5.光太と晴香と天文観測

 夕食のあと、光太くんと約束した時間になった。

 すると私の部屋に光太くんがやってきた。


「晴香、行こうぜ」

「うん」

「どうしたんだよ? 顔が青いぞ」

「だ、大丈夫よ。屋上でしょ? 行くわよ」


 だが、光太くんは言った。


「庭でいいだろ」

「え、なんで?」

「だって高所恐怖症なんだろ?」

「どうして知っているの? 健希さんに聞いたの?」

「健希兄さんは何も言ってねぇよ。でも、昼間のことを考えれば想像くらいできるって」


 ありゃりゃ、バレバレだったみたいだ。


「どうせ、健希兄さんが晴香の練習に付き合ってあんなことになったんだろ?」


 やっぱり光太くんはバカなんかじゃない。ちゃんと考えられる子だ。


「ったく、天文観測なんて庭でもできるだろうが。素直に相談しろよな」


 その通りだったよね。


「ごめん。健希さんにも迷惑をかけちゃった」

「ホント、晴香って意地っ張りだよな」

「それは光太くんにだけは言われたくないけど」


 それから、私は光太くんと一緒に庭に出た。




 お屋敷の外にでると満天の星々が広がっていた。

 私は思わずつぶやいた


「すっごい……」


 私が暮らしていたアパートの夜空は、こんなに星が瞬いていなかった。

 このお屋敷は郊外にある。大通りや工場なども近くにないから、空気が澄んでいるのかもしれない。

 天文観測をするので、お屋敷の電気を全部消してもらっているのも大きいのだろう。


「おう、今日は星がよく見えるな」


 光太くん曰く、天文観測をするには絶好の夜空だそうだ。

 私と光太くんは庭の芝生に寝っ転がった。

 光太くんがポツリと言った。


「健希兄さんも一緒ならよかったのに」

「しょうがないよ。昼間倒れたばっかりだし」


 健希さんはしばらくお部屋で安静にしているように、保さんから指示されている。

 光太くんはすこし寂しそうに言った。


「いつかまた、家族全員で星を見たいな」

「家族みんなで天文観測をしたことがあるんだね」

「うん。小学校に入る前、お父さんと健希兄さんとリリィと、それにお母さんも」

「そっかぁ」

「あの時から、オレは星が好きになったんだ。でも……」


 その後、光太くんたちのお母さんは亡くなってしまった。

 元々体が弱かった健希さんの体調もさらに悪化した。

 お父さんとリリィさんはアメリカに行ってしまった。


「だから、もう一緒に星を見てくれる人もいない」


 これまでの家庭教師も夜になる前に帰宅してしまうから、一緒に天文観測なんてしてくれなかったという。


「私でよければ、いつでも付き合うよ」


 光太くんは「ふんっ」とそっぽを向いた。


「晴香のくせに生意気だよ」

「どこのガキ大将よ」


 ホント、どっちが意地っ張りなんだか。


「私もさ、小さい頃お母さんと一緒に星を見たよ」

「ふーん」

「こんな風に満天の星じゃなかったけどね。お母さんはお月様にはウサギさんがいるんだよって言っていたっけ」

「そんなわけないだろ。月面には空気なんてないよ」

「ま、そうだけどね」


 たしかに、現実主義のお母さんにしては珍しくメルヘンなこと言っていたよなぁ。

 思い出すとクスッと笑ってしまう。


「光太くん、どれがなんて星か分かる?」

「おう! もちろんだぜ」


 その後、光太くんは星々を指さしながら、あれはオリオン座でその中で一番輝いているのがペテルギウスで……と、次々説明してくれた。


「光太くん、すごい!」

「このくらい、当然じゃん」

「だって、私、そんなにたくさんの星の名前知らないよ!」


