3.晴香の家庭教師奮闘記!
私が光太くんの家庭教師に就任して一ヶ月が経過した。
休日の朝、いつものように光太くんのの部屋に入ると、彼は今日も漫画を読んでいた。
本日の光太くんが仕掛けたイタズラは床に置かれたバナナの皮だった。
もちろん踏んづけて転ぶほど、私も間抜けじゃないけど。
「光太くん、そろそろイタズラもネタ切れ?」
私があきれてバナナの皮を拾った。
「へんっ、うっせーや」
光太くんはそう言い残すとササッと部屋から逃げ出してしまった。
毎日逃げ出すくらいなら、最初から部屋にいなければいいのにねぇ。もしかして、私とかくれんぼを楽しんでいるつもりなのだろうか。ため息の一つもつきたくなる。
これまで、私は光太くんに全く勉強を教えられていない。
何しろ、彼を勉強机に座らせることすら困難なのだ。
十人以上の家庭教師が匙を投げたというが無理もないよ。
教師の仕事は勉強を教えることであって、かくれんぼの鬼じゃないもんね。
光太くんの成績は体育と音楽以外、五段階評価でオール1。
実際、小学一年生の漢字も書けないみたいだし、二桁の足し算もおぼつかない。
だけど、一ヶ月光太くんを見ていると、私には彼がバカだとは思えないんだよね。
たしかに光太くんは勉強ができないよ。
でも、減らず口がドンドン出てくるし、言葉を知らないわけじゃない。
それに、毎朝手を替え品を替えて色々なイタズラを仕掛けるなんて、頭が悪い子にはできないと思うんだ。
とはいえ参ったなぁ。このままじゃ、私も家庭教師失格だ。
光太くんが逃げ出した部屋の中で、私はポツリとつぶやいた。
「なんで光太くんって勉強が嫌いなんだろう?」
私は勉強が好きだ。
新しい知識を得るのが好きだ。
小説を読むのが好きだ。
図鑑を見るのが好きだ。
歴史を知るのが好きだ。
算数の問題を解くのが好きだ。
もちろん、世の中には勉強嫌いな子もいるし、私の方が少数派かもしれないけど。
「さーて、どうするかなぁ」
このまま光太くんを探し回ったら、今日も鬼ごっことかくれんぼで終わってしまう。
光太くんの部屋の中で、ヤレヤレと頭を抱えていたとき、ふと本棚が目に入った。
漫画がいっぱいだけど、下の方に立派な子ども向け百科事典のシリーズが並んでいた。
光太くんはほとんど読んだこともないのだろう。
三十冊近くあるシリーズの大半は新品同然のピッカピカのままだった。
もったいないなぁ。読まないなら、私がもらっちゃいたいくらいだよね。
……と、思ったんだけど。
「この本だけ痛んでいる?」
よく見てみたら、新品同然のシリーズの中に、一冊だけボロボロの巻があった。
きっとこれだけは、光太くんが何度も読み返したんだ。
背表紙には『星と宇宙のヒミツ』と書かれていた。
思わず私はその本に手を伸ばしてしまった。
勝手に触ったらまずいかな?
でも、光太くんの……私の生徒を知るためだ。必要なことだ。
そう自分に言い訳して、私は『星と宇宙のヒミツ』を開いて読んでみた。
星や星座の名前の解説、地球、月、太陽、太陽系、天の川銀河。宇宙の始まりや宇宙の果てについて、最後は宇宙開発の話も掲載されていた。
とってもわくわくする内容だった。
どのページもボロボロで、何度も読み返したあとがある。
私が最後のページまで読んだ時、部屋の入り口から光太くんの声が聞こえた。
「おい! なんで追いかけてこないんだよ!?」
「私は家庭教師よ。鬼ごっこやかくれんぼの鬼じゃないから」
私がそう言ってやると、光太くんは言った。
「お前も前の家庭教師みたく諦めるのか?」
「光太くんこそ、戻ってきたってことは逃げ回るのは諦めて勉強する気になったの?」
「ちげーよ! ただ、晴香が諦めたのかどうか気になって……」
何やら顔を真っ赤にして必死だ……これはひょっとして。
「光太くん、私が探しに来なかったから、さびしくなっちゃったの?」
「そんなわけないだろ!」
うん、必死だね。必死に否定しているね。
どうみても図星をつかれて慌てて取り繕っているようにしか見えないけど。
ツンデレさんなのかな?
