三十六話 本職
夜雪の目尻が、
暗翔の右腕の傷口が、時間を巻き戻すかのように塞がれていく。ほんのりと白昼夢色の煙が漏れ出る。
「それは……
「困った……暗殺者同士の戦いで人質を取られるとはな。流石の俺にも情というものはある」
降参を示すかのように手を挙げる。夜雪の満足げな笑みが差し向けられた。
毒の回りが再び効き始めたのか、暗翔が片膝を突く。思わずといった形で、姿勢を手で支える。
「最初は痛くしませんわ。ふふっ、兄様と逢瀬する時は、わたくしをリードしてくださるでして?」
「俺を殺すとその行為すらできなくなるだろう?」
忘れていた、と言わんばかりに夜雪は、口元に手を当てた。影から投擲ナイフを作り出すと、軽く手首を引いた。
「心肺停止になるまで何本でも刺しますわ。動かない方が身のためでしてよ」
「ご忠告どうも。だがな、心配には――及ばないぞ?」
いつの間にか、暗翔の片手に握り締められていた、一振りの短剣。どこにでもあるような、ペティナイフのような刃である。
立ち上がると、切先を自らの胸元――心臓につがえ、躊躇う事なく突き刺した。
気が狂うような痛覚が、じんわりと上半身から四肢へと駆け巡っていく。血の気の臭いが
「に、兄様!?」
悲鳴に似た叫び声を上げた夜雪が、一瞬の間を置いて駆け寄って来た。人質の紅舞から離れ、無防備な姿勢のまま。
ニッ、と唇の端を曲げた暗翔は、こちらに向かって走る夜雪へ、五歩ステップを踏む。そして、四度刃を振るう。
最後の歩みを終えた時には、夜雪の背後へと移動していた。
「
「ッ……ぐっっ、にぃ……さまぁ……っ!?」
0.2秒で一歩進み、0.25秒で一度腕を振る。合計、一秒足らずに過ぎない刹那。だが、災禍の根源である初代【ヴラーク】を暗殺した青年にとっては、十分な猶予だった。
再度毒ガスが効いたのは演技。片膝を突き、腕で身体を支えるふりをして、後ろポケットから短剣を取り出す。あとは、夜雪に隙を晒すため、わざと心臓を突き刺した。
暗殺者とは、殺しのプロフェッショナル。夜雪は、その領域にはまだ達していない。否――達してはいけない。
四肢の関節を薄く刃で切り落とされた夜雪は、口から血を吐きながら横たわった。暗翔も胸元からの流血が激しく、床に多量の血溜まりを作り上げていた。しかし、どこからか白い煙が湧き出すと、傷口を舐めるように集合し、元通りに治ってしまう。
「
目の前で殺し合いが繰り広げられていたのも露知らず、紅舞はすやすやと眠りこけていた。幸いにもガスマスクを着けているため、命には別状ないだろう。
夜雪の思いやりなのか、また別の意図があるのか。
先の一件は、ひとまずの終着点を終えた。
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