 オリオン座は聞いたことがあったけど、ペテルギウスは知らなかった。

 まして、きりん座やうさぎ座なんて星座もあるとは思わなかった。


 正直言うとどこまで光太くんの知識が正しいのか、その時の私にはわからなかった。

 指さされてもどの星のことかなんて判断できないしね。

 でも、自信満々に解説する光太くんを見ると、きっと正しいんだろうなぁって思えた。


「なんだ、晴香も知らないことがあるんだな」

「あたりまえじゃん」

「家庭教師のくせに。先生ならなんでも知っているもんじゃねーの?」

「まさか、学校の先生だって、塾の先生だって、家庭教師だって、知らないことはいっぱいあるわよ」


 当たり前のことだ。

 でも、光太くんにとってはびっくり仰天の事実だったらしい。


「マジで? 先生って何でも知っているんじゃないのか?」

「そんなわけないでしょ」


 もっとも、今回に関しては、私も昼間のうちに星の名前くらい調べておくべきだった。

 私も家庭教師としてまだまだ未熟だ。

 反省して次に活かさなくちゃ。

 高所恐怖症のことで頭がいっぱいだったんだけど、それは言い訳にならないだろう。


 光太くんがポツリと言った。


「オレさ、いつか宇宙飛行士になりたいんだ」

「りっぱな夢だね」

「馬鹿にしてるだろ?」

「まさか。素敵な目標だと思うよ」


 私がそう答えると、光太くんは悔しそうに言った。


「でも、どうしたら宇宙飛行士になれるのか分からないんだ。図鑑にも書いてなかったし」


 なるほどね。


「どうして分からないと思う?」

「……分からない」


 分からない理由が分からないと光太くんは言った。

 なら、家庭教師として足りないことを教えてあげようか。


「勉強してないからよ」

「国語や算数ができたら宇宙飛行士になれるのかよ?」

「そういうことじゃないわ。宇宙飛行士になるにはどうしたらいいか、それを調べる方法すら勉強していないでしょってこと」

「晴香はどうしたら宇宙飛行士になれるか知ってんのか?」

「今は知らない。でも、調べ方なら少しだけ知っている」

「どうすればいいんだよ?」

「図書館で調べる、ネットで検索する、博物館に行く……そして」

「そして?」

「宇宙について学べる大学を目指す。もし私が宇宙飛行士を目指すならそんなところかしら」


 自分で口にしておいてなんだけど、実際には宇宙飛行士になるのってそこまで簡単じゃないだろうなって思う。

 大学を卒業しただけで宇宙に行けるわけじゃないだろうしね。


 でも、まずはそこからだ。


「大学って……オレには無理だろ」

「どうしてそう思うの?」

「だってオレ、バカだし」

「私は、光太くんがバカだなんて思わないけど」

「国語も算数もできない」

「でも、私が知らない星の名前は知っていた」

「それは星が好きだから」

「好きって気持ちが、お勉強の第一歩だよ」

「勉強は嫌いだ」


 うん、よく知っている。


「でも、宇宙飛行士になりたいなら算数や国語……もっと言えば、数学と英語ができないと無理なんじゃないかな」

「なんで英語が必要なんだよ?」

「宇宙ステーションで外国人の宇宙飛行士と話せないと困るでしょ」

「あっ」


 光太くんは初めて気がついたとばかりに目を見開いた


「もちろん、理科や社会もね」

「えー、社会もかよ? さすがに関係なくね?」

「関係大ありよ。宇宙開発の歴史とか、宇宙開発に関する国際法とかを知らないで宇宙飛行士になれる? 他にもロケットを作るための予算を国に出してもらうなら、政治や経済も勉強しておいた方がいいわね」


