02-5.後宮には怨霊がいる
「姉上!」
香月は勘違いをしていたことに気づいた。
翠蘭の心残りは故郷にいる実母ではなかった。次に後宮に送り込まれてくるだろう妹たちのことを心配していただけだった。
それに気づいた時には遅かった。
翠蘭の姿は光の粒となり、天に昇っていく。
「翠蘭姉上!」
香月は氷叡剣から手を離し、翠蘭を抱きしめようとするが光の粒は瞬く間に消えてなくなってしまった。香月の手から離れた氷叡剣は氷の粒となり消えた。
……姉上の心残りは私たちだったのか。
翠蘭は玄家の一員ではなかった。
だからこそ、母の手によって殺されてしまった春鈴の死を嘆いていても見逃された。翠蘭は後宮に入る前は楊家の人間として扱われ、楊家から林杏が絶縁をされると名だけを名乗るようになっていた。
「翠蘭はよく香月の話をしていた」
いつの間にか傍に来ていた俊熙は戸惑いを隠せていない香月を抱きしめる。
舞の舞台に残っていたはずの穢れが浄化されたのは、俊熙が持つ麒麟の加護による効果だろう。翠蘭が急に光の粒となって消えてしまったのも同様だ。
「自慢の妹だと言っていた。だから、仲が良いのかと思っていたんだ」
「姉上はそのようなことをおっしゃっていたのですか」
「ああ、会うたびに香月の自慢ばかりだった」
俊熙が香月を求めていたことを翠蘭は気づいていたのかもしれない。
「……私は姉上のことをなにも知らないのです」
香月は涙を流した。
なぜ、涙が流れるのかさえもわからなかった。翠蘭が亡くなったことを知った時には同情はしたものの、涙は出なかったはずだ。それなのに、今になって悲しくてやりきれない思いを感じてしまう。
「それなのに、姉上は私を知っていたのですね」
香月は涙を拭う。
泣いているわけにはいかなかった。
「陛下。姉上に玄武の舞を披露するようにと勧められたのは、どなたでしょうか?」
香月は冷静さを取り戻す。
ようやく翠蘭の死の真相が手に入りそうだった。
それに気づいたのか、俊熙は眉を潜めた。認めたくなかったのだろう。
「羅宰相だ。今年は玄武の舞を披露する年だからと言っていたはずだ」
「姉上が気功を使えないことはご存知でしたのでしょうか?」
「いや、知らなかったはずだ。誰も玄家の人間だと疑っていなかったからな」
俊熙の言葉に香月は反論できなかった。
……玄家の人間として輿入れしたのは確かだ。
実際、玄浩然と楊林杏の長女である。本来ならば玄家の長女としてふさわしい待遇が受けられる血筋だった。
……姉上は誰にも打ち明けなかったのか?
誰も止めなかったのだろうか。
舞が踊れなければ命がないことを知らない玄家の使用人はいないはずだ。玄家の使用人の中でも、翠蘭に仕える為に用意されたのは十名ほどの侍女と下女だった。その中の一人も翠蘭を止めなかったとでもいうのだろうか。
香月には信じられなかった。
香月の周りは信用できる侍女と身分の関係で下女として働いている者たち、それから玄家から送り込まれた宦官がいる。侍女に潜り込まされていた孫小鈴は自害に追い込められたものの、黄藍洙の暴挙を止める結果となった。
「わざとではないのでしょうか」
香月の出した結論に対し、俊熙は首を左右に振った。
「ありえない。宰相は俺を裏切るはずがない」
俊熙は自信があった。
幼い頃からなにかと世話をしていたのは羅宰相だ。当時から宰相という立場にいながらも、冷宮に追いやられた蜂夫人と俊熙に対して同情の意思を示しており、先帝からも見ないふりをされていたほどの信用の厚い人物である。
「宰相がいなければ、俺は幼い頃に飢え死にをしていただろう」
俊熙は羅宰相に恩がある。
だからこそ、政治を羅宰相に任せているのだ。
……あやしいのでは。
当時のことを香月は知らない。
しかし、冷遇されていた王子が皇帝の座につくとは誰も考えないはずだ。
……蜂貴人の件もある。
蜂貴人は呪術の心得のあった人物なのか。それとも、誰かに入れ知恵をされたのか。どちらにしても才能はあったのだろう。
……いや、先帝の妃が払い下げにあうのは珍しい話ではない。
後宮を一新するのは良くある話だ。
しかし、蜂貴人のように行方知らずになるのは非常に珍しい。何者かが真相を隠しているとしか思えなかった。
「羅宰相が祭事の指示をとられたのですか?」
香月の問いかけに対し、俊熙は首を横に振った。
「いや、祭事の指示は礼部の仕事だ。馮礼部が指示を出していたはずだ」
俊熙は言い切った。
宰相の指示を受け、祭事の指揮をとったのは今回の被害者である雹華の父親だった。
「……さようでございますか」
香月は視線を舞台に向ける。
翠蘭の姿はどこにもない。成仏をしたのだろう。
……警戒しておかなければ。
雹華は怨霊に殺された。一度、人を殺めた怨霊は悪霊になりやすい。無差別で攻撃を仕掛けてくる可能性が高く、理性を持たない為、結界を破壊しようとするかもしれない。
* * *
黄藍洙は死後も彷徨っていた。
愛しているからこそ、他人を妬み恨み危害を加えたことに後悔をしていない。その愛が報われないものだと死の直前に悟り、理解をした。死後の世界に愛おしい人を連れて行こうなどという考えはなかった。
ただ未練だけが残っていた。
藍洙は後宮入りをした時のことを思い出し、避けた口でにたりと笑う。見た目が気に入らない下女というだけの理由で杖刑をされたことを憎々しく思っており、雹華がもっとも警戒を解くきっかけをわざとらしく作り、その首を引き裂いてやった。その時の絶望の顔を忘れられないだろう。
怨霊は悪霊に変わろうとしていた。
ひた、ひたっと足音が響く。
どこに行きたいのかもわからない。ただ、ひたすらに後宮中を歩いていた。長い髪で顔を覆いつくし、姿勢も悪い。這って移動をしないのはその日の気分によるものだった。
藍洙は玄武宮の周りを歩く。
玄武宮に入り込もうとしても弾かれてしまう。そのたびに体が脆く崩れていくのを感じる。黒い靄が少しずつ抜けて行ってしまう。すべて抜け落ちた時には藍洙は消滅をするだろう。
それを理解していなかった。
何度も何度も玄武宮の門を叩く。爪で引っかいてみたり、足で蹴飛ばしてみたりと様々な方法で開けようとするが、びくともしなかった。
黒い靄は少しずつ抜けていく。そのことに藍洙は焦りを見せなかった。
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