「せっかく戻ってきたんだしお勉強する?」
「ヤダ!」
ふむ、そこは即答なんだね。
「そう。わかったわ」
「やっぱり諦めるのかよ?」
「諦めないわ。絶対にね」
大人の家庭教師たちは、光太くんを見捨てても他の生徒を担当すればいいだろう。
だけど、私にはそんなチャンスはない。
それに、光太くんを放り出したくない。
ようやく、彼のことを知る糸口が見つかったのだし。
「うっぜー奴。父さんも大人の家庭教師たちも、みんなオレのことなんて見捨てたのに」
その言葉を聞いて、私はハッと息をのんだ。
光太くんは、ご主人様や家庭教師たちに見捨てられたと思っているんだ。
「家庭教師はしらないけど、ご主人様は光太くんのことを見捨てたりしていないと思うよ」
「見捨てたさ! 父さんはリリィ姉さんと二人でアメリカに行ったんだ。オレや健希兄さんのことなんてどうでもいいんだ!」
ちなみにリリィさんとは朝日野家長女で、光太くんのお姉さんの璃織さんのことらしい。ここからは私も璃織さんじゃなくて、リリィさんって呼ぶね。
私はリリィさんには会ったことがないけど……色々とこじれているっぽいなぁ。
「それにしても、光太くんって寂しがり屋さんだねー」
「なっ……なんでそう思うんだよ?」
「だって、お父さんに捨てられたぁとか、わたしが探しにきてくれなぁいっとか、寂しがり屋さんじゃない」
光太くんは、「ぐっ」とうなってから顔を真っ赤にして否定した。
「そんなことはない!」
だから、その否定のしかたは肯定と同じだってば。
「仮にお父さんが光太くんを見捨てたのだとしても、健希さんは光太くんのことを気にしていると思うよ」
私の指摘に、光太くんはプイっと横を向いた。
そんな仕草もかわいいなぁ。
美少年って、ワガママでいたずらっ子でもかわいいって思われるんだから得だよね。
「健希兄さんは……そりゃあそうかもしれないけど」
「それに、私も光太くんを見捨てない」
「なんでだよ?」
「私、諦めるって嫌いなの」
「迷惑だ」
「迷惑でも諦めないわよ」
「オレは勉強なんてしたくない」
あくまでそこは譲らないつもりらしい。
「私もこれ以上毎日毎日鬼ごっこやかくれんぼをするつもりはないかな」
「やっぱり諦めるんじゃないか」
「ちがうわ。私は家庭教師よ。光太くんに勉強を教えるのが仕事」
「オレは嫌だね」
うん、こりゃあ筋金入りだね。
だが、この時、私はすでに一つ思いついていたことがあった。
「だったら、今晩一緒に天文観測しない?」
「はあ? 天文観測?」
「そうよ。夜に一緒に星を見ましょう」
私の言葉に、光太くんはちょっと興味を持ったらしい。
でも、すぐに意地っ張りな顔に戻った。
「なんでだよ」
私はニッコリ笑った。
「だって、光太くんは星が好きなんでしょう?」
「どうして晴香がそんなことを知っているんだよ?」
私は『星と宇宙のヒミツ』を光太くんに突きつけた。
「この本、何度も読み返したんでしょう? 他の図鑑と違ってボロボロよ」
「って、人の本を勝手にさわるなよ!」
たしかに。それは光太くんのほうが正しいね。
私は「ごめんね」と言って、光太くんに『星と宇宙のヒミツ』を返した。
「勝手に読んだのは謝るわ。でも、やっぱり、その本は大切なのね」
「それがどうしたんだよ!?」
たずねる光太くんに、私は言った。
「私、家庭教師なのに光太くんのことを知ろうととしていなかった」
これは私の反省点だ。
「でも、今日少し分かったわ」