 私が説明すると、光太くんは両目を星々のようにキラキラと輝かせた。


「すっげーな。晴香っていろんなことを知っているんだ」

「だから、知らないってば。今言ったのはただの想像」


 光太くんはちょっぴりガッカリした表情になった。


「なんだ、想像かよ」

「本当は私になんて想像もできない、もっともっと難しいことをたくさん勉強しなくちゃダメだと思うよ」

「マジかよ……」

「あとは運動もかな?」

「体育なら得意だぜ」


 たしかにすばしっこいもんね。


「夢や憧れは大切だけど、実現するためには努力しないとね」

「何から勉強すればいいんだよ」

「まずは、漢字ドリルと算数ドリルかな?」

「ええぇぇ……結局そうなるのかよ」

「結局そうなるのよ」


 宇宙飛行士になる方法なんて私は知らない。

 光太くんが宇宙飛行士になれるかどうかも分からない。

 でも、目標のためには一歩ずつ進むしかない。


 屋上の真ん中まで歩くのと同じだ。

 最初の一歩を踏み出さなかったら、二歩目はない。

 二歩目がなければ、目的地にはたどり着けない。


 ついでだ。もうちょっとだけ、算数と宇宙飛行士になる夢を結びつけてみようか。


「地球から月まで何キロあるか知っている?」

「約三十八万キロ」


 お、すごい。即答だ。


「じゃあ、時速四万キロのロケットがあったら、何時間で月まで行けると思う?」

「え、え、ええ? 全然わかんないよ!」


 でしょうね。


「答えは九時間半くらいね。最高時速を出し続けられればだけど」

「マジで? どうやって計算したんだ?」

「簡単な割り算よ」


 三十八万を四万で割っただけだ。答えは九・五時間。つまり九時間半である。

 でも、今の光太くんにはとてつもなく難しい計算に思えたらしい。


「割り算なんてできねーよ」

九九くくすら覚えてなけりゃそうでしょうね」


 それからしばらく、私と光太くんはだまって星空を見ていた。

 静かな時間が流れていく。

 ふと、光太くんが言った。


「なあ、晴香も何か将来の夢ってあるのか?」

「私の夢?」


 光太くんには言ったことがなかったかな。


「先生よ。学校の先生」

「うわぁ」

「何よ、その反応?」

「いやぁ、なんかとっても晴香らしい夢だなぁって」

「ありがと」


 光太くんは夜空を見つめたまま言った。


「それでオレの家庭教師になったのか」

「うん。それだけじゃないけどね」

「他にも理由があるのか?」

「気になる?」

「そりゃそうだろ、晴香はまだ中学生だろ? それなのに親から離れて住み込みで働くなんて変じゃん」


 そういえば、光太くんには私の身の上話もしたことがなかったっけ。


「一か月前、私のお母さんが死んじゃってね……」


 私は光太くんに自分のことを語った。

 光太くんは黙って聞いていた。

 星がきらめいていても、夜の庭は暗くて彼の表情はわかりにくい。

 全部聞き終わって、光太くんは言った。


「晴香ってスゲーな」

「そんなことないよ」

「スゲーよ。中学生なのに、仕事して自分で生きていくなんて」


 光太くんは心底感心した様子だ。


「そんなことないよ。私は結局ご主人様……光太くんのお父さんのご厚意に頼っているだけだもの」


 仕事をして独り立ちなんて強がってみても、現実はそういうことだ。


「仕事をしていると言っても、ご主人様の養子にしてもらったわけだし」

「養子? 晴香って父さんの子どもになったのか?」

「まあ、そういうことになっているわよ」

「マジかよ。じゃあ、オレの姉ちゃんってことか?」

「便宜上ね。中学生を雇う事なんてできないもの」


 とはいえ、ご主人様がどう考えているかはわからない。

 もともとご主人様は私を養子にしたいと言ってくださった。

 私がそれを断ったから、雇うという形に変えただけだ。

 ご主人様としてはどんな形であれ、まずは私を養子にしたかったのかもしれない。

 どうして私にそこまでしていただけるのかは分からないけど。


 やがて、二一時半をすぎたころ保さんがやってきた。


「光太坊ちゃん、晴香さん、そろそろお屋敷にお戻りください」


 どうやら時間切れのようだ。小学四年生はそろそろ就寝準備をしないとね。

 私は腰を起こして光太くんに言った。


「光太くん、戻ろうか」

「おう」


 光太くんも起き上がった。

 そして、ポツリと言った。


「オレ、明日から算数ドリルやるよ。学校にも通う」


 私は立ち上がってたずねた?


「ホントに?」


 光太くんも立ち上がり、『おう』と頷いた。


「その代わり、晴香に頼みがあるんだ」

「何?」

「また一緒に、天文観測してくれよ」


 私はニッコリうなずいた。


「いいわよ。私も星や星座の名前をもっともっと知りたいもの」




 こうして、私は家庭教師として、そして教師になる夢に向かって一歩進んだ。

 同時に、光太くんも宇宙飛行士になる夢に向かって最初の一歩を踏み出した。

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