03.木犀の約束
雪に染まった山々を見上げる。
修練の為に頻繁に上っていた山々に足を踏み入れる機会は、今後、訪れるのかさえもわからない。
後宮に入れば死んでも出られない。
いや、皇帝の代替わりが起きれば、故郷に帰される者もいるかもしれない。
しかし、今代の皇帝は十八歳である。先代の急死に伴い、十五の年に即位をした若き皇帝の時代は長く続くことだろう。
その場合、香月が故郷に足を踏み入れる機会はないも同然だった。
「香月お嬢様」
香月の後を追いかけてきた雲嵐の息は上がっていた。
大急ぎで駆けてきたのだろう。
……みっともない。
気功を自分のものにしていない証拠だ。武術も武功も自らの力にしていれば、全速力で走ったところで息が乱れるはずがない。
それを非難されないのは、雲嵐は玄家の使用人の一人にすぎないからだ。
雲嵐は武人ではない。
香月の頼みを聞き、必要なものを買い集めるだけの役目しか与えられていない。
……しかし、この姿が見られなくなると思うと、無性に胸が痛くなる。
心の奥が痛みを訴えている。
しかし、香月に心当たりはなかった。
「賢妃に選ばれたというのは誠でございますか?」
雲嵐は泣きそうな顔をしていた。
目が赤いのは、雲婷に香月の後宮入りを聞かされた後に泣いたからだろう。
「そうだ。私は陛下の賢妃となる」
香月は言葉遣いを改めない。
四夫人の一角である賢妃の座に座らされても、玄家の娘であるという態度を貫き通すつもりだ。玄家の当主の座にもっとも近いと呼ばれていた日々が色褪せることはない。
香月は自分を捨てるつもりはなかった。
どのような地に追いやられても、香月は玄家の娘であり、誇り高き武人である。
「なぜ、雲嵐は悲しそうな顔をしているのだ?」
香月は雲嵐が悲しそうだと自分の心が同じように痛みを訴えるのを知っている。しかし、理由はわからなかった。
「いいえ。悲しくなどありません」
雲嵐は泣きそうな顔で否定した。
「お嬢様は陛下の妃に選ばれたのです。これは喜ばしいことです。陛下の御子を授かれば、いずれ、玄家の血を引く皇帝が誕生することにもなるでしょう」
雲嵐は用意されていた答えを口にする。
誰もがそれを正しい言葉だと肯定するだろう。
……胸が痛い。
修練不足だろうか。
一瞬、香月の頭にそのような考えが過った。
……体調を崩したわけでもないのに。
雲嵐の言葉は正しい。誰に聞いても同じ答えが返ってくるだろう。
それなのにもかかわらず、香月は雲嵐だけにはその言葉を口にしてほしくはなかった。
「玄家の使用人として、お嬢様の活躍を、お祈りいたします」
雲嵐は震える声で言い切った。
その目から一筋の涙が流れる。涙を堪えきれなかったことに気づき、雲嵐は慌てて指で涙を拭いながら、香月から顔を逸らした。
……雲嵐には言われたくなかった。
香月は否定しそうになる言葉を飲み込んだ。
「……雲嵐」
香月は引き留める言葉を口にすることはできない。
雲嵐が本音とは違う言葉を口にしているのだとわかっていても、本音を知りたいなどと残酷な言葉を口にしてはいけないのだと察していた。
後宮に入れば、すべては皇帝のものとなる。
皇帝のものとなれば、香月は自身の意思を押し殺さなければいけない日も来るだろう。賢妃になれば自由も意思も奪われ、皇帝の妃としてふさわしい振る舞いをしなければならない。
そういうものだとわかっている。
皇帝の護衛をする為、宦官の真似をさせられる香月は、他の妃に比べれば自由に振る舞うことが許されるだろう。不幸中の幸いだと喜ぶべきか、皇帝の妃に選ばれるほど幸運なことはないのだと喜ぶべきか、香月にはわからなかった。
「木犀の花を覚えているか?」
香月は秋頃になると甘い香りをさせる木犀の花木を思い出す。
