02-4.後宮には怨霊がいる

 浩然の言い付け通りに振る舞い、籠に乗り込む。


 その際、話したことのない妹の姿が見えた。妹の名は香月、翠蘭の三歳下の妹だ。才能と美貌を両親から引き継いだ香月に姉と慕われることも、翠蘭の儚い夢の一つであった。


 そのような妹がいることが誇りだった。


 いずれ、地べたを這うような生活から救い出してくれるのは両親ではなく、妹なのだと思っていた。


「……香月」


 妹はなにを考えているのか、わからない。


 しかし、堂々と名を呼べる立場になる為に翠蘭は籠に乗った。


 後宮に期待を寄せていた。


 華々しい世界の中に飛び込めるのだと期待しかなかった。



 ――それは三年の間の生き地獄と化した。



 お飾りにすぎない賢妃には誰も従わない。


 浩然が手配をした侍女や下女にすらも下に見られる日々の中、始まったのは壮絶な嫌がらせだった。


 玄武宮の外に出れば嘲笑され、中に引きこもれば不気味な壺を置いていかれる。クモやムカデなどの虫の入った不気味な壺を見つけ、それを食料にしようと抱えていれば、その正体を聞かされて腰を抜かした。


 香月ならばそのような目には遭わなかったと笑われる日々は、翠蘭の心を少しずつ消耗させ続けた。


 それでも、妹を思えば立ち上がれた。


 後宮は生き地獄だ。そのような場所に憧れの妹を送り込ませるわけにはいかないと自分自身を叱咤激励し、立ち上がる。その姿さえも、侍女や下女、他の妃たちも気に入らなかったのだろう。


 嫌がらせは日々酷くなる一方であり、誰一人、翠蘭を助けてくれる人はいなかった。


 そんな三年間、翠蘭は夢にまで見た華やかな日々が送れると信じて耐え抜いた。心の支えは玄家を離れる時に見た妹の姿だった。妹を守る為にがんばる姉という理想像を心の中に作り上げ、翠蘭はひたすらに努力を続けた。


 後宮は衣食住に困ることはなく、嫌がらせにさえ耐え抜けば翠蘭にとって生き地獄も終わりの見える場所にすぎなかった。


 後宮で賢妃になればいい。


 そうすれば、玄家の居場所を与えられる。


 ただひたすらに信じていた。


 しかし、翠蘭は気功を扱えないことを知らない皇帝は、翠蘭に武の舞を要求し、神聖な場所に立たせた。


 その日、翠蘭は生きながら生命力を吸い取られる激痛を味わいながら、人々の見世物となり、命を落としたのだった。



* * *



 神聖でなければならない舞台は穢れていた。


 見鬼の才がある者ならば、ここで命を落とした者がいると、一目でわかるだろう。それほどの穢れがこびり付いていた。


「陛下。それ以上、進んではなりません」


 香月は俊熙の歩みを止めさせる。


 麒麟の加護は強い。穢れを簡単に吹き飛ばしてしまうだろう。


「では、香月はどうすると? 俺にはいつも通りにしか見えないが」


「穢れの場所に向かいます。そこにいるのは姉上の地縛霊でしょう」


「危険はないか?」


「ありません。話せればなによりも喜ばしいですが、無理なようでしたら、強制的に立ち退いていただきます」


 香月の言葉を聞き、俊熙は頷いた。


 ……翠蘭姉上。


 遠くでしか見たことがない三歳上の異母姉は、人の形を保っていた。舞台の上で立ち尽くしている姿は儚く、なぜ、そこに残っているのか、理解ができない。


 舞の舞台に香月はあがる。


 それにすらも気づかない翠蘭は半透明で綺麗な姿をしていた。


「翠蘭姉上」


 香月は初めて異母姉の名を呼んだ。


 その手には、いつ怨霊と化してもいいように、氷叡剣が握られている。


 ゆっくりと翠蘭は振り返る。肌は透き通っており、目だけは虚ろだ。しかし、香月の姿を認識すると困ったような表情をして見せた。理性を手放していないのは神聖な場所に居続けていたからだろう。


「香月」


 翠蘭ははっきりと香月の名を呼んだ。


「はい。翠蘭姉上」


 香月はそれに対して返事をする。


 ……恨み言でもあるのか?


 恨まれていてもしかたがないと思っていた。生まれ育った時に与えられた身分の格差はあまりにも大きすぎた。


 母親の違う妹弟を疎んでいたところでおかしくはない。


「後宮かラ、離れなさイ」


 翠蘭の言葉はところどころ聞き取りが悪くなる。


 それはこの世のものではない証拠だ。


「できません」


 香月は即答した。


 それから氷叡剣を翠蘭に向ける。


「私は賢妃の役割を担いました。その役目を任された時より、後宮で生き抜くことを覚悟しております」


 香月の言葉は翠蘭に届いた。


 翠蘭は眩しそうに眼を細めた。襲い掛かる様子はない。


「翠蘭姉上。あなたはこの世のものではなくなりました。この場に留まっている理由もないはずでしょう」


 香月は淡々とした口調で告げる。


 相手は霊だ。魂の欠片だけが残っている存在だ。強い未練を持っているわけでもなく、ただ、地縛霊としてこの場に留まっていた。


 穢れの影響が少ないのは、ここが神聖な場所だからだろう。


「……わたしハ、死んだノ?」


「はい。亡くなったと聞いております」


「そう……」


 翠蘭は死を否定しなかった。


 それから、濁った眼で香月を見つめる。


「ごめん、ね」


 翠蘭は香月に謝った。


 それは香月にとって想定外のことだった。


 ……恨んでいない? なぜ、謝る?


 情報があまりにも少ない。


 翠蘭は香月が困惑していることに気づいたのか、優しく微笑んだ。それは成仏すると決めたかのようだった。


「わたし、守り、たかった」


 翠蘭は涙を流す。


 ……泣いている?


 霊が泣くなどと聞いたことがなかった。反射的に香月は距離をとり、すぐにでも攻撃を仕掛けられるように身構える。


 守りたかったものがなにか香月は知らない。

 だからこその行動だと翠蘭は気づいていたのかもしれない。

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