02-3.玄香月の役目
翌朝、香月は初めて修練を休んだ。
玥瑶が香月を訪ねてきたからだ。当然のように香月が賢妃に選ばれたことを知っていた玥瑶は、別れを惜しむかのように香月の自室に姿を見せた。
……白々しい。
香月は表情には出さないが、玥瑶の白々しい下手な演技に付き合うつもりはなかった。
昨夜、玥瑶がなにをしていたのか、香月は知っている。
自身の目で見たわけではないものの、玥瑶が翠蘭の実母、
それらを浩然に告げ口をするつもりはない。
翠蘭の死が明るみに出れば、林杏は玄家の居場所を失う。
数十年前に楊家から縁を切られている林杏には行く場所もなく、心の支えであった最愛の娘はこの世にいない。
そうなれば、林杏は自らの命を絶つかもしれない。
それらはすべて浩然の手のひらの中で起きたことだ。
後宮入りが決まった翠蘭が逃げ出さないように、人質としての価値があった林杏を手元に置くことにしたのだろう。
……父上の意図の一つさえもわからない、かわいそうな人だ。
玥瑶は玄家の当主になれなかった。
それは当主としての素質が欠けていたからだ。
それを理解せず、未だに当主の座に縋りつこうとしている母の姿は化け物のようにさえ思えてしかたがなかった。
「私のかわいい香月。どうして、お前が賢妃にならなければならないのか、この母は悲しくてしかたがありません」
玥瑶の言葉は嘘ばかりだ。
しかし、従者たちは玥瑶が香月の後宮入りを耳にして動揺を隠しきれていないのだと都合のいいように解釈をすることだろう。
……賢妃になることを嘆いているのは事実か。
玥瑶の実子は複数いる。
その中で、もっとも次期当主の座に近かったのは香月だ。
自らの血を引く子どもを当主の座に座らせたい玥瑶にとって、香月の後宮入りは寝耳に水だった。
決定事項を覆す権力は玥瑶に与えられていない。
その為、玥瑶が香月の後宮入りを知ったのは、すべてが決まった後だった。
「玄家の娘は香月以外にもいるというのに。旦那様はどうして香月を指名なされたのか。私には理解ができませんわ」
玥瑶は香月だけではなく、香月の荷を片付けている侍女たちにも聞かせている。香月付きの侍女の多くは、香月に付き従う形で後宮入りが決まっている。
「亡くなったあの娘のようなことにはならなければよいのですが」
「ご安心ください。母上。香月は玄家自慢の道士です。修練を続ければ、いずれ仙女に選ばれるとさえ言われているのです。そう簡単に負けはしません」
「ええ、ええ。よく知っています。香月は玄家の当主になるべく、私が自らの手で育てたかわいい娘ですもの」
玥瑶は香月のことを気にいっていた。
複数いる実子の中でも特に気にかけてきた。
「それでも、母は、香月を見送るようなことだけはしたくはなかったです」
玥瑶は、皇帝陛下の直筆による催促の手紙さえなければ、玥瑶は香月の妹である
十三歳になったばかりの次女を皇帝陛下に差し出すことに抵抗はない。
幼すぎると非難をされれば、玄家よりも先に後宮入りをした徳妃、
「いつも母のことを思いなさい。香月。母は北の地から、愛しい娘を思いましょう」
玥瑶は別れを惜しむ母のように言葉を口にする。
……思ってもいないことを。
香月は知っていた。
玥瑶にとって子どもは駒だ。
玄家の直系である玥瑶が当主を引き継げなかったのを心の底から悔やんでおり、自分の血の濃い子どもを次期当主の座に座らせることに執着をしている。
……私という駒を手放すのがそれほどに惜しいのか。
香月は玥瑶に愛されていた。
それは娘としてだけではなく、利用価値の高い駒としても愛されていた。
……母上らしい考えだ。
玥瑶は誇り高い玄家の人間だ。子を手放すのを惜しんでいる母のような真似をするものの、その実力は玄家の中でも上位に位置する。
香月の武術や武功の指導は玥瑶が行った。玄家の武人ではなく、当主の妻を師匠としているのは香月だけである。
「はい。母上。香月はいつも母上のことを思っております」
香月は思ってもいない言葉を口にした。
そうすることにより、玥瑶の暴走を防げるかもしれない。その可能性に賭けることでしか、香月は玥瑶を止めることができなかった。
「母上の娘としてお役目を果たしてまいります」
香月の言葉に玥瑶は感動をしたかのように、涙を指で拭った。
そして、香月を包み込むように優しく抱きしめる。
「香月。香月。私のかわいい香月」
玥瑶は別れを惜しむように何度も名を呼ぶ。
それから香月の耳元に唇を寄せた。
「貴女は玄家の当主になるのです。必ず、生きて戻ってきなさい」
玥瑶は香月の耳元で囁いた。
他の誰にも聞かれることがないように、最愛の娘との最後の別れを惜しむかのような振る舞いをしながらも、玥瑶はなにも諦めてはいなかった。
「幸せになるのですよ。香月。母のかわいい香月。貴女はなにも諦めてはなりません」
玥瑶は香月をゆっくりと腕の中から解放する。
侍女たちには香月の幸せを願う母の姿しか見えていなかっただろう。
……欲深い。
香月は玥瑶の欲深さを知っている。
だからこそ、武功の達人でありながらも仙術の才には恵まれず、玄家に所縁のある仙人たちが残したとされる
仙人の域に辿り着く可能性はない。
玄家の直系でありながらも、宝貝に拒絶をされたほどに欲深い。その欲は留まることを知らず、目的の為ならばどのような手段でも取ることだろう。
香月はそれが恐ろしく感じていた。
しかし、母として娘を案じている気持ちも本物である。腹を痛めて産んだ子に対し、憎しみだけを抱いている親ではない。
「母上のおおせのままにいたしましょう」
香月は母の愛を知っている。
利用価値の高い駒としてではなく、玥瑶の娘として別れの挨拶を口にする。
その姿は今生の別れのようであった。
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