6.私の生徒はバカじゃない!
私が光太くんの家庭教師になって、三ヶ月が経過した。もうすぐ今年も終りだ。
年が明け三学期が終われば、光太くんは小学五年生に、私は中学二年生になる。
そんなころ。ご主人様と長女のリリィさん――つまり、光太くんのお父さんとお姉さんがアメリカから帰国することになった。
その前日、私は光太くんの算数ドリルを採点し終えてから言った。
「すごい、光太くん! 全問正解よ」
今日の算数の課題は三桁の足しと算引き算、それに
「よっしゃー! じゃあ、ゲームやってもいいか?」
「三十分だけね。そのあとは国語のお勉強よ」
「ちぇ。せめて一時間やりてー」
天文観測をしてから、光太くんはお勉強から逃げ出さなくなった。
当初は小学一年生レベルすら怪しかったけど、今では小学二年生レベルにはなった。
特に理科は得意らしく、星のこと以外も小学三年生レベルに達している。
たった二か月で見違えるようだ。
やっぱり光太くんはバカなんかじゃなかった。むしろ、物覚えがいいくらいだ。
私も家庭教師として、気合いをいれなおさないとね。
ゲームを始めた光太くんに、私はたずねた。
「ねえ、リリィさんってどんな子なの?」
光太くんの表情にはありありと嫌悪感が浮かんだ。
「自分が選ばれた特別な人間だと思っている。上から目線のムカつくヤツだよ」
一刀両断だ。どう返事をしたらいいんだろう・
私がちょっと困った表情になると、光太くんが私を安心させるように言った。
「そんな心配そうな顔するなって。リリィが晴香をいじめたら、オレが守るから」
いじめられる心配をしたわけじゃないけど、守ってくれるという気持ちはうれしい。
「ありがとう、頼りにしているよ。でも大丈夫。生意気な子の相手はなれているから」
「へー、リリィ以外にも生意気なヤツがいるのか?」
「そりゃあね」
その筆頭は目の前でゲームをしている私の生徒だよとは言わないでおいた。
翌日の十三時半ごろ、予定通りご主人様とリリィさんが帰宅した。
私は健希さんや光太くん、保さんと一緒に、玄関ホールでお出迎えした。
健希さんが代表して、二人に挨拶した。
「お帰りなさい、父さん。リリィもお疲れ様」
ご主人様は小さく頷いた。
「ふむ、いま戻った。健希、部屋から出て大丈夫なのか?」
「問題ありません。最近は体の調子が良いので」
「それは何よりだ。だが、無理はしないように」
ご主人様とリリィさんはコートを脱いで、保さんに渡した。
ご主人様はぴんっと背筋が伸びた紳士だった。
健希さんや光太くんのお父さんらしく、四十三歳とは思えないくらいカッコイイ。
イケメンのおじさん……イケオジってやつだ。
これで世界中に展開する大企業朝日野グールプの会長だっていうんだから、同年代にはモテモテだろうなぁ。
リリィさんも美少女だ。同年代でここまでかわいい女の子に出会ったことはない。
平均的容姿(たぶん)の私はちょっと引け目を感じちゃうくらいだ。
でも……なんでだろう。いくら美人でもリリィさんは全然魅力的とは思えない。
値踏みするような目で私を睨んでいるみたいで、なんだかすごく嫌な感じだ。
とはいえ、話もしないうちから変に決めつけてもしょうがない。
光太くんがご主人様に駆け寄った。
「お帰り、父さん! なあ、見てくれよ。オレ、ちゃんと算数できるようになったぜ」
光太くんが笑顔でご主人様に見せたのは、昨日の百点満点の算数ドリルだ。
ご主人様は光太くんからドリルを受け取ると、うれしそうにニッコリした。
「うむ。光太、がんばったな」
「へへっ、晴香に毎日家庭教師してもらったからな」
最初の一ヶ月は勉強じゃなくて鬼ごっことかくれんぼに費やしたけどね。
そのあとご主人様は私に話しかけてくださった。
「キミが晴香ちゃんだね」
「はい」
「三ヶ月間ありがとう。保さんから連絡は受けていたが、光太も見違えるようだ」
