4.高所恐怖症の家庭教師と細くて暖かい手
午後の十五時、健希さんがお屋敷の屋上へ通じる扉を開いた。
今夜、光太くんと天文観測をするのはこの屋上だ。
季節はそろそろ秋から冬に変わる。
冷たい風が、扉の内側へと吹き込んだ。
私はそっと扉の外を見た。
そこには屋根も壁もない空間が広がっていた。
恐い!
その瞬間身震いしたのは、空気の冷たさのせいだけじゃない。
ドッキンドッキンと心臓が高鳴る。
まだ屋上に出てもいないのに、泣き出しちゃいそうだ。
健希さんが、そっと私に話しかけてくれた。
「晴香ちゃん、大丈夫かい?」
健希さんの優しい声も、今の私の心臓をしずめてはくれない。
それでも、私は無理に笑った。たぶん、笑えたはずだ。少なくとも、笑おうとはした。
「も、もちろんです! 光太くんに情けないところは見せられませんから!」
夜、いきなり真っ暗な屋上に来たら、高所恐怖症の私は絶対に外に出られない。
昼間のうちに、練習として一度屋上に来ておきたかった。
だから健希さんに案内してもらったんだ。
「でも、体がふるえているみたいだよ」
健希さんの指摘通り、今の私は全身をガクガクさせていた。
これから屋上に出るかと思うと、すぐにも逃げ出したい。
「やっぱりやめよう。トラウマからくる高所恐怖症なんてすぐに治るものじゃない。むしろ無理をしたら悪化しかねないよ」
そうかもしれない。でも、諦めたくない。
諦めたくないけど……どうしても、あの日の恐怖がよみがえるんだ。
私が高所恐怖症になったのは幼稚園の年中さんのころだった。
アパートのベランダでふざけていて、柵の隙間をすり抜けて三階から落っこちた。
今でもあの時の恐怖は頭にこびりついている。
とつぜん、ふぁっと浮き上がったような感覚。夕焼けの空に響いたお母さんの悲鳴。一気に落下し、急接近する地面。
気がつくと地面に激突し、右腕と右足に激痛が走った。
動けない私を、たくさんの人たちが囲む。
救急車がやって来たころに自分がベランダから落ちたのだとようやく理解した。
私は右手と右腕を骨折して、しばらく入院することになった。
植木の枝が衝撃を吸収してくれなかったら命も危なかったらしい。
それ以来、私は高いところが恐くてたまらなくなった。
といっても、部屋の中で、屋根や壁や窓で囲まれていれば大丈夫なんだよ。
でも吊り橋とかは絶対に無理! もちろん、屋上もだ。
でも、それでも! 光太くんと約束したんだ。
私は、光太くんを見捨てないって。
朝日野家の屋上は丈夫な金網のフェンスで囲まれている。
アパートのベランダと違って、たとえ台風が来ても落っこちることはないだろう。
そんなことは分かっている。
でも手足がガクガクふるえて脂汗が止まらない。涙が出そうになって、慌ててぬぐった。
私は両腕を抱きかかえるようにして恐怖に耐えていた。
やっぱり、屋上に出て行くなんて無理だ。
まして、楽しく天文観測なんてできないよ!
健希さんが優しく私の肩をささえてくれた。
「ごめん、そんなに恐いなら連れて来るべきじゃなかった。屋敷の中では窓の近くに行っても平気そうだったし、ここまでひどいトラウマだとは思わなかったんだ」
「すみません。でもがんばります」
「だけどその様子じゃ……天文観測なら庭でもできるだろう?」
もちろんその通りだ。光太くんだって屋上にそこまでこだわりがあるわけじゃないかもしれない。事情を説明すれば理解してくれると思う。
「ね、ここは諦めてさ……」
その言葉に甘えそうになってしまうけど。
「諦めません。光太くんと約束したんです。私は光太くんを見捨てません」
やっと光太くんが心を開いてくれたんだ。
ここで光太くんの気持ちを裏切ったら、二度と彼は私を信頼してくれないだろう。
私はゴクリとつばを飲込んだ。
それから、スーハースーハと大きく深呼吸した。
グッと拳を握る。
大丈夫、柵もあるし、落ちるわけない。
私は扉の向こうの屋上へと、一歩を踏み出した。
その瞬間だった!
