三十五話 誘導と危機
その場を蹴り上げると、刃先が寸前まで居た場所を切り抜ける。唇を舐めると、濃い鉄分の臭い。最初の攻撃は避けたと思っていたのだが、どうやら当たっていたらしい。
地上から身を飛び出し、宙へと躍り出た夜雪。落下する暗翔に合わせて、刃を振った。空気中に散乱する分子をも切り裂きながら迫る刀。
大きく舌打ちをした暗翔が、十字に腕をガードする。右腕に刃を通され、激痛が顔を歪ませた。荒々しく流血する音が、鼓膜を貫く。
「どうして俺を狙う。組織がそんなに不満か?」
「わたくしにはわたくしの目的がありまして。そのためには、兄様であれ殺さなければならないのですわッ」
着地すると、目の前に数本の投擲ナイフが肉薄。力任せに踵で地面を蹴り落とすと、飛び出た床の木材破片で防ぐ。姿勢を低くすると、頭上を刃が通過。しゃがみ込んだまま夜雪の足元を引っ掛けようとするも、宙に飛ばれ、可憐な回避を見せられる。
「まだまだ甘いな。誘導したんだぞ?」
「なっ……」
木材破片に突き刺さったナイフを引き抜くと、全身を捻り出して飛ばした。一秒も経たず目標を捉えたナイフだったが、刃先に弾かれ、甲高い音とともに落下。しかし、空中で無理な姿勢を取った夜雪の着地は、僅かに体勢を崩してしまった。
暗翔が隙を突いて、強引に首元を掴むと、地から離して掲げた。
「勝負あったな。不可能だよ、夜雪には。お前を暗殺者に育ててあげたのは、俺なんだからな」
「ッ……そう、でして? 無策で兄様に挑むとでも思いですこと?」
乱れた呼吸の中、なぜか夜雪が不敵に唇を歪めた。瞬間、暗翔の身体が床に倒れ込んでしまう。指先に込められた力も抜け、敵が悠々と手元から逃れた。
戦闘前に感じた
「っ……これは」
「やっと回ったようですわね。神経系に効く猛毒ガスですしてよ、兄様?」
「……ふっ、なるほどな。アールグレイの香りはフェイクか」
「えぇ。ほぼ臭いは有りませんが、兄様ならば察知するかも知れません。全てはこの場を整えるための演技に過ぎませんわ」
「だとしても、夜雪自身にも効くはずだろう?」
「兄様ったら、わたくしの身を案じているのでして? お優しいこと。ですが、心配には及びません。わたくしは既に何度も使用しているので、耐性があるのですわ」
そうか、と暗翔が乾いた笑いを漏らす。刃先が心臓に狙いを定めるかのように、真上の位置に移動。
説得は不可能に近い。四肢は満足に動かせないどころか、呼吸すら麻痺で辛い。
礼儀正しく頭を下げた夜雪の顔面には、微笑が貼り付けられていた。
「あの世でお会いしましょう、兄様」
刀が両手で握り締められると、振り上げられる。逃げられない。致命傷は避けられない。
「夜雪に対して自分の妹のように接したのに……俺は人を何千人と殺せても、大切なたった一人の人間ですら、守り抜けなかったんだな」
ただの独白じみた暗翔の言葉。貫くはずだった心臓の位置には刃先がおらず、右肩にずれていた。
感情による判断能力の低下。会話を通じての戦闘において、夜雪は暗翔の言葉に動じたのか、簡単な誘導に引っ掛かり、わざわざ隙を晒してしまった。
本来、夜雪は暗殺のプロ。不自然な行動や隙を見せるはずがない。夜雪自身が口にしたように、全て計算された戦闘でなければならないのだが――。
誘導に引っ掛かかってしまうというミスだけは、夜雪の計算外であると考えた。
「なっ……なぜこの毒の中を!? どんな猛獣でも、動けなくなるのでしてよッ」
夜雪が後方に下がり、驚愕するように叫ぶ。それもそのはず。猛毒ガスが充満した室内で、暗翔は何ともないように立ち上がったのだ。
「暗殺者の端くれだぞ? 毒への耐性は三十秒も有れば付く。そんな訓練は既に何百回として来たからな」
「ッ……ですが。流石に紅舞さんを失っては、兄様の立場も危うくなるのではなくて?」
夜雪が影を伝い紅舞へ近寄ると、未だに倒れ込む肉体へ、刃先を向けた。
「……っ、まずったな」
瞳が物語っている。抵抗すれば、容赦なく刀身を突き刺してしまうと。
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