第5話

いつの間にか意識を飛ばして立っていたらしく、俺は隣の砂川に背中を叩かれた。

ゆっくりと視線を向けると、「呼ばれてる」と小声で打ち明けられ、俺は目の前で憮然とこちらを見やる恩田先生の顔を凝視してしまった。

「聞こえていないのか?里中!」

「―――あ、はい!」

俺は大きすぎる一歩を踏み込むと、ぎくしゃくした動きで恩田先生の近くまで移動した。そこには笑いをかみ殺すように口元に手を当てる東条先輩とどこか白けた視線を向ける日比野がすでに待っていた。

「色々と納得できないと思う部員もいるかもしれない。だけど、里中には最後まで諦めない粘り強さがあるし、技術面も他のメンバーと引けを取らない。日比野との試合でもむしろ想定外の強さを発揮してくれた。今回のインターハイ予選は東条、塚本、高畑、町田、日比野、そして里中、この6名で挑む。以上」

恩田先生の言葉に、悔しそうに声を漏らす部員もいたが、他の部員たちは精一杯に拍手を送ってくれた。

(俺が……選ばれた!?)

未だに実感がなく、ぽかーんと口を開けたままだったのか、隣に立つ東条先輩に「旭、すっげーアホ面になってる」と言われるまで気づけなかった。

「今年もダブルスは東条と里中で組む。シングル戦もあるが、ダブルスは個々の力というよりチーム力が試されるから練習を怠らないよう」

「「―――はい!」」

東条先輩と声が重なった。

視線を向けると、東条先輩が拳をぐっと握り、「頑張ろうな」と小声で鼓舞してくれた。先輩の最後のインターハイ予選だ。またダブルスが組めるなんて、夢のようだ。

さっきみたいに大事な場面でぼんやりとするなんて、気が緩んでいる証拠だ。自分自身にも、選ばれなかった部員たちにも失礼極まりない。

俺はばしっと強く両頬を叩いた。

その俺の気合の入り様に、反対側の日比野は驚いたように見たが、そのまま何も言わずに前を見据えた。

これで、思う存分雑念に捕らわれず卓球に打ち込める。


それから部活の活動時間を増やし、練習量も格段に増えた。

フォームなどを他の先輩方や同級生などに見てもらい、直すべきところは修正する。

何度も何度も試合を行い、自分の得意なところや不得意なところを列挙し、予選に出てくるだろう他校の選手の特徴などと比較し、対策を練る。

学業と部活の毎日に、俺はとても充実していた。

もう、自分を煩わせていた彼女の存在など霞んでしまうくらいに。

そして、あの日を境に夜空つかさは一切家の前に姿を見せなくなった。当然だ、触れられたくない彼女の傷をこれでもかと抉ってみせたのだから。

心底傷ついた表情を見せていた彼女に申し訳ないと思うが、自分に嫌気がさすくらいに無下な対応をしなければ俺はずるずると勘違いのるつぼに嵌り続けていただろう。隣で笑顔でアドバイスしてくれる東条先輩にも見せる顔がない。

そうだ、むしろすっきりした。

そう思い込まなければ、今の俺はとてつもなく未練でぐじゃぐじゃになった顔を晒していたに違いないのだから。

そう思っていたのに―――

夕食の支度を終えて、東条先輩に勧められた卓球の雑誌に目を通していた時だった。

LINE電話の着信がリビングの静寂を破った。

正直、とてもつもなく嫌な予感がした。というのも、母は基本会社から帰る時にLINEメッセージを送ってくるだけだし、砂川もあまり連絡してこない。東条先輩も、毎日のように顔を突き合わせて練習をしているので、あらためてLINE電話で話すようなこともないと思ったからだ。

スマホの画面を見ると、そこには彼女の名前が明滅していた。

(―――勘弁してくれよ!)

俺はそのまま見なかった振りをして、テーブルの上にスマホを置き、雑誌を眺めるのを再開した。ぷつ、と着信が切れるも、ものの数秒後に再度着信が鳴り響く。

もう、数年前にあったホラー映画さながらの恐怖感に苛まれる。

(もう、俺に関わらないんじゃなかったのかよ……)

でも、こう何度も着信があるのも気にかかる。ただ、雑談をしたいだけなら一回で彼女なら諦めるだろう。

俺は急いでスマホに手を伸ばし、そのまま通話ボタンを押した。

「―――はい」

彼女は答えない。何かしゃくりあげるような声が聞こえる。

「夜空先輩?どうしたんですか?何かあった―――」

『あ、旭……ば、ばあちゃんが転んで、頭打って、そのまま動かなくなって……ど、どうしようどうしよう!』

「夜空先輩、落ち着いてください。まずは救急車呼んでください」

『さっき、何とか呼んだけど、ばあちゃん呼びかけても返事ないんだよーばあちゃん、死んじまったらどうしよう』

「救急車呼んだなら大丈夫ですよ。ただ、脳に損傷が起きているかもしれないですから体を揺さぶったりとかしないでください、いいですね」

『旭、私は、また一人ぼっちになるのかな―――』

か細く呟く彼女の声に、俺は今まで我慢していたものがふつりと切れた。

「つかさ、今そっちに行くからちょっと待ってろ!」


闇の中を走りながら思った。俺は、夜空つかさの祖母の家を知らない。

早く駆け付けなければと気持ちが先行してしまい、肝心の住所を聞き忘れたという醜態はかき消したくとも消えてはくれない。

仕方がないので、近くの総合病院の方へ向かってみることにした。

入口の方に救急車が止まっている。ただ、あの救急車が夜空つかさの祖母を乗せたものかは分からない。俺は息を切らしながら、しばらく外から見ていることにした。救急車の後方部が開き、ストレッチャーと共に一人の女性が降りてきた。

