8.晴香と朝日野家の家族たち

 ひとりぼっちでベランダに残されて、高いところへの恐怖が体中を支配した。


 どうしよう。恐いよ。

 私は再び座り込み、膝を抱え込んだ。

 高所への恐怖はもちろん、冬の凍てつくような寒さも、全身を責めたてる。

 体育座りをして両手をギュッとにぎりしめるしかできなかった。


 どのくらいそうしていただろうか。

 五分くらいしか経っていないような、一時間以上経ったような。


 ふと、何かが聞こえた。凍てつく風の音に混じって、何か……

 私は耳を澄ました。

 すると、今度ははっきりと小さな足音が聞こえた。

 ベランダの下……二か月前に天文観測をした庭からだ。


 私は勇気を出して、柵ごしに庭を見下ろした。

 地面が遠くてクラクラしそうになったけど。


 そこには頼れる、私の大切な生徒がいた。


「光太くん、助けて!」


 光太くんは驚いた顔でベランダを見上げた。


「晴香!? 何をしているんだよ? そこリリィの部屋か?」

「そうだよ! 閉め出されたの!」

「すぐに行く!」


 光太くんはすぐに動いてくれた。

 彼は階段を駆け上り、リリィさんの部屋の扉をバーンと開け放して叫んだ。


「晴香! 大丈夫か!?」

「ごめん、光太くん。窓の鍵を開けて」

「わかった」


 光太くんは窓の鍵を開けくれた。私は倒れるように部屋の中へと転がり込んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 私は荒く息を吐いた。まだ心臓がドッキンドッキンしていた。


「晴香、大丈夫か?」

「うん、まだドキドキしていえるけど。光太くん、ありがとう」


 光太くんは激怒していた。


「一体何があったんだ? リリィがやったのか?」

「うん。でもね、光太くん。私も悪かったんだよ」

「何が?」

「私もリリィさんにひどいことをいっちゃったし……ほら、リリィさんが跡を継いだらブラック企業になっちゃうとか」

「自業自得だろ! アイツが晴香や健希兄さんに言った言葉の方がよっぽどひどい」


 そうだけど、このままだと、光太くんとリリィさんが決定的に仲違いしちゃいそうだ。

 その時、騒ぎを聞きつけたのか健希さんもやってきた。

 光太くんが私を支えているのをみて、健希さんも険しい顔になった。


「晴香ちゃん、何があったんだ?」


 答えたのは私じゃなく光太くんだった。


「ベランダに鍵をかけて閉め出されたんだよ!」

「閉め出された? 一体誰に?」

「リリィに決まっているだろ!」

「晴香ちゃん、光太の言っていることは本当か?」


 私は小さく頷いた。この状況ではリリィさんをかばいたくてもかばいようがない。

 その時、当のリリィさんが部屋に戻ってきた。


「ちょっと、光太もお兄ちゃんも、勝手に乙女の部屋に入らないでよ」


 不機嫌そうに言うリリィさんに、光太くんが叫んだ。


「リリィ! 晴香をこんな目にあわせやがって! 許さねぇぞ」

「おおげさねぇ。ちょっとした悪ふざけじゃない」

「なにが悪ふざけだ!」


 光太くんが右手を握りしめて振り上げた。

 今度こそリリィさんを殴りつけるつもりだ。

 私は反射的に光太くんにしがみついた。


「やめて、光太くん!」


 でも、今回は光太くんの怒りが収まらない様子だった。


「なんでだよ!? 今度こそぶん殴ってやる」


 いきり立つ光太くんに、リリィさんが軽蔑のまなざしを向けた。


「まるで野蛮な類人猿ね。ほんと、バカな弟」


 リリィさんが吐き捨てると、光太くんがさらに暴れ出した。

 ダメ。私の力じゃ抑えきれない。

 このままじゃ、本当に殴り合いのケンカになっちゃうよ!