ご主人様はそう言って、私に軽くお辞儀してくださった。
「私はたいしたことしていません。光太くん自身のがんばりです」
「いや、光太の顔を見れば分かる。晴香ちゃんを家庭教師にしたのは正解だった」
そんな風に言われると照れちゃうな。
「ありがとうございます」
私がそう言うと、ご主人様は光太くんに言った。
「光太、少しは勉強が好きになったか?」
「今でも好きじゃないよ。けど、宇宙飛行士にためには算数ができないとダメだからな」
光太くんがそう言うと、ご主人様はうれしそうに豪快な笑い声をあげた。
「はっはっは。光太は宇宙飛行士になりたいのか。ならばもっともっと勉強が必要だな」
光太くんの頭を、ご主人様はヨシヨシとなでた。
「おうっ! オレがんばるぜ!」
誇らしげな光太くんを見て、私もうれしかった。
家庭教師をがんばって本当によかったと心から思えたもよ。
健希さんが言った。
「父さん、晴香ちゃんのおかげで屋敷の中が明るくなったよ。僕も彼女に感謝している」
「そうか。ならば私も晴香ちゃんに感謝せねばならんな」
私は内心ちょっとホッとしていた。正直に言うと不安だったんだ。
ご主人様に『やっぱり屋敷から出て行け』と言われたらどうしようって思っていた。
でも、ご主人様はとってもやさしいだった。
光太くんもご主人様に褒められてうれしそうだけど、私も誇らしい。
ちょっぴり涙が出そうになったくらいだ。恥ずかしいからこらえたけどね。
ご主人様は保さんに言った。
「保さん、書斎で留守の間の報告を頼めるか?」
「かしこまりました」
保さんが頷き、二人は書斎へと向かった。
玄関ホールには、健希さん、光太くん、リリィさんの三兄弟と、私だけが残された。
早速、再開した兄弟の会話が始まるのかな? 私は席を外すべきかな?
……なんて思ったんだけど。
ご主人様がいなくなると、それまで黙っていたリリィさんが光太くんに吐き捨てた。
「くだらない。何が宇宙飛行士よ。馬鹿馬鹿しい」
それはとてもとても冷たい声だった。
彼女が心の底から弟を軽蔑していると、横で聞いていた私にも分かるほどに。
光太くんが言い返した。
「なんだよ、文句あるのか?」
「光太、あなたも来年には小学五年生でしょう? 小学二年生のドリルを解いて喜んでいるなんて情けないって思わないの? 本当に生まれながらのバカは救いがないわね。朝日野家の恥さらしもいいところよ」
うわぁ。昨日光太くんが言っていたとおりイヤな性格だ。
私は反射的に反論してしまった。
「光太くんはバカなんかじゃありません!」
家庭教師をしていれば分かる。光太くんは物覚えがいいし、頭の回転も速い。
二ヶ月前までは勉強する意味と楽しさを知らなかっただけだ。彼の学力はどんどん上がっている。そのことは私が誰よりも知っている。
だが、リリィさんは虫けらを見るように私に視線を送ってから言った。
「で、アンタが光太の家庭教師だって?」
私が「はい」と頷くと、リリィさんは『ふんっ』と鼻を鳴らした。
「何が家庭教師よ。子どもじゃない」
カッチーン!
そりゃあね、私は子どもだよ。家庭教師として力不足なのも自覚しているよ。
でも、いきなりこんな風に吐き捨てられるいわれもない!
だいたい、リリィさんも私と同じ年齢のはずだ!
……いや、いや、いや、落ち着け。
こんなのただの安い挑発だ。私は怒りを押し殺して、伝えるべきことを言った。
「私は確かに未熟だけど、光太くんはがんばっているよ。私の生徒をバカにしないで」
すると、リリィさんはさらに暴言を続けた。
「はぁ? アンタ何を言っているの? 光太以上のバカなの? そもそも、雇い主には敬語をつかいなさいよ。最低限の礼儀も知らないのかしら?」
ムカムカムカッ。
「私の雇い主はリリィさんじゃなくて、ご主人様なので」
「リリィ様でしょ! 朝日野家に群がる寄生虫のくせに」
な、な、なっ? 寄生虫!?