風が吹いた。
「きゃっ」
吹き飛ばされる!
私はとっさに屋上から扉の中へと戻った。へたり込みそうになるのをなんとか耐えた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
荒い息を吐く私を見て、健希さんはさらに心配そうな顔になった。
本当はね。そんなに強い風じゃなかったと思うんだ。
お屋敷のお庭とか、学校のグラウンドとかだったら、気にもならないくらいの風速だったかもしれない。
あの程度の風に吹き飛ばされるわけがない。
だけど恐怖にふるえた私には嵐のように感じられたんだよ。
ダメだ。やっぱり、無理だ。
でも……絶対に諦めない!
もう一度、屋上へと出ようとした。
だけど、今度は最初の一歩すら踏み出せない。
その時、ふるえる私の右手を、健希さんが優しく握った。
「健希さん?」
「諦めたくないんだろう?」
「はい」
「なら、僕も行くよ。こんな細い手じゃ頼りないかもしれないけれど」
健希さんの手は、私よりも細くて力も弱くて、でもとっても暖かかった。
「はい。風に当たって大丈夫ですか?」
健希さんは部屋から出るだけで咳き込んでしまうこともある。今日は調子が良いみたいだけど、冷たい風が吹く屋上に出たら、また調子を崩しちゃうかもしれない。
「僕も、晴香ちゃんや光太に情けないところばかり見せられないからね」
健希さんはそう言って、私の右手をほんのちょっとだけ強く握ってくれた。
健希さんの手の温かさを感じていると、私の心臓が少しだけおとなしくなってきた。
大丈夫。大丈夫だ。
一歩。二歩。三歩……
私は健希さんの手を頼りに屋上を歩いた。
ゆっくり。少しずつ。でも確実に。
十歩進めた。光太くんなら五秒で走れるかもしれない距離を、私たちはたっぷり五分かけて進んだ。
風が吹くたびに恐かった。フェンスの外を見るたびに縮み上がった。
五階建てのお屋敷の屋上にいるんだって思うたびに、一歩も歩けなくなりそうだった。
恐いと思うたびに、健希さんの暖かい手に意識を集中させた。
健希さんの手は、優しく私を導いてくれた。
大丈夫。ここはアパートのベランダじゃない。
屋上のはしまで十メートル以上あるし、頑丈なフェンスもある。落ちるわけがない。
私たちは、屋上の中央までやってきた。
私はゆっくりと周囲を見回した。
やった。私、屋上の真ん中に立っているよ。
もちろん、いまも恐くて泣き出しそうだ。
高所恐怖症を完全に克服できたわけじゃない。
それでも。
大丈夫だ。
私は天を見上げた。
雲一つ無い青空だった。
空の上には宇宙がある。
光太くんが大好きな宇宙が。
でも、同時に空の上には天国もあると思う。
私のお母さんやお父さん、それに健希さんや光太くんのお母さんはそこにいる。
きっと空の上から私たちを見守ってくれている。そう信じたい。
健希さんが私に言った。
「そろそろ、戻ろうか」
「はい」
私が頷いたときだった。
ひときわ強い風が、屋上に吹いた。
「きゃっ」
私はヨタヨタと倒れかけた。
「晴香ちゃん!」
健希さんが私を支えるように、ギュッと抱きしめてくれた。
背中から、健希さんの体温がたっぷり感じられた。
それを意識すると、恐怖とは別の理由で心臓がドッキンドッキンと高鳴った。
「健希さん、あの……ちょっと痛いです」
私はそんな言葉しか言えなくて。
健希さんは慌てた様子で、力を抜いてくれた。
「ごめん! 晴香ちゃんを支えようと思って……そんなつもりじゃなかったんだ」
健希さんはひたすら狼狽していた。
「いえ……大丈夫です。ありがとうございました」
「本当にごめん。いきなり女の子に抱きつくなんて……」
「平気です。私が倒れそうになったせいだし」
私は調子に乗って言った。
「それに、ちょっとうれしかったし」
ふふっ。まるでラブコメ漫画みたいなわざとらしいセリフだよね。
言ってから、恥ずかしくて顔を真っ赤にしちゃったよ。
「あ、いえ、違うんです。そういう意味じゃなくて……」
慌てて首と両手をブルンブルンとふったんだけど……
……でも、すぐにそれどころじゃなくなった。
突然、健希さんが「ゴホンゴホン」と咳き込んでその場に座り込んでしまったのだ。
「健希さん! 健希さん、大丈夫ですか!?」
やっぱり冷たい風に当たったのが良くなかったんだ!
