第2話

木村辺蓮は昔から「変な宗教にハマっている家の子」で「シメナワ」だったようだ。

 クラスのどのグループに属することもできず、グループから浮いてしまった子たちが流れ集まって形成するグループからもハブられ、いつも一人だった。

 そんな彼女の唯一の友達が私……だったわけではない。私はクラスでも割と目立つグループの中にいたし、友達が途切れたこともない。修学旅行で相部屋になったのはちょっとしたタイミングの悪さというか、事故のようなものだった。

 女子部屋は宿側の都合で四人部屋が四つと二人部屋が一つしか用意できなかったらしい。辺蓮は当たり前のようにどこの部屋からも嫌厭されて真っ先に二人部屋行きになった。さてもう一人はどうするとクラスの女子全員がピリついたとき「じゃあ私がいくよー」と声をあげたのが林由起子、そう、私である。

 そのときの私はグループのリーダーの女子、つまり洋子と緊張状態にあった。理由は彼女が親に反対されて志望すらできなかった私立の女子高に私が推薦合格を決めつつあったこととか、私が部活の先輩と付き合い始めたことを彼女にだけ報告するのが遅れたとか、ありふれた出来事の積み重ねである。そんな状態で相部屋になるのは、碌に話したことがない不気味な子と相部屋になるのと同じくらいキツかったし、それならば自分から身を引いて辺蓮と相部屋になることで「シメナワと相部屋になるなんて可哀想」という同情と借りを作ってこの関係を緩和できるのではないかと考えたのだ。女子中学生らしい政治的駆け引きの末の判断である。

 この目論見は成功し、日中の京都巡り和気藹々としたものになった。神社で洋子とお揃いのお守りも買ったし、夕飯の湯葉は美味しかった。

 うっかり夜は辺蓮と相部屋ということを忘れそうになるが(というか努めて忘れようとしていたが)、時間が進めば当たり前にそのときはやってくる。

「林さん、八ツ橋食べませんか?」「林さん、私トランプ持ってるんですよ」「林さん、下の名前で呼んでいいですか?」「林さん、好きな本は何ですか?」「林さん」「林さん」

 辺蓮のテンションは高かった。

 この子に友達がいない理由もよくわかる。普段避けられているからか、少しでも好意的に接せられると露骨に嬉しそうに擦り寄ってくる。そのくせコミュニケーション能力はまるで高くなく、会話の選択肢が質問か褒めの二択しかない。懐かれると依存されて鬱陶しいタイプだ。

 私は早くも政治的駆け引きの末の判断を後悔し始めていた。私は「ああ」とか「うん」とかできるだけ返事を最低限にすることを心がけ、間違っても修学旅行後に辺蓮が私の押しかけ金魚の糞と化さないようにするために注意を払い続けた。

「林さん、私先にお風呂入りますね」

 辺蓮は注連縄みたいな髪を巨大なシャンプーキャップに詰め込んで浴室に移動した。私はそこでふうっと一息吐く。

 木村辺蓮と一緒にいると、疲れる。彼女のことは好きでも嫌いでもないが、疲れる。宗教とかは関係ない。今のところ特に勧誘されるわけでもないし。

 彼女に悪意がないのはわかっているし、そういう意味では可哀想だとは思うが、それは彼女と交友関係を築くことで生じる面倒臭さと全く釣り合いがとれるものではなく、私は自分のために彼女と距離を置く。

 私は自分がいいやつでないことを知っているのだ。

 私は彼女と入れ替わるようにお湯を浴びて、部屋に戻る。私はしきりにトランプに誘ってくる辺蓮をやんわりと振り切って(二人でどうトランプを遊ぶつもりだったのだろう)、「疲れてるから」と早々に布団に入った。

「あのう、林さんって……恋人とか、いるんですか?」

 え、マジ?

 この子、もしかして『修学旅行の夜に友達と恋バナ』を実践しようとしてる?

やっぱ距離感おかしいわ。宗教内部の人間関係って実際こんな感じなの?