あまりの言葉に、私が口をパクパクさせると、リリィさんはさらに暴言を続けた。
「朝日野家に紛れ込んで! 私が当主になったら速攻で追い出してやるからねっ! パパの養子になったらしいけど、私は認めないわ。アンタにパパの遺産なんて渡さない!」
たしかに、私はご主人様の養子ってことになっている。
でも、それはあくまでも私が中学生でそうするしかなかったからだ。
遺産目当てなんかじゃないし、もしもそういうことになったら辞退するつもりだ。
「養子の件はあくまでも……」
言いかけた私を、リリィさんは遮った。
「それとも、健希お兄ちゃんか光太をたぶらかして、玉の輿狙い?」
ちょっ、何を言っているのよ、この子は!?
それってつまり、将来私が健希さんか光太くんと結婚するってこと?
そりゃあ、親類とはいえ血は繋がってないよ。
健希さんはカッコイイし、光太くんはかわいいし、どっちも素敵な男子……
……って、そうじゃなくて!
「私、そんなつもりはありません!」
玉の輿狙い呼ばわりされて黙ってはいられない。
自分の力で生き抜く。働かざる者食うべからず。
それが私の信念であり、お母さんの教えだ。お母さんの遺言でもある。
たしかに私が朝日野家にお世話になった経緯は色々無理もあった。
でも、ここまでの暴言を我慢して受け入れないといけないの?
その時、私をかばうように、光太くんがリリィさんの前に立ち塞がった。
「いい加減にしろよ! 晴香にそれ以上言ったらぶん殴るぞ!」
光太くんは肩をふるわせて、全身で怒りを表現していた。いまにもリリィさんに殴りかかりそうだ。
光太くんの気持ちはうれしい。
でもダメだ。
私は光太くんの肩をかるくつかんだ。
「光太くん、やめて」
「なんでだよ?」
「暴力はダメ。それに私のためにお姉さんとケンカしないで」
光太くんは不満そうにしたが、うなずいてくれた。
「わかったよ」
うん、ちゃんと理解できる光太くんはいい子だね。
一方、リリィさんの暴言は止まらない。
「光太、あなたもおなじよ! 朝日野家にバカも必要ない。私が家長になったらあなたもこの家にいられないと思いなさい!」
ここまでくると、さすがに健希さんも黙っていなかった。
「リリィ! いい加減にしなさい。晴香ちゃんに謝れ! 光太にもだ」
「うるさいわねぇ。病人は黙っていなさいよ。どうせ大人になる前に死ぬんでしょ」
な!? なんてことを言うんだ!
非常識にもほどがある!
健希さんは不治の病なんかじゃない。
確かに体が弱いけど、大人になる前に死ぬなんて考えたくもない!
今度は私がリリィさんをひっぱたきそうになった。
だが、そんな私を健希さんが「大丈夫だから」と言って止めてくれた。
それから、あらためてリリィさんに言った。
「リリィ、もう一度言う。晴香ちゃんと光太に謝れ」
私も続けた。
「健希さんにもよ! いくらなんでもひどすぎる」
光太くんも「そうだそうだ」と同意した。
だが、リリィさんに私たちの言葉を聞く耳などないらしい。
「三人とも、なにか勘違いをしているんじゃない? パパは私を後継者に選んだのよ。寄生虫女はもちろん、お兄ちゃんも光太も、私より立場は下なの! わかった!?」
健希さんが首を捻った。
「後継者? そんな話は聞いていないが?」
「パパはどうして私だけをアメリカ留学させたと思う? 病弱な長男も、バカな次男も後継者としてふさわしくないって考えたからよ」
たしかに、以前からどうしてご主人様がリリィさんだけアメリカに連れて行ったのかは疑問だった。本当にリリィさんを後継者にするためだったの?
