02-1.皇帝の訪問
……酷い目に遭った。
香月の知っている湯浴みではなかった。
肌を徹底的に磨かれ、得体のしれない香油を塗られそうになり、香月は必死に抵抗をした。雲婷は夜伽の為には必要不可欠の準備だと言い切り、香月に匂いの強い香水ばかりを勧めてくるのには、香月も気力が削られるような思いをさせられた。
……後宮は匂いが強すぎる。
玄武宮は比較的、匂いが薄い。
それは香月が香水を好んでいないからだ。
……昨日までの湯浴みとまったく違うではないか。
皇帝が来るたびに、同じように徹底的に行われるのだろう。
匂いの強い香水や、肌が真珠のように白くなると噂の白粉など、様々な化粧道具たちを用いて、最高の仕上がりを求めるのは皇帝の寵愛を求める女性ならば当然のことなのだろう。
それらをしなくても、香月の見た目は整っている。
傾国の美女と巷で噂されている玄玥瑶の血が濃いのだろう。
母親に似た容姿の香月は、最低限の化粧を施しただけで男性の視線を釘付けにするほどの美しさだ。
「賢妃様。よろしいですか。陛下の寵愛を受ける為には、適切な受け答えと完璧な淑女としての仕草をお忘れなきようにしてくださいませ」
雲婷は香月の髪を整えながら、大切な教養を伝え続ける。
乳母として香月を育ててきた雲婷には勝算があった。
後宮妃の中で皇帝の寵愛を受けている者はいない。それならば、香月が寵愛を得られる機会を得たのも同然であると確信していた。
「賢妃様は傾国の美女であられる奥様によく似ていらっしゃるのです。そのことを意識し、背を伸ばし、民を慈しむように微笑むのですよ」
「雲婷。私は大恩ある陛下をお守りする為に賢妃になったのだ。寵愛を受ける為に来たのではない」
「存じております。しかし、寵愛を受けてはいけないと命じられているわけでもないのでしょう」
雲婷は気にもしていないのだろう。
浩然が香月に命じた言葉は皇帝の言葉に勝つことはない。それを知っているからこそ、雲婷は香月が寵愛を受けて幸せを手に入れる可能性に賭けたのだ。
雲婷は香月の幸せの為ならば、どのような努力も惜しまない。
香月に対する忠誠心の高さは侍女頭にふさわしいものだった。
「皇帝陛下がお越しになられました」
皇帝、
その声に従い、寝室の扉が開けられる。香月の意思を確認することはない。
俊熙が訪ねてきたのだ。決定権はすべて皇帝が持っている。
「陛下。ご厚意に感謝いたします」
香月は最敬礼をする。
四夫人の一角とはいえ、後宮の所有者は皇帝である。最大限の礼を尽くすのが当然の振る舞いだった。
「挨拶はいらん。さっさと座れ。それから、賢妃以外の者はすべて退席しろ」
俊熙は慣れたように指示をだす。
それに歯向かう者など誰もいない。雲婷たちも例外ではない。
香月に対し、心配そうな視線を向けつつも、皇帝の反感を買わないように速やかに退室した。
香月以外はすべて寝室の外に出たことを確認し、俊熙は当然のように木製の台座に触り心地のこだわった絹で作られた寝具に座る。
……本気で夜伽に来たわけではないだろうな。
座る場所などいくつも用意されている。
香月は皇帝が座っている寝具の近くに用意しておいた椅子に座った。その様子を皇帝は無言で見つめていた。様子を伺っているだけなのか、それとも、香月の真意を見極めようとしているのかもしれない。
「翠蘭と似ていないな」
俊熙の言葉に対し、香月は軽く頭を下げた。
表情を見られるわけにはいかなかったからだ。
「はい。陛下。翠蘭姉上とは母親が違いますので、姉妹とはいえ、あまり似てはおりません」
香月は速やかに返事をした。
しかし、その答えが正しかったのか、わからない。
……翠蘭姉上は寵愛を受けていないはずではなかったのか?
事前に得ていた情報と違う。
翠蘭は後宮入りをした際の挨拶で酷い失態をした。その夜には俊熙が玄武宮を訪ねて来たものの、夜伽は行われず、十分程度の会話をしただけだと伝わっている。
……交流だけはあったのか?
その真偽を確かめる術はない。
しかし、それ以降、玄武宮に俊熙が足を運ぶことがなかったのは事実だ。
「名を申せ」
「はい。玄浩然の娘、玄香月と申します」
「そうか。では、そなたの母は玄玥瑶か?」
俊熙は再び問いかける。
……情報を見ていないのか?
後宮入りする前に事前に手紙が送られているはずだ。皇帝の仕事として様々な書類に目を通すことになるだろうが、その中の一つに含まれているはずである。それをわざわざ問いかける意味が理解できない。
「はい。玄玥瑶の長女でございます」
香月は最低限の答えを口にする。
……わからない。
俊熙がなにを考えているのか、わからなかった。
賢妃になる前、浩然から聞かされていた話では、命を狙われている俊熙を護衛することが香月の役目だったはずだ。
「顔をあげろ」
俊熙は香月を見定めるように見つめていた。
その眼は獲物を見つけた猛獣のようなものだ。もしくは、探し求めていた宝物を目の前にした探究者の希望に満ちた顔のようだった。
今度は香月は顔を逸らせなかった。
……この視線を知っている。
幼い頃、玥瑶に連れていかれた茶会で向けられた視線だ。
まともに会話を交わすことさえも許されないような高貴な方だと玥瑶に教えられていた為、声をかけることはしなかったが、その強い眼差しだけは忘れられなかった。
……あの時の貴人か?
四大世家よりも高貴な家柄など一つしかない。
李王朝の皇族の一人だろうとは思ってはいたものの、まさか、目の前にいる俊熙の幼少時代だったとは思いもしなかった。
「そなた、茶会のことを覚えているのだろう」
俊熙は断言をした。
答えを待つ必要もないと言いたげな物言いだった。
「玄浩然がなにを言ったか、予想はつく。皇帝を守れなどと偉そうなことを命じてきたのだろうな」
俊熙が指示をした言葉以外のことも、皇帝の意思であるかのように浩然は口にしていたのだろう。どこまでが俊熙が浩然に送り付けた手紙の内容であるのか、香月にはわからなかった。
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