「……疲れてるから」

「私は、ふふ、いるんですよ」

 さっさと寝たふりをしてしまおうとしていたが、その意志は興味に競り負けた。

「……木村さん、恋人いるの」

「いますよ。遠距離恋愛中ですけれど」

「……そうなんだ」

「ええ、彼、海外に住んでるんです」

 愛佳の声が耳の奥をリフレイン。

——シメナワって、すっごい嘘つきだよ。由起子も気をつけて。

 そうだ、修学旅行のバスの中で教えてもらってたのに、何で今まで忘れてたんだろう。それは私に纏わりつこうとする辺蓮があまりに弱っちかったからだ。弱い者は嘘をつかないって、どういうわけか決めつけていた。

 辺蓮の彼氏が嘘かどうかはわからないけれど、忠告を思い出した以上、話半分で聞いた方がよさそうだ。というか、もう寝たふりを始めた方がいい気がする。

「私は昔アメリカに住んでいて、彼とはそこで出会ったんです。林さんは東海岸のミルクバレーという町を知っていますか」

 知らないよ。そもそもその町実在するの?

 とは口に出さない。

「ミルクバレーは小さな町なんで知らないのも無理はありませんよね。でも、すっごく素敵な町なんです。大きな牧場や広い小麦畑の長閑なところなんですけど、綺麗な西洋建築の教会がたくさんあります。森は豊かだし、湖は澄んでいます。みんな決してお金持ちなわけじゃないけれど、助け合って暮らしているので不自由はありません。この汚染された現代社会におけるシャングリラみたいなところなんです」

 電気を消した暗い部屋で、辺蓮の高くて少し掠れた声がおまじないのように響く。

「町で一番綺麗な教会が学校を運営しています。大きいといってもそんなに人口の多い町じゃないので、学校は一学年一クラスくらいのものです。生徒はみんな顔見知りで、仲良しで、喧嘩はあってもいじめはありません。近所の人は優しくて、学校の給食を持ち回りで担当してくれています。私は寒い冬の日に町内会長のおばさんが作ってくれる少し生姜の効いたクリームシチューが大好きでした。新鮮な牛乳を使って作るクリームシチューはとっても美味しいんですよ。とはいっても、お母さんが作るクリームシチューが私にとっては一番なんですけどね。お母さんはクリームシチューの隠し味に昆布だしを少しだけ入れるんです。やっぱり日本人の舌にはこういうアレンジが一番合うんですよ。中学のみんなにも食べさせてあげたいなあ、そしたらみんな私のお母さんのことを好きになるのに」

 私の反応がないのに気づいているのかいないのか、辺蓮の懐かしむようなささやきは、坂を転がり落ちる毛糸玉のように尾を引いて途切れない。

「あっ、話が逸れちゃいましたね。すみません。私の彼氏の話でした。そう、彼は今ミルクバレーに住んでいます。ミルクバレーには豊かな森があって、その遊歩道を抜けていくと静かな湖が現れます。彼はその湖畔の小さな家におばあさんといっしょに住んでいるんです。彼は私より二つ年上の十七歳で、オルガンを弾くのが上手な男の子です。彼とは五歳のときに出会いました。森のなかで道に迷ってしまった私を、彼が助けてくれたんです。それから少しずつ話すようになって、勉強とかを教えてもらったりしているうちに、仲良くなっていきました。私は算数が苦手だったんですけど、彼は得意で……」

 辺蓮の声を聞いているうちに私は本当に眠くなってしまって、言葉の意味は耳から脳に至る過程でほどけ、夢と現の間でイメージだけが漂う。夏でもきっと涼しげな森の湖畔に日が差して、そこで金髪に澄んだ青い瞳の少年と黒髪の東洋人の少女が楽しげに遊んでいる——笑顔の住人——優しい家族に温かいベッド——意地っ張りだけど根は優しくて頼りになる親友——牛や羊は人懐っこい——小麦畑には遠くから心地よい風が吹いて……教会の鐘の音……オルガンの調べ……林檎……流水…………

 ………………。

 …………。

 ……。

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