幼い頃から、他の四大世家との交流をする為に連れ出されることがあった。最北端に位置する玄家の領地ではなく、他家に向かう道中、愛らしい小さな白に近い淡い黄色の花を見上げるのが好きだった。
「はい。お嬢様が好きな甘い香りのする花でしょう」
「そうだ。私はあの香りが好きだ。それを雲嵐にしか教えていないのに、いつの間にか、桂花茶を出されるようになって驚いたものだよ」
香月は乾燥させた木犀の花びらの入った桂花茶を飲む楽しみがあったからこそ、厳しい修練を乗り越えれたのだとさえ思っている。後宮に運ばれる荷物の中にも当然のように桂花茶は入れられていることだろう。
甘い香りは雲嵐との何気ない日々を思い出させてくれた。
それは切ないものであり、一時だけの感情だと思わなければいけないものだった。
「木犀は茶として楽しめると行商人に聞きましたから、用意させたものですね。迷惑でしたか?」
雲嵐はそれ以外の意図はないと語るように話し出す。
周囲に人がいないか、視線を泳がせている姿は、まるで隠し事をしている子どもが親を警戒しているようだった。
「いいや。今では桂花茶がなければいられないほどだよ」
香月は桂花茶を好むようになった。
秋頃に咲く花よりも香りは薄くはなるものの、季節に問わず、楽しめるだけの量はあった。
「行商人から木犀の花言葉というのを聞いたのを覚えているか?」
それは桂花茶を買わせる為の売り文句だったのかもしれない。行商人がその場で作った意味のない言葉かもしれない。
それでも、香月は忘れることはないだろう。
「はい。忘れることはないでしょう」
雲嵐は肯定した。
「お嬢様を思い、桂花茶をお選びいたしましたので」
雲嵐は言葉を選ぶ。
行商人が口にしていた花言葉は雲嵐が言葉にすることができないものだ。それを桂花茶に込めていたと白状した。
……初恋か。
木犀の花言葉は複数あると、その行商人は言っていた。
その中でも幼い二人によく似合う言葉を教えてあげようと、わざとらしく笑っていた行商人の顔を思い出すことはできなかった。
……初恋の匂いとは詩的な表現をしたものだ。
香月は行商人の売り文句を聞き流していた。
しかし、雲嵐は目を輝かせながら聞いていたことだけは覚えている。その花言葉は真実なのだと今でも思っているのだろう。
「嬉しかったよ」
これが雲嵐に伝えることができる最後の言葉だと言わんばかりの顔をして、香月は笑ってみせた。
「宮廷では秋頃に咲くだろうね」
後宮には様々な花々が育てられている。
その中には甘い香りをさせる木犀もあるだろう。
「それでも、私は、来年もお前と木犀を見に行きたかった」
香月は雲嵐から目を逸らした。
……叶わないとわかっている。
叶わない夢を口にするほど苦しいことはない。
香月はそれ以上の言葉を口にしてしまう前に、雲嵐から離れようと決めた。
荷造りはそろそろ終わりになるだろう。その前に着替えをしなければならない。その為、香月は雲嵐に別れの言葉を告げられる前に歩き出した。
「香月お嬢様!」
雲嵐は香月の気持ちがわからなかった。
しかし、曖昧な会話だけをしたまま、別れなどできなかった。
「来年も木犀の花で作った茶をお届けします! 毎年、毎年、お嬢様のことだけを思って、雲嵐が桂花茶を作ってお届けいたします!」
雲嵐の言葉に香月は返事をすることができない。
香月は逃げるように足早に歩いていく。その背を追いかけることも許されない雲嵐は必死に声を張り上げて、叶う保証のない約束を口にする。
「雲嵐の思いを、毎年、桂花茶に変えてお届けすることを、どうか、お許しください。香月お嬢様。どうか、貴女の幸せを願わせてください」
雲嵐はまた泣いているのだろう。
香月にはそれを慰めることができなかった。
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