら誰にも見えないから、病院にも行けないじゃん」

 優人がネガティブな発言をする。

「その時は私が看病して治してあげるね」

 綾佳は本心からそう言った。

「そうしてくれたら嬉しい。おやすみ」

 冗談交じりの発言だろうと思い聞き流した。

「おやすみ」

 綾佳が返した。


 そういやいつぶりだろう。おやすみって言うのもおやすみって返ってくるのも。おやすみってなんか良いな。そう思いながら優人は目を瞑った。

 お互い少し距離をとり、背を向け合って眠りについた。


 小一時間経ったとき、綾佳が口を開いた。

「まだ起きてる?」

「起きてるよ」

 優人は睡眠障害を患っていたため寝られるはずがなかった。色々な不安が頭をよぎっていた。もし、朝起きたら綾佳からも見えない状態になっていたらと考えていた。

「水瀬くんは今、シュレディンガーの猫状態だね」

 急に綾佳が言った。

「シュレディンガーの猫って?」

 優人が聞いた。

「シュレディンガーの猫は簡単に言うと、中にいると1時間に50%の確率で死んでしまう箱に猫を入れて、その猫が1時間後どうなっているかっていう思考実験のお話のこと」

 そう説明すると、優人はこう言った。

「50%の確率でその猫は生きてるってこと?」

 綾佳は首を横に振った。

「ううん、箱の中身を見るまでは生きている猫と死んでる猫の両方が存在しているの。そして、中身を見て初めて猫の状態が確定するっていう話」

 さらに優人に話した。

「つまり、水瀬くんは見えていないから、生きてる状態と死んでる状態の両方が存在しているってこと」

 綾佳は優人に言った。


「僕は……僕は自分が生きているのか、死んでいるのかという疑問を解決するために色んな場所に行って色々試した……でも誰も見えていなかった……疑問が深まるようなこと…………言わないで欲しかったよ……」

 優人は綾佳の言葉を聞き、落胆した。

「その疑問なら解決してるよ」

 綾佳は優しさと気持ちのこもった声で言った。そして続けてこう言った。

「だって私には水瀬くんが見えてるから。絶対、絶対に水瀬くんは生きてるよ。だから死ぬっていう選択肢を選ばないで。私が水瀬くんと一緒に行きていく」

 綾佳は涙ながらに訴えた。


 そして一言。

「好き。水瀬くんが大好き!」

 

 優人は驚いた。綾佳が泣いたことでもなく、告白されたことに。

 人生で初めてされた告白は校舎裏でもなく、綺麗な夜景が見える丘でもなく、テーマパークでもなく、花火大会やイルミネーションの前でもなく、未明の真っ暗な高校の同級生のアパートの103号室だった。

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