「―――夜空先輩!」

俺の声に女性が顔を上げた。

俺が駆け付けると、彼女は涙で顔がぐしょぐしょに濡れて、虚ろな目でこちらを見つめている。

「旭……本当に、来てくれたのか」

「親族の方ですか?」

救急隊員の人に訊かれ、俺は関係性をどう説明すればいいのか分からず黙っていると、「すみません、大事な友人です」と彼女が口にした。

「彼は、親族ではないのですが、一緒にいて欲しいと私から連絡しました」

「分かりました、では、待合室でお待ちください」

俺は頷き、夜空つかさと共に病院に入った。

夜の病院というのは初めてだった。

たくさんの人が入院しているはずなのに、静寂に満ちた不思議な空間。まるで、人なんか誰一人としていないんじゃないかと思わせる。

「……ばあちゃんさ、痴呆症になってから家でボーっとすることが増えて、あまり外にも出歩くことがなくなって、筋肉量も落ちていたんだよね。だから転びやすくなっていたんだと思う」

「お父さんには、話したんですか?」

「うん、さっき連絡した。痴呆のことも以前から連絡していたんだけど、仕事や家族のことで忙しいとかでなかなかばあちゃんの通院も出来なくて。あ、今父ちゃんに小学生と保育園児の子供がいるんだよ。まぁ、いちを異母兄弟って奴だけど。会ったことないし」

「そうですか……」

「てか、急に連絡してごめんな。もう、旭は私に会いたくないとは思ったんだけどさ、ばあちゃん倒れてパニックになっちまった時に、真っ先に旭のことが頭に浮かんで連絡しちまった……自分勝手で本当ごめん」

夜空つかさは頭を下げた。

「夜空先輩、頭を上げてください。俺だって、先日あなたに本当に酷いことを言って傷つけて……本当にすみませんでした」

彼女は頭を上げて、俺を見つめた。

「だけど、今回俺を頼ってくれて嬉しかったです。大事な友人として、今夜はそばにいますよ」

「うん、ありがとう……」

そう言うと、夜空つかさはこてっと頭を俺の左肩に乗せてきた。

「ごめん、めちゃくちゃ眠い。寝ている場合じゃないんだけど、少し寝かせてくれ」

「いいですよ」

彼女はすぐに寝息を立て始めた。

彼女の顔を見ると、すごくまつげが長いことが分かる。知らなかった。

夕飯に何か揚げ物を食べたのか油のにおいがする。俺はそういえば夕飯を食べ損ねていた。ぐうーとお腹が鳴るが、今は彼女の一時的な枕でいよう。

大事な友人、真剣なまなざしでそう救急隊員の人に告げてくれた。それが今の彼女にとっての俺の位置づけなのだろう。

多分、いや、俺はもうずっと前から彼女のことが好きだ。

正義を振りかざして走り回る彼女も、風丸と俺と鬼ごっこしている彼女も、風丸の小屋の横で小さく泣いている彼女も、全部全部好きだった。

その好きだった思いが、何年も経て、ここで気づかされただけなのだ。

だけど、この想いを彼女に突き付けるつもりはない。

彼女は東条先輩と幸せになってくれれば、それでいいのだ。


「―――つかさ!」

その声に、いつの間にか一緒にうとうととしていた俺も覚醒させた。

声の方向を見ると、スーツ姿の男性が息を切らしてこちらに向かってきている。

「……父ちゃん」

「悪い、仕事で来るのが遅くなった。そちらの子は?」

「里中さん家の旭くん。小さい頃、よく一緒に遊んでた」

「あー里中さん家の。お久しぶりです。つかさ、ずっと一人で母さん任せていてごめんな。痴呆のことも、ちゃんと俺が通院させたりしないといけなかったのに。今夜はもう帰りなさい。あとは俺が対応するから」

「うん……何か分かったら連絡ちょうだい」

俺は一礼すると、そのまま夜空先輩と出入口に向かって歩いて行った。

「お父さん、俺、初めてお会いしたかも」

「え、そうだったっけ?」

「はい、普段から夜空先輩一人でいることが多かったし。土日は会っていなかったし」

「あーそうかもなぁ。平日は大体私が寝てから帰ってきてたみたいだし。土日もずっと寝てたし。あとは今の奥さんとデートしたりしてたみたい」

「え?そのこと、夜空先輩は知ってたんですか?」

「んーまぁ、知ってたよ。母ちゃん、単身赴任してから全然連絡取り合わなくなってたし、時間の問題かなぁって。そうしたら案の定」

「そうでしたか……」

「あ、お腹空かないか?付き合ってくれたお礼、何か奢ってやるよ」

「めちゃくちゃ減ってますよ。夕飯、食べ損ねたんですから」

「へへ、悪いな」

夜空先輩とコンビニに入り、コロッケをおごってもらった。

食べながら歩いていると、夜空の星がちかちかっと瞬いているのが見える。

「夜空ってさ、変な苗字だよな」

「どうしたんです、いきなり」

「でも、私の夜空の【夜】と、旭の【朝】って二人して共通しているよな」

「それ、小学生の時に俺が発見したことですよ。自分の手柄みたいに言わないでください」

「え、そうだっけ?」

「そうですよ。んで、昼がつく奴がいたら完璧だなって先輩が言ってました」

「朝昼夜でコンプリートだもんな!」

ぎゃはは、と品のない声を彼女が上げた途端、目の前から「つかさ?」というどこか聞きなれた声に俺たちは視線を向けた。

それは、夜空つかさの祖母の家間近、街灯に照らされ、東条先輩が怪訝な眼差しでこちらを見つめて立っていた。




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