02-1.後宮には怨霊がいる

* * *



 馮雹華は九嬪の中ではもっとも位の低い充媛だった。


 充媛の宮は寂れているべきだと他妃から嫌がらせを受けるほどに、派手な装飾があるのは父親が礼部の長を任せられているからである。羅宰相からの評価も良く、充媛とは思えないほどの贅沢を与えられてきた。


 雹華は美しいものを好み、下々のものを穢れも同然だと嫌っていた。


 侍女は選りすぐりの見た目の者だけを優遇し、それ以外は女官や下女として扱い、傍にはおかなかった。


「どうして、わたくしが!」


 雹華は部屋で震えていた。


 廊下にはなにかが這う音がする。追い払うように命じた侍女の悲鳴は先ほどまで聞こえていたのに、今は、這う音しか聞こえない。


 ……まさか、黄藍洙……?


 心当たりがあった。


 数日前に急死した黄藍洙は呪術によって殺害されたのだと後宮中に噂を広めたのは、雹華だ。


 雹華は知っていた。


 黄藍洙の元に忍び込ませた女官は呪術に優れた者であり、彼女に自らの身を滅ぼすような呪術ばかりを使うように命じたのだ。呪術がばれた際には自害するように命じ、その際にはすべてを巻き込むようにとも命じていた。


 女官は忠実だった。


 使い捨てにするのには惜しいと後悔したほどだ。


 しかし、見た目は優れていなかった。美しくなければ雹華の側近にすることはできなかった。


「黄藍洙を止めなさい! 柳陽紗!」


 雹華は叫んだ。


 怨霊と化したのならば同一化していてもおかしくはない。


「いや、いや、いやよ。いや! 来ないで!」


 廊下を這う音が止まった。


 それは雹華の狙いによるものではない。怨霊が雹華を見つけたのだ。


 タンスや机で押さえつけられた扉を強引に開け、黒髪の怨霊は手を伸ばす。怨霊の手には指はなく、切り取られたかのような形をしていた。


 濡れた髪を揺らしながら、一歩、また一歩と確実に距離を縮めてくる。すぐに飛び掛かってこないのは雹華を恐怖で追い詰める為だろう。怨霊は雹華に恨みを持っていた。その恨みは死後に晴らさなければ次に進めなかった。


 ぎし、ぎしっとなにかを踏みながら距離を縮めてくる。


 怨霊の這った後には血が塗りたくられていた。


「やめて! 来ないで!」


 雹華は声をあげる。


「誰か! 誰か! 誰かいないの!」


 雹華の助けを求める声だけが宮に響いていた。


 地面を擦るように動いていた怨霊は、雹華の前でゆっくりと立ち上がり、怨霊は長い髪に絡めとっていたなにかを雹華に投げつけた。


「きゃあああああああっ!!」


 雹華は悲鳴をあげて、寝具の上から飛び降りた。


 投げつけられたのは黒く変色をした人の頭だった。目玉は見開かれ、今にも零れ落ちそうになっている。口は半開きとなり、なにかを訴えるようだった。


 それは陽紗の頭だった。


 陽紗は死後も雹華に忠誠を誓っていた。忠実であった。


 名を呼ばれ、怨霊と化した黄藍洙を食い止めようと懸命に抗ったのだろう。その結果、頭を引きちぎられた姿で二度目の絶命をした。


 寝具の上に置かれたままの頭は黒い霧となり、怨霊の中に吸収されていく。


 惨めな最期だった。


 忠誠を誓った主人に見向きもされない人生だった。それは忠誠から恨みに姿を変え、長い髪で隠されていた顔が露になる。


「……柳陽紗……?」


 雹華は安堵した。


 長い髪の下には見慣れた顔があった。先ほどのように酷く変色をしているわけではなく、人のような見た目をしている。飛び抜けて美しいわけではなく、醜いと嘲笑うほどでもない。どこにでもいるような見た目に安堵をしてしまった。


 それが生きた人間ではなく、怨霊だと忘れてしまっていた。


 恐怖心が抜け、雹華は安心してしまった。


 陽紗が主人を襲うはずがない。主人の命令に従い、自害までしてみせた忠実の女官なのだ。


「ドウシテ、ドウシテ、ドウシテ」


 怨霊は口を開いた。


「ドウシテ、ミステタノ。ドウシテ、ワタシヲミテクレナイノ」


 口が裂けるほどに大きく開き、人のものとは思えないほどに歯が鋭くなっており、舌は二つに分かれていた。


 雹華はその言葉に再び恐怖を覚えた。



* * *



 充媛宮で首のない遺体が見つかったと明明から報告を受けた香月は、肩を落とした。同席していた俊熙も同様だ。香月以外はどうなろうともかまわないと言って見せたものの、実際、被害者が出るとは思わなかったのだろう。


「明明。充媛宮は忠実な者が多いはずだ。生き残りはいないのか」


「はい、陛下。恐れながら、全滅したとお伺いしております。詳しくは官吏が派遣した宦官たちによる調査をお待ちくださいませ」


「そうか。下がってよい」


 俊熙の言葉を聞き、明明は頭を深く下げて、退室した。


 充媛宮は警備に強化する為、宦官も雇っていたはずだ。訓練に明け暮れることを命じられている宦官たちの実力は本物であり、人間の侵入者を相手に後れを取らないはずである。


 それらは瞬く間に全滅した。


 充媛宮の侍女、官女、下女、すべてが殺されてしまった。


 その事実は重く、怨霊の恐怖を後宮中に知らしめることになってしまった。


「怨霊が増える可能性はありえるか?」


「未練が残れば怨霊と化す可能性は高いでしょう。充媛宮そのものを怨霊の住みかと見なした方がいいかもしれません」


「封鎖をすればいいか?」


「いいえ。怨霊を封じ込め、後に、建物を破壊するのが確実でしょう」


 香月は淡々と答える。


 しかし、体が震えていた。


 恐怖心を抱いていた。それを悟らせまいと淡々とした声を出してはいるものの、俊熙は見抜いているようで、香月を優しく抱きしめた。


 ……怨霊退治などしたことがない。


 見鬼の才はあるものの、怨霊退治を任されたことはなかった。後宮は怨霊が彷徨う場所でもあるというのは事前の知識として知っていたが、実際に遭遇したことはない。


 怨霊は理性を捨てている。


 玄武宮に恨みを持っている黄藍洙は香月を狙うはずだ。


 それなのに、どうして、充媛宮を襲ったのか、香月には理解ができなかった。


「馮充媛は黄藍洙と関りがありましたか?」


 香月の問いかけに対し、俊熙は首を縦に振った。


 ……恨んでいたのか。


 藍洙に恨まれることをしていたのだろう。


 簡単に予想がつくのは藍洙が後宮妃に選ばれた経緯が特殊だったからだ。

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