7.晴香とリリィ
私は自室のベッドにゴロンと横になった。
しばらくゴロゴロしていると、ムカムカしていた気持ちが少しずつ落ち着いてきた。
考えてみれば家庭教師の身分で一人部屋を与えられているなんて贅沢な話だ。
いくら形式上ご主人様の養子になったとはいえ、破格の待遇だろう。
いつの間にかそれが当たり前になっていたけど、リリィさんの言うとおり、私は自分の立場を理解していなかったのかもしれない。
彼女が私に色々言いたくなるのもわからないではない。
いきなりケンカしちゃったけど、もう少し冷静に話すべきだったのかも。
たしかに私を雇ってくださっているのは、リリィさんじゃなくてご主人様だ。
でも、リリィさんは雇い主の娘だ。最低限の敬意は表すべきだった。
リリィさんの光太くんや健希さんへの暴言は許せないけど、私の対応が全て正しかったわけじゃない。
そこまで考えたとき、ノックもなしに部屋の扉がバーンっと開かれた。
入ってきたのはリリィさんだ。
「寄生虫! すぐに私の部屋にきなさい!」
うわ、まだ寄生虫とか言っているよ!
反射的に言い返しそうになったけど、グッとこらえた。反省したばかりだしね。
「なんのご用ですか?」
「私の部屋の片付けを手伝いなさい。二年ぶりに戻ったからね」
「お掃除ならメイドさんたちがされていたみたいですけど……」
「それは分かっているわ。でもアメリカから持ち帰った荷物の整理とかあるのよ」
「それで、寄生虫の私に手伝えと?」
たとえ兄弟や親でも男に自分の部屋に入ってほしくないという。
私も女子として、男子に自室の片付けを手伝わせたくないという気持ちは理解できる。
「メイドさんにお願いしたらどうですか?」
「パパのお手伝いで忙しそうなの! 今この家にいる暇な女はアンタくらいよ」
なるほど、それなら今はメイドさんたちの手を煩わせるのは心苦しいだろう。
私は朝日野家にお世話になっている身だ。片付けの手伝いくらいするべきだろう。
それに、これはリリィさんと仲直りするきっかけになるかもしれない。
「分かりました」
私は頷いて、リリィさんと共に彼女の部屋へと向かった。
リリィさんの部屋の前には、大きなトランクが二つ置いてあった。手持ちの鞄以外にアメリカから持ち帰った荷物で、部屋の前までは保さんが運んでくれたらしい。
「さ、寄生虫。部屋に入れてあげるから荷物を持って入りなさい」
ムカムカ。
「片付けのお手伝いはします。でも、いいかげん寄生虫っていうのはやめてください」
「じゃあ、なんて呼べば良いかしら? 晴香さんでいい?」
「名前で呼んでくださるなら、
「じゃあ、晴香さん。あらためて部屋の片付けを手伝ってもらえるかしら?」
「はい。わかりました」
それから、私はリリィさんと部屋の片付けを始めた。
元々掃除自体は行きとどいている。
トランクを開けて、まずは持ち帰った服を戸棚に片付けるよう頼まれた。
一方、リリィさんはパソコンやタブレットを机に設置している。どうやら、私にはそれらを触らせたくないみたいだ。
もちろん、私も無理に手伝おうとは思わない。壊したら大変だしね。
トランクの中の服を片付け終わって、次は何を手伝おうと周囲を見ると、本棚が目に入った。
そこには分厚い本がたくさん収められていた。
経営とか、哲学とか、政治とか、なんだかとっても難しそうな本だ。
「本はもう片付けたんですか?」
「はぁ? 紙の本なんて時代遅れよ。今はこれでしょ」
リリィさんはタブレットを手に持っていた。電子書籍ってことだろう。
「そこにある本はアメリカに行く前に読んだヤツよ」
「ああ、なるほど……って、二年前にですか?」
「ええ、それがどうかしたかしら?」
「こんなに難しそうな本ばっかりなのに」
今の私には難しそうな本ばかりだ。
「ふんっ、当然でしょ。バカな弟と一緒にしないで!」
たしかにこれだけの本を小学五年生の時に読破したのならすごいと思う。
光太くんや私をバカにする態度も、少しは理解できてしまうかも。
「私にはパパのあとを継いで朝日野グループを率いていく責任があるのよ。アンタみたいに他人にすがって生きていく女とは違うの!」
「私は他人にすがって生きていくつもりなんてありません」
「母親が死んで、パパに助けてもらったんでしょ! それを他人にすがるっていうのよ」
どうやら、リリィさんは私の事情をある程度知っているらしい。
「でも、遺産だの玉の輿狙いだの、そんなつもりはありません。万が一、遺産相続なんて話になったら辞退するから安心してください」
「信じられるもんですかっ! いざ大金を目の前にしたら人間は豹変するものよ。子どもの頃の信念なんて簡単に捨てて、楽に生きる道を選ぶに決まっている」
「ひどい決めつけね。私は自分の力で生きていきたいの! そりゃあ、今はリリィさんのお父さんに助けてもらっているかもしれないけど!」
「どーだかね。それより、このコートをベランダに干してもらえるかしら?」
洗うほどではないが汗をかいたからとのこと。
「わかりました」
私は頷いて、コートを手にベランダに向かった。
私の高所恐怖症はまだ治っていない。ベランダに出るのはやっぱり恐い。
でもリリィさんに弱みは見せたくなかった。
私は大きく息を吸って、ベランダに出た。
大丈夫、柵はあるし落ちることはない。
でもやっぱり恐い。早く用事を済ませて戻ろう。
ちょっとコートを物干し竿に引っかけるだけ……って!
