四十五話 ファーストキス

 自らの唇を、紅舞のに重ね合わせる。ふんわりとシャンプーのような香りが焦げ臭さと一体化して、嗅覚を襲う。極めて柔かな感触が、口元に広がる。

 んん、と抵抗するように肩を押し退ける紅舞の手を払い、抱きしめる。口内に舌を滑り込ませると、紅舞のと絡め合い、じっくりと支配していく。二人の唾液が、唇から垂れる。

 ――意識を奪うことで、能力ギフトの制御を失い暴走に入ることを恐れた。ゆえに、手刀ではなく、この方法を選ばざるを得なかった。

 紅舞が遠ざけようとするも、暗翔は離さない。何度か舌を絡めると、辺りは冷気を帯びていった。ゆっくりと唇を離すと、きらきらと唾液が糸のように引っ張られた。


「っ……く、くらとッ……の、ば、ぁか!」


「いや、仕方なかっただろう。あの状況だとだな……」


 俯いた紅舞が、ポカポカと暗翔の胸元を叩く。一回の叩かれる力は弱々しく、紅舞も年相応の少女でしないということを、改めて実感する。

 暗翔はファーストキス、という訳ではない。暗殺目的で接近した少年愛好家や、偽の恋愛関係を持つために、身体を仕事に――組織へ捧げているためだ。

 しかし、そのような例とは違うことが一つ。じっくりと、そしてなにより暗翔自身が味わったキスというのは、初めてであった。


「……ゆ、許さないん……だか、ら」


 感触が今も口元に走り込んでいる。頭がぼんやりと、麻痺していた。気まずさからか、首の後ろに手を当てる。

 紅舞と暗翔が醸し出す男女の気まずさが二人を包み込んでいると、後方から鬼の首を刈り取ったかのような形相で、夜雪がにっこりと笑みを浮かべた。もはや、彼女の背後に鬼そのものが立っているのではないだろうか。そのように錯覚するほど、未知の恐怖が夜雪全体を纏っていた。

 

「兄様、そこを退いて下さいまして。紅舞さんの唇を切り落としますわ。あとは、耳と首と目と――」


「夜雪が言うと洒落にならないな。辞めろ、本当に」


 夜雪をなんとか宥めるのに苦労しつつも、暗翔はなんとかその場をやり込める。二人を先に自宅へ送り返すと、気分直しに海辺を散策しに出掛けた。

 視界の彼方先に、陸地が窺える。海水同士が打ち合い、幾度となく潮音が鼓膜を襲う。 デバイスから再び着信。


「大丈夫だったかい?」


「あぁ、ちょっとな。問題はない。それで、話の続きを頼む」


「そうだった。君に重大な任務の話をしなければならないね」


 男は、拍子を空ける。海辺から響き渡る音が、その間に入り込む。


「護衛対象――『一ノ瀬紅舞』の任務を今日限りで解任とする。という命令さ」


「……突然だな」


 暗翔は、肩の力が抜けた気がした。鉄柵に身を預け、脱力する。


「こちらも事情が変わってね。ま、再度別の指令が下されるさ。ランク争奪戦後、君には人工島を出てもらうかも知れない」


「……了解だ」


「なんだい? 護衛対象に情が湧いたのかな。それとも、今の生活が心地よいとか?」


「殺しの人生以外にも興味が出ただけだ」


「柄にもないことを言うね。それを組織が認めれば……あるいは、ね」


 それと、と電話口の男が付け加えた。今日は随分と多弁だ。


「身体の具合は大丈夫かい?」


「どういう意味だ?」


「君の能力ギフトのことさ。始祖の【ヴラーク】の能力ギフトを封じ込めるために――直接その身体に【ヴラーク】を埋め込んたんだろう?」


 暗翔は、指先を閉じたり開けたりの動作を繰り返すと、遠い彼方の海原を見つめた。

 あるのは、変わらず働き続ける波の動作。


「徹底的に切り刻んで殺したからな。身体を乗っ取られる心配だったら、無用だぞ」


「そうかい。【ヴラーク】を宿した影響で能力ギフトや身体能力、再生能力までもが使えるとはね。しかし、所有権が乗っ取られる可能性もあるんじゃないのかな?」


 瞬間、暗翔の瞳が一瞬だけ真っ白に変わり、海辺に反射――したような気がした。だが、またすぐに戻る。まるで、全てが幻だったかのように。


「その時は、容赦なく殺せ」


「殺す、という言葉は相応しくない。我々の流儀では――『暗殺』さ」


「要するに一緒だろう? カッコつけんな」


 かもね、という適当な相槌あいずちを返されると、電話はそこで切れた。

 荒々しい潮風の吹き抜けが、暗翔の心までもを掻っ攫っていった。




――――

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