さっきのご主人様は光太くんや健希さんを見捨てたようには見えなかったけどなぁ。
リリィさんは吐き捨てた。
「もう部屋に行く。これ以上、病人とバカと寄生虫トリオと話しているヒマはないもの」
リリィさんはさらに私に言った。
「ちょっと、寄生虫」
私は返事をせず無視した。
当然だ。寄生虫なんて呼びかけられて返事をするほど、私は落ちぶれちゃいない。
「気が利かないわね。役立たずの居候なら、私の鞄を運んでよ」
どうだろうね、この言い草。
別に鞄を運ぶのはかまわないよ。アメリカからの長旅で疲れているだろうしさ。子の家にお世話になっている者のつとめだろう。
だけど。ここまで暴言を吐かれたら素直にしたがう気になんてなれないよ。
「寄生虫が鞄に触って、リリィさんが病気になったら大変でしょ。自分で運びなさいよ」
リリィさんは顔を真っ赤にして怒りだした。
「生意気な女が! パパの養子になったからっていい気にならないで! 私はアンタのことを姉妹だなんて思っていないわよ」
姉妹だと思っていないのは私もおなじだ。
「パパから朝日野家を受け継いだら、アンタなんてすぐにでも追い出してやるんだから」
「まるで、すぐにも跡を継ぐかのような言い方ね」
ご主人様は健康そうだし、リリィさんはまだ一四歳のはず。仮に彼女が跡継ぎになるとしても、何年も先のことだろうと思うんだけどな。
「もちろんよ! パパより私の方が会社のみんなの評価が高いもの」
「へー、そうなんだ」
「アメリカを発つ前に、子会社の社長に『私が跡を継ぐ日が楽しみ』って言われたわ」
「社交辞令じゃないの?」
「アナタみたいな寄生虫を受け入れるなんてパパもどうかしているわ。とっとと引退して私に代を譲るべきね」
ムカムカムカ。
あまりにも腹が立ったので、私は言ってやった。
「リリィさんが跡を継いだら、社員の皆さんがかわいそうね。パワハラ体質のブラック企業になっちゃいそうだもの。あるいは会社が潰れちゃうかしら」
リリィさんの顔が怒りで真っ赤になった。
「なんですって!? ずいぶんな暴言ね!」
私はリリィさんをにらみつけた。
「どっちが暴言よ!」
たしかに私は朝日野家にお世話になっている立場だ。
だから私への暴言だけなら許せる。
それだって許容範囲ギリギリだけど我慢できる。
でも、家庭教師として光太くんをバカにされるのは我慢できない。
健希さんへのあんな暴言許せない。
しかもリリィさんは最後にご主人様のことも侮辱した。
私はご主人様に雇われた光太くんの家庭教師だ。
健希さんにもお世話になった。
三人への暴言を我慢する理由はない!
しばらくにらみあっていると、リリィさんは根負けしたのか目をそらした。
「バカバカしい。これ以上付き合っていられないわっ」
そう捨て台詞を残して、リリィさんは自分で荷物を持って階段を上って行った。
その後ろ姿を見送ってから、光太くんはニヤリと笑った。
「晴香の勝ちだな。さすがオレの家庭教師だ」
別に勝ち負けを決めたつもりはないけどね。
健希さんが申し訳なさそうに言った。
「晴香ちゃん、ごめん。妹がひどいことを言った。」
「大丈夫です。健希さんのせいじゃありません」
「後でもう一度叱っておくよ。父にも伝えておく」
一瞬頷きそうになったが、私は思い直して首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。子どものケンカで、ご主人様にご迷惑をかけられませんから」
ホントのことを言えば。私だってご主人様に言いつけてやりたかったよ。
だけど、ご主人様は新年早々、リリィさんと一緒にアメリカに戻ると聞いている。
ご主人様には、こんなトラブルよりも家族の交流に時間を使ってほしかった。
「わかったよ。でもこれ以上リリィが何か言うようなら、僕か父に相談してくれ」
「はい、ありがとうございます」
私がお礼を言って、その場は一旦お開きになった。
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