家庭教師は勉強だけ教えれば良いと思っていたけど。
最初にすべきことは教え子のことをもっとよく知ることだったんだ。
それをないがしろにしたら、彼を見捨てた前任の家庭教師と同じだ。
「オレの何が分かったっていうんだよ?」
「そうだなぁ、光太くんは星が好きな寂しがり屋さんだってことかな」
「誰が寂しがり屋だよ!}
「星が好きなのは否定しないのね?」
「……まあな」
「なら、今日の夜は天文観測。それなら付き合ってくれるでしょ?」
光太くんは少し考えてからうなずいてくれた。
「わかったよ!」
よしよし、ここからどうにかしてお勉強につなげて……
……と、考えたのだが、光太くんが続けていった言葉に、私は顔を引きつらせることになった。
「じゃあ、夕飯の後で、屋上に行くぞ」
「え、屋上?」
「ああ、何かマズいか」
マズい! 非常にマズい!
だって、私は……
でもここは引けない。
せっかく、光太くんが少しだけど心を開いてくれたんだから。
「問題ないわ。夕飯の後、一緒に屋上で星を観測しましょう」
私は胸を張ってそう言ったのだった。
昼食後。私は健希さんの部屋の窓を拭いていた。
家庭教師として上手くできていないんだし、できる範囲のお手伝いくらいしないとね。
「今日、光太くんと天文観測をすることになりました」
健希さんはニッコリ笑ってくれた。
「なるほど。たしかに算数ドリルよりは光太向きの勉強かもしれないね」
やっぱり健希さんは頭がいい。天文観測をするといっただけで、私が光太くんのお勉強のきっかけにしようとしていると分かったみたいだ。
「光太くんが『星と宇宙のヒミツ』という図鑑だけ何度も読み返しているみたいだったので」
健希さんはちょっと驚いた表情を浮かべてから、私に言った。
「そうか。晴香ちゃん、ありがとう」
「別にお礼を言われるようなことはしていません」
「しているよ。これまでの家庭教師は、光太が何度も読み返している図鑑があるなんて気がつかなかった。その前に、光太のイタズラに手を焼いて匙を投げてしまった」
「毎日イタズラして逃げ出されれば、そうもなるでしょうね」
「でも、晴香ちゃんだけは一ヶ月間、毎日光太を探してくれた。こんなに本気で光太にぶつかってくれた家庭教師は晴香ちゃんが初めてだよ。だから、光太も一緒に天文観測をする気になったのかもしれない。僕の弟を見捨てないでくれて本当に感謝しているよ」
大人の家庭教師たちは、きっと私よりも勉強を教えるのが得意だろう。
でも、逃げ出した光太くんを探し続けはしなかった。
光太くんは物置の片隅で、ずっと探し出してもらえるのを待っていたのに。
もちろん、自分で逃げ出して、隠れて、探してくれないから捨てられたと嘆くなんて、身勝手なワガママだ。
家庭教師たちに付き合う義理はない。
でも、光太くんは諦めずに探してほしかったんだ。
「光太くんって、寂しがり屋ですね。おまけにワガママ」
「本当にね。我が弟ながら情けないよ」
苦笑いを見せる健希さんに、私は言った。
「それで、一つ大きな問題があるんです」
「何だい? 僕に手伝えることなら協力するけど」
「私、高所恐怖症なんです。二階建て以上の建物の屋上は恐いんです」
それを聞いて、さすがの健希さんも顔を引きつらせた。
ちなみにこのお屋敷は五階建てだ。
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