029.壁のこちら側とあちら側

コツコツと靴音をさせながら、城壁を上がるための階段をのぼる。

夏といっても早朝の空気はうっすら冷たく、人が起きてくる前の時間はしんと音のない静寂に満ちている。

特に王都を囲む城壁はそこらの民家よりも数十倍の高さがあって、地上よりも明らかに空気が冷えているのを感じるし。


城壁の中を通る螺旋状の階段は外からの差し込む明かりが少なく、踏み外さないために目を凝らす必要があった。

そしてその階段を頂上まで上がり、外に出ると、目を刺す朝日の光に思わず目を細める。

地平線の向こう側は朝焼けで茜色に染まっていた。


「それで、どうしたこんなところで」

「ユーリ」


そこに待っていたのは、バーバラ。

通常人がいないような時間に人が来ないような場所に俺を呼び出した張本人だ。

まあ呼び出された理由はわかっているんどけど。


「そろそろ、王都を出ようかと思って」


バーバラは城壁に腰を掛け、外に足を投げ出しながらそんなことを告げる。


「まあそろそろだろうとは思ってたよ」


俺はその隣、城壁の内側に立って、バーバラと同じように朝日に視線を向けた。

バーバラの目的だったダンジョンの攻略は終わり、最奥の秘宝を見事回収したけれどそれはバーバラのお目当てのものではなく、その利益の分配も清算済み。

そうなればもうあいつがここでやることはない。


「手間かけるけど、あとの手続きはよろしく」

「任された」


一時加入のクランの脱退手続きとか、寮の部屋の片づけとかやり残しはいくつかあるけれどさほどの手間じゃない。

なんなら手続きだけなら、直接会わなくても手紙一枚で十分なくらいだし。

だからこそ、わざわざこんなところに呼んだのには理由があるんだろうけど。


「ああそうだ、これやるよ」


その本題を聞く前に、最後の餞別にと差し出したのは赤い眼鏡。


「なにこれ」

「壁が透ける眼鏡」


詳細を俺が伝えると、バーバラから疑いの眼差しが向けられる。


「なにに使ってたのよ」

「捕まるようなことはしてないぞ」


捕まらないようなことはしてたけど。


「……、いいの?」


これ自体、活用しようと思えば街中でもダンジョンでもかなり活用できる物である。

売れば数百万ルミナは堅い。まあ売るのが許されるかどうかはともかく。

なのでまあ、そこそこの貴重品なのだ。


「気の利いたプレゼントをする男はモテるらしいからな」

「ばーか」


言いながら、バーバラは良い笑顔でこちらを見る。

どこか懐かしいその笑い顔は少しだけ別の意味を感じさせた。


「ねえ、ユーリ」

「どうした、バーバラ」

「…………、やっぱなんでもない」

「そうか」


なにを聞こうとしていたのかはわかるけど、それを聞かれれば俺がどう答えるかもバーバラはわかっている。

そもそも誘われて付いていくなら、ずっと昔にそうしていただろうから。

だからまあ、これは未練だな。

俺も、バーバラも。


そんなことを考えながら、バーバラが見つめる城壁の向こうの光景を見る。

バーバラはあの地平線の先まで自分の夢を叶えるために旅をするんだろう。


俺がきっと一生行くこともないような世界を飛び回るその姿を想像すると、とても遠くに思える。

あの朝焼けと同じ茜色の瞳で真っ直ぐ先を見つめるバーバラの視線が、一瞬だけ揺らぎ、こちらを向いた。


「ユーリ」

「ん?」

「予言してあげる」


笑ったバーバラが言葉を続ける。


「あたしがもう一度ここに戻ってる来るまで、あんたには絶対に恋人は出来ないわ」

「過去最悪の予言だよ」


俺は巷じゃ呪言を使うなんて言われてるけど、今のセリフの方がよっぽど呪い感がある。

とはいえこいつの性格は決して良いとは言えないが、それでも嫌がらせだけでこんなことを言う奴じゃない。

それにある意味で俺よりも俺のことを知っているバーバラだからこそ、その予言には信憑性があった。


「傷付いた?」

「もう立ち直れないかもしれない」


心が傷付くと書いて傷心だ。

まあだからといって恋人を作ることを諦めたりもしないけど。


「じゃあこれはお詫び」


言ってバーバラが身を寄せて、俺の首根っこを掴む。

そのままぐっと顔を寄せて唇が触れた。

何年か振りの、前回と同じ相手の、唇の感触。


嗅ぎ慣れた、どこか懐かしいバーバラの匂いが鼻をくすぐる。

目の前にはまつ毛同士が触れそうな距離で、バーバラの瞳が輝く。

それからゆっくりと顔が離れた。


「ビックリした?」

「心臓止まるかと思ったわ」

「あはは、流石にそれは大袈裟でしょ」


いや本当に、もしかしたら心臓が止まっていたかもしれない。


「バカみたいな顔」

「お前の性格の悪そうな顔よりマシだ」


呆けた俺と、悪戯を成功させてしてやったりという表情のバーバラ。


「あはは」

「ぷぷっ」


そんなお互いを罵倒して、そのまま笑い合う。


「それじゃ、あたしは行こうかな」

「おう、またな、バーバラ」

「うん、またね、ユーリ」


朝日に照らされた笑顔のまま、バーバラがトンと城壁から身を乗り出す。

城壁に腰掛けたまま両腕で空中へと身体を浮かせて、飛び降りた。

自由落下に身を任せながらすぐに小さくなっていく人影が、バシンと無事地面に着地するのが見えた。


最後に振り返ってこちらにピースサインをするあいつに、俺も親指を立ててからそれを逆さまにして応える。

それを見てからやっぱり楽しそうに笑い、それきり、城門の向こうへと歩いていくあいつは振り返ることはなかった。


「俺も帰るかな」


城壁から一歩離れて、内側の階段を降りていく。

流石にあっち側に飛び降りた誰かさんのような無茶はしないので、トントンと一段ずつ降りていく。


その途中、ふと先程まであった唇の感触を思い出す。

柔らかくて、熱っぽい、記憶に残された感触。

何年か振りに思い出したそれは、少なくともしばらくは忘れられそうにない。

よくもまあ、こんな置き土産を残してくれたなと思う。


一緒に風呂に入っても、同じベッドで寝ても、この一線は越えなかったのにな。

だけど一方的に去っていくあいつを恨む気分にはなれなかった。




嫌がらせでもなく、嫉妬でもなく、バーバラのその行為と言葉の意味を俺が理解するのはもう少しだけ先のお話。

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