このベランダには物干し竿もハンガーもないじゃない。
当たり前だ。ここはアパートじゃない。朝日野家長女の部屋だ。
ベランダに服を干すなんてしないし、物干し竿が用意されているわけもなかった。
「リリィさん、干すって言っても……」
そう言って、部屋の方を振り返ったときだった。
リリィさんの手でビシッと窓が閉められた。
私は慌てて窓に駆け寄った。
「ちょ、リリィさん!?」
リリィさんはカチャリと鍵を閉めてしまった。
「私には責任があるの。悪い虫から朝日野グループを守らなくちゃいけないのよ!」
「リリィさん! お願い、鍵を開けて!」
私は窓をガラスをドンドンと叩いた。
「リリィさん! リリィさんっ! お願いだから鍵を開けて!」
ベランダに閉め出されて、私はパニックになりかけていた。
混乱して後ろを振り返ってしまう。そこには柵があって、その先は……
「あっ、あっ。あぁぁ……」
地面が遠い。
アパートのベランダから落下した幼いころの恐怖がよみがえる。
気がつくと、私は座り込んで涙を流していた。
落ち着け、落ち着くんだ、私!
大丈夫。私はもう幼児じゃない。
柵をすり抜けて落ちるなんてありえない。
そう自分に言い聞かせてみても、やっぱりダメ。
その時ふと、幼児期ではなく二ヶ月前の事を思い出した。
屋上で、優しく私の手を握ってくれた健希さん。
とっても安心できた、あの暖かい手。
同時に、健希さんと歩いた屋上の思い出も。
そうよ、私は屋上を歩くこともできた。
だから、大丈夫、大丈夫よ、晴香。
でも、ここには健希さんも光太くんもお母さんも、頼れる人はだれもいない!!
そんな私に、窓ガラス越しのリリィさんが言った。
「大げさね。そのざまで何が『自分の力で生きていく』よ。所詮アンタは誰かに頼らないと生きていけない寄生虫よ!」
好き勝手言うリリィさんの言葉にムカつく余裕すら、今の私にはなかった。
誰か、たすけて。
健希さん、光太くん、お母さん!
「大体、自分の面倒を自分で見るなんて当たり前のことでしょ。朝日野グループを継ぐってことは、子会社や関連会社併せて世界中の十万人の社員、取引先も併せれば百万人以上の人間の人生に責任を持つって事よ!」
さらにリリィさんは私に吐き捨てた。
「アンタなんかに『ブラック企業になりそう』だの『潰れちゃう』だの誹謗中傷されてたまるもんですかっ!」
恐怖の中、私はハッとなった。
たしかにさっき、私は売り言葉に買い言葉でそんなことを言ってしまった。
あれはリリィさんのプライドを傷つける言葉だったのではないか。
リリィさんの暴言と同じくらい無神経なことを、私も彼女に言ってしまったのではないか。
リリィさんはさらに続けた。
「私の重圧なんて、病気で部屋から出らえない健希お兄ちゃんになんて理解できっこない! 私の苦労なんて小学校の勉強すら嫌がる光太に理解できっこない! まして、晴香さんに大企業の跡取りになるってのがどれだけ大変かなんて、絶対に分かるわけない!」
リリィさんの声は、まるで悲鳴のようだった。
玄関ホールでは許せない暴言もたくさんあった。
でも、私もリリィさんの何を知っているというんだろう。
最初の一ヶ月、私は光太くんのことを何も知らなかった。
だから家庭教師もうまくできなかった。
でも、二人で満天の星を観測したあの日、私は光太くんとちゃんと向かい合った。光太くんのことをたくさん知ったから、家庭教師も上手くいくようになった。
リリィさんともちゃんと向き合って、彼女のことをもっとよく知るべきだったんだ。
そりゃあ、いきなりケンカを売られてムカついたけどさ。
でも、それで暴言を返した私もリリィさんと変わらないじゃない。
今、リリィさんは本音を話してくれている。それにはちゃんと向き合わないとダメだ。
高所への恐怖に足ががたつくえるけど、私は壁伝いに立ち上がり、窓ガラス越しにリリィさんと向き合った。
「リリィさん、ごめんなさい」
私の謝罪の言葉に、リリィさんは戸惑うように目を見開いた。
「はぁ? なによ、いきなり」
「さっきは私も言いすぎたよ。あなたの重圧も、努力も、何も知らないくせに」
「い、いまさらそんなことっ」
「そのことは本当に申し訳なかったと思う。でもね、リリィさん。努力をしているのはあなただけじゃない。光太くんも、健希さんも、皆それぞれの立場で努力している。だから、リリィさんも光太くんと健希さんに謝って」
リリィさんは窓ガラスの向こうで、まるで私を恐れるように半歩後ろに下がった。
「な、なによ。謝るのか説教するのか、はっきりしなさいよ」
「リリィさんが本音を教えてくれるなら、私の本音も言わなきゃフェアじゃないと思ったから。あなたに謝りたいのも、あなたに謝ってほしいのもどっちも私の本当の気持ちよ」
高所恐怖症で頭が混乱しているのかな。我ながら言っていることが無茶苦茶だ。
「わけがわかんない! 頭がおかしいんじゃないの!?」
リリィさんは叫び、部屋から逃げ出すように駆けだした。もちろん窓の鍵を開けることなく。
彼女がいなくなり、今度こそ私はベランダから部屋に戻る方法がなくなった。
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