03-3.寵愛の噂
「あれでは完成はしない」
香月は断言をした。
蟲毒は呪いだ。適切な処理と対処をしなければ、蟲毒を用いた術者に跳ね返る危険な呪術である。
「呪術として成立しなければ意味がない。意味がなければ効力を発揮しない。呪術というのはそういうものだ」
香月は呪術を嗜んでいるものの、好んで扱うことはしない。
呪術よりも自身の気を扱う道術の方が親しみやすく、自身の力を最大限に活用できると知っているからだ。しかし、玄家の次期当主として名が知られている香月を呪い殺そうと企む者は少なくなく、それらに対処する為の方法の一つとして一通りの呪術も習っていた。
だからこそ、玄武宮に置かれた壺が蟲毒にならないと判断できた。
「だが、それを知らない人にとっては恐ろしいものになるだろう」
香月は呪詛返しが存在することを知っている。
中途半端な数しか集められていない壺の中身を思うと、藍洙は呪術に疎いはずだ。呪詛返しの意味を知らない可能性が高いものの、それが人を呪う壺だということはわかっているはずである。
未知の恐怖は人をどん底に陥れる。
それを体験することになるだろう。
「承知いたしました。賢妃様。壺を返却してまいります」
梓晴は頭を下げてから、壺を抱えたまま移動をする。
後宮の作法には不慣れだった。しかし、賢妃となった香月に恥を欠かせない為、必死になって学んでいる最中だと香月たちは知っている。
だからこそ、不格好な姿勢で立ち去った梓晴を黙って見送った。
「……賢妃様」
雲婷は不安が拭いきれなかった。
「貴方様の身を狙う不届き者をいつまで放っておくつもりですか」
雲婷は侍女頭の誇りがある。
なによりも、香月の乳母としての情がある。
我が子よりも慈しんで育て、その成長を見守ってきた雲婷にとって、香月よりも金目のものに目がくらみ、簡単に主人を売るような侍女を泳がせておくのは我慢の限界だった。
「不届き者に気づいてはいないとは言わせませんよ」
雲婷の言葉に対し、香月は諦めたような顔をした。
見逃すことはできない。主人を裏切った者は信用できない存在だ。
「……明明に動向を探らせている」
香月は椅子に腰をかける。
立ったまま話をするのは玄家ではよく見られた光景ではあるものの、後宮ではそういうわけにはいかない。
香月は、玄武宮の主人である。
四夫人の一角として相応しい仕草を身に付けなければならない。他の妃に買収にされた侍女は一人とは限らないのだ。どこで見られているのか、わからない限り、警戒をし続けなければならない。
……証拠と共に戻るように伝えたが。
明明は優秀な武人である。
香月の護衛として真っ先に名が挙がった実力者であり、梓晴同様に香月に忠誠を誓っている。
だからこそ、明明は香月が後宮妃になることを反対していた。
玄家を率いるのは香月でなければならない。
明明は何度も当主に懇願をしていたことを香月は知っている。
……勝手な真似をしていなければいいが。
明明は裏切り者を許さない。
敬愛する主人に対し、悪意を向ける者を生かさなければならないという考えは明明にはない。
* * *
「この役立たず!!」
昭媛宮では甲高い声が響き渡る。
憤慨した様子を隠すこともせず、黄藍洙は地面に這いつくばるようにして丸くなりながら震えている玄武宮の侍女を叱責していた。
「陛下が玄武宮でお過ごしになられたというだけでも許しがたいのに。壺を人目のつくところに置いてきたですって!? 信じられない! これだから、侍女なんて信用ができないのよ!」
藍洙は穏やかでおとしやかな後宮妃であるという印象を大事にしていたのだが、その化けの皮は簡単にはがれてしまった。
「
藍洙は控えているだけの侍女、柳陽紗を呼ぶ。
藍洙には忠誠を誓ってくれるような侍女はいない。
黄家は元々は名家ではあったものの、今では貧乏な家系だ。その日暮らしの生活を強いられそうになり、藍洙を後宮送りにすることでなんとか生活を続けようとしていたような家族だった。
藍洙の育ちは後宮では誰もが知っている。
それは藍洙が打ち明けたわけではない。
落ちぶれた名家として黄家は名が知れ渡っており、昭媛の位を得た今も藍洙は妃賓の中では笑いものにされていた。
「むち打ちの刑に処しなさい!」
「昭媛様、むち打ちは官刑になります。後宮妃の私情ではできません」
「それなら、この者に罰を与えなさい!」
藍洙は知識を得る機会に恵まれなかった。
昭媛となり勉学に励む機会はあったものの、それは妃賓のするべきことではないと侍女に言い包められ、そういうものなのだと受け入れてしまっていた。
昭媛宮の侍女は藍洙に忠誠を誓っていない。
昭媛宮の侍女は他の妃賓から差し出された者たちばかりだ。それは藍洙の監視や妨害をすることが目的であり、藍洙の言動はすべて横流しされている。そのことに藍洙は気づいていなかった。
「杖刑はいかがでしょうか」
陽紗は事前に準備をしていた木の棒で作られた杖を藍洙に差し出した。
「昭媛様。貴女様の怒りを存分に晴らしてくださいませ」
陽紗はそれが正しい行いだというかのように杖を藍洙に握らせた。
妃賓による私刑は珍しいものではない。行き過ぎた言動は窘められるものの、それを行ってはいけないという決まりはない。
女性だけが集められた後宮では日常の一部に過ぎない。
それを藍洙も知っている。
「……私がやるの?」
藍洙は握らされた杖に視線を落とした。
木の棒を削っただけの杖で殴られたら痛いだろう。殴られた場所が悪ければ命を落とすかもしれない。
そういう罰なのだということは、藍洙は身をもって知っている。
下女だった頃、目障りだという理由だけで杖刑にされたことがあった。それを指示していた妃賓の顔を今も忘れることはできない。藍洙が昭媛になった後もその妃賓とは不仲のままである。
「当然でしょう」
陽紗は言い切った。
「貴女様の為に申し上げているのです。貴女様がしないというのならば、その者には罰を与えなくてもいいということでしょう?」
陽紗は藍洙の意見を聞く前に断言した。
それは藍洙の選択肢を奪う行為だということに、藍洙は気づいていない。
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