 健希さんが言った。


「光太、やめろ」

「だって、健希兄さん!」

「怒っているのは僕も同じだ。だが、その前にリリィに確認したい」

「何よ?」

「リリィ、お前は晴香ちゃんが高所恐怖症だと知っていてこんなことをしたのか?」


 その言葉に、リリィさんは目を見開いた。


「高所恐怖症?」

「彼女は幼少期にアパートのベランダから落下したことがある。それ以来、ベランダにでるだけでパニックになるほどの高所恐怖症になったそうだ」


 リリィさんは、私を恐る恐ると行った様子で見た。


「うそ、でしょ?」


 どうやら、本当に知らなかったみたいだ。リリィさんは声をふるわせた。


「だって、コートを干してって言ったらベランダに出ていたし……」

「晴香ちゃんは頑張り屋だからね。泣き言は嫌いみたいだ」


 リリィさんの顔がどんどん青ざめていく。


「そんな……私、知らなくて……知っていたらこんなことしなかったわ」


 リリィさんは両手を口元に当てて泣きそうな表情を浮かべた。

 光太くんが叫ぶ。


「ふざけるな! 真冬のベランダに閉め出すなんて、イタズラですむかっ!」


 光太くんだけでなく、健希さんも冷たい目でリリィさんを見つめる。

 二人とも、本気で怒っている。

 それは当然だろう。

 私だって怒っていないわけじゃない。


 でも、ここで一方的にリリィさんを悪者にして責め立てるのは正しいのだろうか。

 そうこうしていると、部屋の入り口にご主人様もやってきた。


「一体、これは何の騒ぎだ?」


 どうやら、健希さんにちょっと遅れたものの、様子を見に来たらしい。

 私はどう説明したものか迷ってしまった。

 ありのままを説明したら、リリィさんを言いつけることになってしまう。

 だけど、私が迷っているうちに光太くんがご主人様に言ってしまった。


「リリィが晴香をベランダに閉め出したんだ! 晴香は高所恐怖症なのに!」


 光太くんの言葉に、ご主人様の顔が険しくなる。


「リリィ、今の話は本当か?」

「晴香さんが高所恐怖症だなんて知らなくて、ちょっとしたイタズラのつもりだったの」

「馬鹿者! 寒空の下ベランダに閉め出すなど、イタズラですむわけがないだろう!」


 リリィさんの目から涙があふれた。その涙は、あっという間に大粒の滴になり、やがてポロポロポロポロと止めどもなく流れ始めた。

 リリィさんは大泣きしながら訴えた。


「私、がんばってるもん。健希お兄ちゃんが病気だから、光太がバカだから、だから、私ががんばらなくちゃいけないんだもん。我慢して,我慢して、勉強だってがんばって、私がやらなくちゃいけないんだもん」


 おいおいと泣くリリィさんの姿は、とても泣きマネとは思えなかった。


「健希お兄ちゃんが病気じゃなかったら、私だって日本にいられたはずなのに! 光太がバカじゃなきゃ、もう少し頼れたのに!」


 リリィさんは泣き叫ぶように自分の気持ちを吐き出し続けた。

 私は……ううん。私だけじゃない。健希さんも光太くんもご主人様も。まるで幼稚園児のように泣き続けるリリィさんに唖然としてしまった。

 意地悪で暴言吐きだと思ったけど、それはリリィさんの一面でしかなかったようだ。


 しばらくして、健希さんが『ふぅ』と息をついた。


「リリィ、ようやく本当の気持ちを話してくれたね」


 健希さんはそう言うと、リリィさんの後頭部をやさしくポンポンと叩いた。


「ずっと知っていたよ、リリィが無理して意地を張っていたのは」


 健希さんがそういうと、リリィさんは涙をとめて目を見開いた。


「分かっていたって……いつから?」

「光太が小学生になったころかな」


 リリィさんはちょっと目をそらした。


「いまさらそんなことを言われても……」

「ごめんな。僕の体が弱いから、リリィにも光太にも心配をかけて」


 そこまで話を聞いてから、ご主人様が言った。


「私の子育てに大きな問題があったようだな。だが、それはそれとして晴香ちゃん」

「はい」

「リリィがとんでもないことをした。本当に申し訳なかった」


 ご主人様は私に深々と頭を下げた。


「リリィも謝りなさい」


 リリィさんはちょっとだけうつむいて、それから頭を下げてくれた。


「晴香さん、ごめんなさい。私、本当に高所恐怖症のことは知らなかったの」


 健希さんも頭を下げて言った。


「晴香ちゃん、僕からもあらためて謝るよ。僕の妹がとんでもないことをした」


 私はうなずいた。


「私もごめんなさい。リリィさんのプライドを傷つけるようなことを言っちゃった」


 この家にお世話になっている身で『会社が潰れる』なんて絶対言っちゃダメなことだった。リリィさんのことなんて何も知らないのにね。

 お互い謝罪しあう私たちに、光太くんだけは不満そうだ。


「なんで晴香が謝るんだよ」


 そんなことをブツブツ言っていた。うん、皆それぞれ言い分があるよね。

 だから、私は提案した。


「ご主人様、これから家族会議をしたらどうでしょうか?」


 ご主人様が首を捻った。


「家族会議?」

「家族で本当の気持ちを言い合う会議です。私も、生前にお母さんと月に一回開いていました」


 家族会議では日頃心に秘めている家族への本音をぶつけ合う。


 普段恥ずかしくて言いにくい『感謝』も。

 普通に言ったらケンカになっちゃいそうな『不満』も。

 これからどうしてほしいかという『希望』も。

 これから何をしたいかという『目標』も。


 みんなみんな、包み隠さず言い合う話し合いだ。


「私はもうお母さんと家族会議できないけど、皆さんはできるんだから。せっかく家族がそろったんですし、どうかなって」


 言いながら他人の家のことなのに余計なお世話だったかなとも思った。

 だが、ご主人様は頷いてくれた。


「なるほど、それは素晴らしいアイデアだ。我が家に足りなかったのはコミュニケーションだろうからな」


 こうして、朝日野家の家族会議が開かれることになった。

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