02-2.玄香月の役目

「陛下の命令だ」


 浩然は李帝国の皇帝の言葉に逆らわない。


 李帝国の民ならば、皇帝の意思は絶対である。


 それは四大世家であっても同じだ。


「賢妃としてだけではなく、宦官の真似をできる有能な人材を差し出せと。そのような真似ができるのは玄家では香月だけだ」


 浩然の言葉は忌々しそうに握りしめられた手紙に書かれていたものだろう。


 翠蘭の死と共に新たな賢妃に相応しい人材を差し出すようにと、皇帝の直筆で書かれた手紙を見なかったことにはできない。名指しこそはされていないものの、条件を満たせる者は一人しかいなかった。


 ……私が次の賢妃か。


 翠蘭の仇と遭遇することになるだろう。


 お飾りの賢妃を死に追い詰めたと有頂天になっているかもしれない。


 ……翠蘭姉上。貴女の仇を討ってみせます。


 相手が誰なのか、わからない。


 しかし、香月が賢妃となれば鼠は再び齧りつこうとするだろう。賢妃の座を狙う鼠にとって、香月は新たな餌食でしかない。


「玄香月。荷の準備が出来次第、速やかに宮廷に向かえ。後宮では玄賢妃として振る舞い、陛下の宦官としてはシュエン 梓睿ジルイを名乗るように」


 浩然の言葉を聞き、香月は反射的に顔を上げた。


 浩然の言葉は絶対である。


 しかし、それでも簡単には受け入れられない言葉が含まれていた。


「父上。玄梓睿は私の義弟の名でございます」


 香月には血の繋がらない義弟妹がいる。


 彼らは玄家の血族の者であり、武功を認められて当主の正妻である玥瑶の養子として迎え入れられた。その多くは香月の従兄妹や又従兄妹である。


 香月は実の弟妹のように、義弟妹たちを受け入れてきた。


 ……春鈴シュンリンのようにはならないだろうか。


 五年前、五歳の誕生日に首を離れた妹、玄春鈴の最期の姿が頭を過る。


 ……梓睿は優秀だ。しかし、父上の計画の支障になれば消されかねない。


 梓睿は義弟妹の中でもっとも優れている。


 いずれは香月の右腕になるだろうと噂されており、それを最大の誉め言葉であると心から言うような義弟だった。


「玄香月は賢妃として後宮入りを果たし、玄梓睿は陛下の宦官となり、役目を果たす。それだけの話をなぜ理解ができない?」


「私と梓睿が陛下にお仕えするのならば良いのです。しかし、父上の言葉ではどちらも私に課せられた役目であるように思われて仕方がないのです」


「そうだ。どちらも香月の役目である」


 浩然は認めた。


 玄家が宮廷に差し出すのは、玄香月だけである。しかし、賢妃では皇帝の護衛が務まらない為、時には宦官の真似をして皇帝を支えなければならない。


 その役目は重要である。


 そのことは香月もすぐに理解ができた。


「しかし、私が梓睿を名乗れば不審に思われないでしょうか」


 香月は心配していた。


 浩然は完璧主義者だ。不審に思われるような危険は冒さない。


 玄家を恨む者も少なくはない。


 玄家の足を引っ張ろうとする輩はどこにでもいる。


 それらが玄家に侵入し、梓睿が玄家にいると知られてしまえば、なにもかも台無しにされてしまうことだろう。


「心配は不要だ」


 浩然は対策を講じるだろう。


 それは玄家にとって必要なことである。


 しかし、義弟を案ずる香月にとっては恐怖心を煽る言葉であった。


「玄梓睿の名を取り上げる。アレには今後の役目に相応しい新たな名を与えよう。五年前の娘のようにはならん。だから、安心して後宮に入るがいい」


 浩然の言葉に対し、香月は心の奥が痛むのを感じた。


 ……父上は春鈴の名を覚えてもいないのだろう。


 その手で春鈴の首を刎ねた玥瑶も娘の名を覚えていないだろう。


 彼らはよく似ている夫婦だ。


 玄家の栄華を手に入れることだけに執着をしている。その過程で犠牲になった者たちに対し、なんらかの感情を抱くことはない。


「……はい。父上。父上のご配慮に感謝します」


 香月は慣れた言葉を口にする。


 思ってもいない言葉だった。


「荷の準備をしてまいります」


 香月は憂鬱な気持ちを悟らせないように、浩然に背を向けた。


 ……準備か。


 浩然は香月を引き留めなかった。要件を伝える為だけに呼んだのだろう。


 ……後宮に持ち込めるものを確認しなければいけないな。


 武具を持ち込むのは難しいだろう。


 皇帝を害する可能性のあるものは持ち込めない規則となっている。


 しかし、自己防衛の為であり、後宮入りをしても修練を続けなければならないとそれらしい言い訳を並べれば、ある程度のものを持ち込むことはできるかもしれない。



「香月お嬢様」


 本邸にある自室の戸を開ければ、そこでは既に荷造りが始められていた。

 必要最低限の荷造りが済み次第、宮廷に向かう手筈になっているのだろう。


「最低限の荷物と共にお嬢様は宮廷入りとなります。その後、速やかに花嫁道具となるものたちをお運びいたします」


 気難しいそうな顔をしながら、現状の説明をするのは乳母だった。


 香月の乳母であり、嵐雲の実母でもある侍女頭のワン 雲婷ユンティンは淡々とした口調で告げた。


「わかった。父上の指示に従い、速やかに準備を続けよ」


 香月はそれを否定しない。


 愛用の品が次から次へと箱の中に収められて、運ばれていく。玄家の次期当主として期待された日々の思い出に心を馳せる暇もなく、香月は賢妃になる為だけに自室を去ることになる。


 それがどうしようもなく、寂しく思えた。


 ……母上は知っているのだろうか。


 玥瑶の許しを得ずに物事が進んでいるとは考えにくい。


 しかし、玥瑶が香月の様子を見に来る気配はない。


 ……我が子よりも憎き妾の相手か。


 目を閉じて、神経を尖らせる。


 本邸全域に意識を向ければ、会話などは聞こえなくとも、標的がどこにいるのか把握することができる。しかし、それにはかなりの集中力が必要となる。


「お嬢様。瞑想をするのにふさわしい場所を用意いたしました。こちらをお使いください」


 なにかを探ろうとしていることに気づいたのだろう。


 雲婷は、部屋の荷物を運び出すのに支障のない場所に椅子を用意し、香月を誘導する。雲婷の声は香月の支障にならない。物心つく前から聞いている声も慣れ親しんだ気配も、香月にとって大切なものだった。


 だからこそ、目を閉じたまま、雲婷の誘導に従った。


 雲婷が香月を害するはずがないと信じている証拠だった。

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