健希さんは私を安心させようと笑顔を見せてくれた。
「大丈夫だよ」
そう言うけど、全然大丈夫そうに見えないよ。
立ち上がることもできないみたいだもん。
私は健希さんを支えようとした。
でもダメだ。力が足りない。
普段なら肩を貸すくらいはできるんだけど、私自身まだ恐怖でふるえていて。
だから、健希さんを支えられない。
どうしよう、私じゃ健希さんを助けられないよ!
「健希さん、待っていて。助けを呼んでくるから」
私は屋上の入り口の方を向いた。
その一瞬だけ、高所への恐怖は忘れていた。
それよりも、健希さんのことが心配で。
だから、私は屋上を走ることができた。
私はお屋敷の階段を駆け下りた。
私のせいだ。
私が健希さんを頼ったから。
だからこんなことに。
誰か、誰か助けて!
保さんか、メイドさんか。
ああ、なんでこんな時に限って見つからないの?
混乱して涙ぐみながら三階まで降りると、光太くんが部屋から顔を出した。
「なんだよ、バタバタうるさいな」
「光太くん! お願い! 助けて! 健希さんが、健希さんが……」
「健希兄さん? 何があったんだよ」
「私、健希さんと……健希さんが!」
言葉が上手くまとまらなかった。
光太くんは私の両肩を握って言った。
「落ち着けってば! ちゃんと説明しろよ」
「でも、でも……」
「ああ、もう! まずは深呼吸しろ!」
そうだ。落ち着かないと。
私は深く息を吸って、それから吐き出した。
すると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
私は、健希さんが屋上で動けなくなっていると説明した。
光太くんはびっくりした表情を浮かべ、すぐに階段を駆け上った。私も後に続く。
屋上に飛び出した光太くんは、未だにうずくまったままの健希さんに駆け寄った。
「健希兄さん! なんで屋上になんて出たんだよ……ほら、オレの肩につかまって!」
だが、いくら細身でも、健希さんは中学二年生だ。小学四年生の光太くんでは健希さんの体重をささえきれない。
光太くんは屋上の入り口に立ち尽くしたままの私に言った。
「晴香! 手を貸してくれ」
「え、あ、うん」
もう一度、屋上に……
……今度は健希さんの助けもないのに。
恐い。
でも。
でも!
怖がっている場合じゃない。
恐怖なんてどっかに行っちゃえ!
私は健希さんと光太くんの元へと走った。
高いところは恐い。
でも、今は走った。
このまま何もしないで健希さんに万が一のことがあったら、その方がもっと恐ろしい。
だから、私は屋上を走った。
光太くんと協力して、健希さんをお部屋まで運び、ベッドに寝かせた。
しばらく休むと、健希さんの体調も戻ってきた。
落ち着いてから光太くんが健希さんに言った。
「ったく、なんで屋上になんて出たんだよ」
健希さんは私をチラッと見てから、曖昧な笑みを浮かべた。
「いやぁ、たまには外の空気を吸いたくなってさ。面目ない」
健希さんは光太くんに、私が高所恐怖症だとは言わなかった。私に付き合って屋上に出たこともだ。
きっと、『高所恐怖症のことを光太くんに知られたくない』という私の気持ちを尊重してくれたんだと思う。
私は内心感謝しながら、ポットでお湯を沸かした。
暖かいお茶を渡すと、健希さんはニッコリ微笑んだ。
「ありがとう、晴香ちゃん」
「いえ、すぐに助けられなくてすみませんでした」
「光太を呼んできてくれて助かったよ。晴香ちゃん」
それから、健希さんは光太くんの頭をなでた。
「光太もありがとう。さすが、頼りになる自慢の弟だ」
「へっ、へんだ! 無理すんなよ。健希兄さんは体が弱いんだからさ」
照れくさそうに言う光太くんは、ちょっとだけ誇らしくしているようにも見えた。
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