第二話 玄武宮の賢妃は動じない

01.不穏な動き

 豪華絢爛な宮廷の一角にある後宮は、皇帝の為だけに用意された花園だ。


 その為、男子禁制が原則とされており、例外的な扱いを受けるのは後宮の主である皇帝と皇帝に仕える為に適切な処置を施された宦官だけである。


「賢妃様。今宵は陛下の寵愛を受けられるのですから、そろそろ、稽古はお休みになってくださいませ!」


 雲婷は張り切っていた。


 玄家の時のように香月をお嬢様と呼ぶことはなく、賢妃と呼ぶ。その呼び方以外、雲婷は変わることがなかった。香月こそが玄家を代表する武人であると疑ってもいなかったんだろう。


 賢妃とその侍女が住まう場所として、後宮の北側に与えられている玄武宮では、香月が日課の槍を手に鍛錬を積んでいた。


「稽古を休む理由にはならない」


 香月は雲婷の言葉に従わない。


 賢妃として後宮入りをしたものの、皇帝に簡易的な挨拶をしただけだ。それ以降は音沙汰なく、後宮では玄家は懲りずに役に立ちもしない娘を送り付けてきたと不躾な噂が立ち込めている。


 ……陛下は妃として期待をしていないと言っていた。


 それは香月を絶望の淵に落とす言葉に捉えた者がいるはずだ。


 皇帝への挨拶の返事として伝えられた冷たい言葉を撤回するような文面の手紙が届いているのを知っているのは、香月と香月が信用をする僅かな侍女たちだけである。


 ……玄家に喧嘩を売るとは。頭の悪い輩もいるものだ。


 それなのにもかかわらず、噂は後宮中に広まっている。


 玄武宮の中に密偵者がいるとわざわざ口にしているようなものだ。それを香月は黙って見過ごすつもりはなかった。


 ……今宵は餌を撒く。それに食いつくような輩ならば相手にもならない。


 雲婷が期待しているようなことは起きない。


 今宵、皇帝が玄武宮を訪ねてくるのは夜枷の為ではなく、前賢妃である翠蘭を貶めた者たちを炙り出すのに必要不可欠な餌を撒く為だ。


 ……翠蘭姉上。貴女を追い詰めた輩を逃すつもりはありません。


 ここぞとばかりに賢妃の座から引きずり落とそうとする者が姿を見せるのを、香月は待ち望んでいた。


「賢妃様。玄家ではないのです。我儘は許されません」


 雲婷は香月の前で仁王立ちをしていた。


 そのまま槍を振るい続ければ、雲婷の肌を傷つけかねない距離だ。


「……雲婷。あまり近づくと傷になるぞ」


「かまいませんとも。それで賢妃様が大人しくなってくださるのならば、この雲婷の体が傷だらけになっても引きはしませんよ」


「はぁ。……わかった。今日は止めにする」


 香月は槍を控えていた侍女、リュウ 梓晴ヅーチンに渡す。


 鍛錬を怠るわけにはいかないと訴えたところ、持ち込むことが許された槍の一つだ。なにを勘違いしたのか。香月は武術を嗜んでおり、武器を収集する癖があると皇帝に伝えられたらしく、毎日のように玄武宮には様々な種類武器が皇帝名義で届けられている。


「雲婷は過保護だな」


 香月はわざとらしく会話を続ける。


 槍を渡した侍女は幼い頃から香月に付き従っている者だ。信用はできる。問題なのは、遠巻きに様子を伺っている玄家が用意したとは思えないほどに気配の隠せていない幼さが抜けていない侍女だ。


 恐らく、後宮入りの際に新たに雇われた者だろう。


 玄家で雇われたとはいえ、他家の者からの誘惑に勝てるとは限らない。


 ……金目の物でも貰ったか。


 それとも、後宮妃になれるように口添えをするとでも言われたのだろうか。


 どちらにしても、香月は裏切り者にわざわざ食い扶持を与えるほどに心が広くはない。


「翠蘭様のことがございますので。過保護になるのは当然のことでしょう」


 雲婷もそれに気づいていた。


 香月を害する可能性を秘めた裏切り者を処罰せず、踏み止まっているのは香月が餌として泳がせていると雲婷を説得したからだ。そうでなければ、玄武宮の侍女頭の権限を使い、早々に処分をしてしまったことだろう。


「私が翠蘭姉上のようになるとでも?」


「そういうわけではございませんが。しかし、今宵こそは陛下の寵愛をいただなければなりませんよ。初日のような失敗はなさらないでくださいませ」


「あれは仕方がないだろう。私も緊張をしていたのだから」


 香月は失敗を恥じているような仕草をしながらも、困っていると言わんばかりに頬に手のひらを当てた。


「失敗をしなければいいのだが」


 香月はわざとらしくため息を吐く。


 その言葉を聞き取ったのだろう。香月たちの様子を伺っていた侍女が足早にどこかに向かっていった。


明明メイメイ


 香月は玄武宮の屋根の上で昼寝をしていた侍女、リュウ 明明メイメイの名を呼ぶ。


「追え」


 逃げるように立ち去っていた侍女の後をつけるようにと指示を下す。香月の短い指示だけで明明は役目を理解し、足音を立てずに素早く走り去った。


 梓晴の妹である明明の役目は、仕事を放棄しても怒れない賢妃という噂の原因となることと香月の護衛である。


 武芸に長けた明明の足から逃げられる者は多くはない。


「賢妃様。中にお戻りください。湯浴みをしなければなりません」


 雲婷は明明の動きに気づいていないかのように振る舞う。


 なにもなかったかのように会話を続けるのは、慣れたものだった。


「わかっている」


 香月は視線を先ほどまで侍女がいた場所に向ける。


 ……幼い子どものようだった。


 遠目でしか姿を認識してはいないものの、妹の紅花と同じくらいだろうか。もしかしたら、それよりも幼いかもしれない。


 ……騙されやすい相手を選んだのだろう。


 目先の餌に弱い子どもを利用した。


 そうなるとわかっていながら、浩然は後宮入りの侍女に選んだのだろう。


「賢妃様」


 雲婷は咎めるように香月を呼ぶ。


「後宮は女の花園だとお思いになるべきだとお伝えしたでしょう」


「わかっている」


「その返事は、わかってはいても理解はしたくない時の返事です。湯浴みの時に嫌になるほどの後宮での作法をお伝えいたします。ご覚悟をなさってくださいませ」


 雲婷は諦めたような声をあげた。


 それさえも、他に密偵が潜んでいてもいいように演技したものだ。雲婷は香月の乳母である。生まれた時から香月の世話を任されており、玥瑶が香月に気功の扱いと武芸のすべてを叩き込んでいる姿も見守ってきた。


 だからこそ、香月の身内に対する優しさを知っている。


 五年前、玥瑶の手で命を奪われた春鈴のような子どもに対して、特に情を抱きやすい。それは助けることができなかった春鈴に対する罪悪感と自分自身への嫌悪感によるものだと雲婷は気づいていた。

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