02-2.皇帝の訪問
「香月」
「はい。陛下」
「そなたは玄浩然の命に従うな。今後は夫である俺の命令だけに従え」
俊熙の言葉に対し、香月はすぐに反応ができなかった。
……なぜ?
玄家は皇帝に忠誠を捧げている。
敵視される筋合いはない。
しかし、俊熙が望むのならば、それに従わなければならない。
「はい。陛下。臣妾は陛下の命に付き従います」
香月は賢妃として返事をした。
それに対し、俊熙は欲しいものが手に入らなかった子どものような顔をしていた。
「二人きりの時は言葉遣いを崩せ」
俊熙の言葉は想定外なものばかりだった。
香月を格上の女性として扱うわけではない。しかし、大勢いる妃の一人として扱うつもりもないのだろう。
……年相応のような振る舞いをする相手が欲しかったのだろうか。
香月は俊熙の真意がわからない。だからこそ、自己流で解釈をした。
「陛下のお望みのままに」
香月は簡易的な返事をした。
それは賢妃としてはふさわしくはない。しかし、俊熙が望むように振る舞うべきであると判断をした。
「香月。今宵はそなたを抱かない。だが、朝まで共にいてやろう」
俊熙は気難しそうな顔をしていた。
それから椅子に座っている香月に視線を向け、無言で自身の隣を叩く。開いている場所があるのだから、椅子ではなく、寝具に座れと言いたいのだろう。
……翠蘭姉上の時は五分程度と聞いていたが。
香月もその程度だろうと予想していた。
俊熙は気まぐれに後宮妃の元を訪ねるものの、途中で気分が乗らなくなれば容赦なく切り上げて部屋を出て行ってしまう。
その為、お手付きとなった妃はいても、子を宿した者はいない。
それどころか、朝方まで共にいた妃は一人もいなかった。
用事が済めば、俊熙は後宮を離れる。後宮そのものを嫌悪しているようだと誰かが噂をしているのを、香月も耳にしたことがあった。
「どうしてですか」
香月は疑問を素直に口にした。
言葉遣いを崩せと言われたものの、身についた習性は直らない。目上の者に対し、敬語を外して話すなど考えることも許されなかった。
「翠蘭の喪が明けるまでの間だ。さすがに示しがつかん」
俊熙は当然のように答えた。
翠蘭は香月の異母姉だ。兄妹が亡くなった場合、一年は喪に服す習慣がある。
……春鈴の時は喪に服すことさえ許されなかったな。
最初からいなかったことにされた。
玄家ではよくある話だ。内功を得ることができず、気功の扱えない一族は恥であり、その命を天に帰すのが最良である。誰が言い出したのかわからない家訓を忠実に守り、春鈴は五歳の時に命を奪われた。
……翠蘭姉上は喪に服すことが許されるのか。
羨ましいと思ってしまった。
玄家に留まっていたのならば、翠蘭が亡くなったとしても玄家の一族が喪に服すことはなかっただろう。
……姉上は後宮に入って良かったのかもしれない。
後宮に入らなければ翠蘭は生きてはいただろう。
しかし、家名を名乗ることも許されず、当主の血を引いているのにもかかわらず、下女のような扱いを受け続け、母娘でその日暮らしを続けることを考えれば、賢妃の座に座らされたのは幸運だったのかもしれない。
翠蘭がなにを思っていたのか、香月はわからない。
しかし、喪に服すことさえも許されなかった春鈴とは違い、翠蘭の死は弔われている。
「姉が亡くなれば悲しいだろう。一年は喪に服していてもかまわない。後宮入りをしたからと習慣に背く必要はないのだからな」
俊熙の言葉は正しいものだ。
正しいからこそ、香月はなにも言えなくなる。
「そなたは翠蘭と仲が良かったのではないのか?」
俊熙は意外そうな顔をして問いかけた。
兄妹が亡くなった場合、喪に服すのは習慣だ。
玄家のように特殊な家訓がある場合、内密に処理をしてしまうのも珍しくはないのだが、俊熙はそのような家訓を掲げている家門があるということを知らなかった。
武功により権力を手に入れた家門は、内功を扱えない者を一族として認めない。
それは玄家だけではない。四大世家の共通認識だった。
そのことを俊熙は知らないのだろう。
「いいえ。翠蘭姉上とは一言も言葉を交えたことがありません」
「なぜだ?」
「翠蘭姉上は玄玥瑶の娘ではありません。それゆえ、言葉を交わすことは禁じられておりました」
香月は淡々と事実を述べた。
異母兄弟は珍しくはない。名門の一族ならば妾を持つのは普通のことだ。
「そういうものか」
俊熙は理解を示した。
母親が違うというのは香月が堂々と口にしていたものの、言葉も交わしたことがないほどに疎遠だったとは知らなかったのだろう。
「香月の代わりとして翠蘭が選ばれたと聞いていたが、それは事実か?」
「申し訳ございません。父上がどのような意図で翠蘭姉上を後宮入りさせたのか、私は聞いたことがありません」
「そうか。では、玄浩然の独断によるものとしておこう」
俊熙は、数年の間、胸に秘めていた疑問の答えを得たようだ。
三年前、皇帝を継いだ時、俊熙は賢妃として香月の後宮入りを打診していた。しかし、賢妃として後宮入りしたのは香月ではなく、翠蘭だった。
「翠蘭が黙っていたのも理由があったのだろう」
俊熙は頑なに口を閉ざした翠蘭の姿を覚えている。
翠蘭は打ち明けられなかったのだ。下手なことを口にしてしまえば、人質のような扱いを受けている母に被害がいくと知っていたからこそ、頑なに事情を話そうとはしなかった。
「俺はそなたに嫌われているものだと悩んでいたんだがな」
俊熙の悩みは意味のないものだった。
そもそも、香月は三年前に後宮入りの話が出ていたことを知らなかったのだから、拒絶されたのではないかと考えるだけ時間の無駄だったのである。
「一年後、そなたを抱く。それまでの間もこうして夜通し話には来てやろう」
俊熙は香月が寵愛を受けられないと落ち込んでいると思ったのだろう。心配をする必要はないとでも言うかのように、宣言をした。
「陛下。私の疑問はそれではありません」
香月は誤解を受けていることに気づいた。
夜伽が行われないことに疑問を抱いたわけではない。
雲婷は夜伽が行われてもいいようにと丁寧に準備をしていたものの、香月は俊熙の訪問は別の目的があると知っていた。
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