部隊全滅
クマや犬など、肉食動物に背を向けて逃げてはいけない。
比較的有名な、猛獣『対策』の一つである。理由は背を向ける事が自分の弱さの提示であり、無防備と判断して獣は襲い掛かるから。肉食動物も怪我はしたくないので、向き合って戦う意思を見せる相手は迂闊に襲えない。背中を向けている相手なら、安全に仕留められるので安心、という訳だ。
その意味では、今のめだか達のやっている事――――怪魚に背を向け、全力疾走するのは最悪の逃げ方かも知れない。完全に戦う意思を放棄した姿であり、肉食動物からすれば襲い放題な姿だ。
とはいえ三人もの犠牲を出した先の戦闘を鑑みれば、正面から向き合ったところで怪魚に一矢報いる事は出来そうにない。怪魚が見せた賢さを思えば、彼我の実力差は確実に理解しているだろう。向き合ったところで攻撃を躊躇うとは考え難く、ならばプライドを捨てて全力疾走をする方が幾分生存率は高いと思われる。
何より。
「ギィィボボォオオオボボ!」
不気味な笑い声を出しながら追い駆けてくる怪魚の姿を見るに、下手に向き合ったら、嬉々としながら襲ってきただろう。
「畜生っ! あの化け物、遊んでやがる!」
サムが悪態を吐き、忌々しさで顔を歪める。
彼の後ろを走るめだかも同意見だ。あの怪魚は遊びでこちらを追い駆けている。それも犬のように『無邪気』な遊び方ではない。弱者を弄び、甚振る事に快感を覚える、極めて邪悪な遊び方だ。
「(あれが、天罰……!?)」
島民の生き残りは、ミユーラは信仰対象の岩場を壊されて怒っているのではないかと話していた。
だが本当に怒りが原因なら、眷属達があんな楽しそうな声を出すだろうか。不埒者を殺せるのが嬉しいにしたって、喜び過ぎではないか。
そもそも自分達はただ島に来ただけなのに、何故天罰の対象となるのか。
「ギボォオッ!」
「げぶ……!?」
めだかが思考を巡らせていた時、怪魚がおもむろに鳴いた。瞬間、笹原が呻く。更に彼の身体が『前』へとつんのめる。
笹原の背中には、人間の下半身があった。
いや、あった、という言い方は正確でない……叩き付けられたと言うべきだ。笹原は飛んできた人間の下半身と激突したのである。
笹原は転倒し、そのまま床に倒れ伏す。助けなければとめだかは一瞬思ったが、振り返った際、笹原の手足の曲がり方がおかしいと気付く。
トラックにでも撥ねられたかのような状態で、一目で手遅れだと察せられた。
「ギィィボボボボボォーッ!」
怪魚は心底楽しそうに笑った。もしも奴がボーリングを知っていたなら、ストラーイクっ! と言ってたであろうぐらいの軽いノリで。
めだかは確信する。コイツらには一切の大義も信念もない。神の如く理不尽で、人が如く聡明な癖に、獣以上の醜悪な本能しかないのだ。
「くそっ! 綿摘! どうにか出来ないか!?」
「出来たらとっくに言ってるわよ!」
出来なかったから自衛隊と米軍は壊滅したのだろう――――めだかは言葉に出さなかったが、武彦も恐らく同じように考えている。
何故この島から米軍もフィリピン軍も自衛隊も消えるのか。
なんて事はない。人殺しが大好きなあの化け物に、みんなやられたのだ。口の中に銃弾を叩き込んでも死なない相手となれば、人間が扱える程度の武器でどうにかなるとは思えない。
「す、少なくとも、単純な力では完全に負けてると考えるべきね! まさか誰も手榴弾やロケットランチャーを使わなかったとは、思えないし!」
「それ以上の火器ならどうだ!? 護衛艦か駆逐艦の艦砲なら……」
「仮に通じても、この距離じゃ狙えないでしょ! いくら軍事音痴でもそのぐらい分かるわよ!」
サムの意見を、めだかは即座に否定する。
艦砲射撃やミサイルは銃なんかとは比較にならないほど強力な兵器だ。確かにあれらを直撃させれば、流石の怪魚も粉々に吹き飛ばせるかも知れない。
だがそういった武器は、至近距離の対象を狙うようには出来ていない。射角の問題も考えると、近ければ簡単に死角に潜り込まれ、どうにもならないだろう。
至近距離で発射した際の反動を食らわせる、というのも通じないだろう。その反動は人間ぐらいなら殺せるかも知れないが、ロケットランチャーの直撃を耐える可能性がある相手に効果的とは思えない。
そして一番の問題は、別にある。
「だ、大体、あの二匹を倒して終わりだと思う!?」
「……おいおい、まさか……」
「今回日米が派遣した兵士は約四百人! それが一人も、ろくに逃げ切れなかったのよ!」
本気になったあの怪魚が、どれほど強いのかは計り知れない。少なくとも今の遊び状態と比べれば、数段上なのは間違いない筈だ。だが四百もの戦闘員が、多少混乱があったとしても一人残らず『全滅』するほどの強さとは思えない。
全滅した理由として考えられるものは二つ。
一つは、あの怪魚の強さがめだかの想像の百万倍ぐらい強い場合。実はたった一体でこの基地を跡形もなく破壊出来るぐらい強いのなら、確かに一人残らず、逃げる間もなく全滅するだろう。単純なパワーはどんな問題も解決する。
しかしより現実的なのは、もう一つの理由。
「どれぐらいかは分からないけど……何十か、何百もいたなら、一人残らず、それもたった八時間で片付ける事も、出来る筈よ!」
むしろ逆算すれば、そうとしか考えられない。これまた勝ち目のない可能性だが、恐らくより現実に即している。
諦めず抵抗するにしても、現実的に考えなければ一方的にやられるだけだ。その意味ではめだかは現実を意識していたが、武彦とサムは考えたくないと言わんばかりに顔を顰めた。
その考えの違いが生死を分けた――――という事はない。
逃げる最中に通りがかった曲がり角。そこからもう一体の怪魚が現れたのは、決してめだか達の心持ちが原因ではないのだから。
「さ、三体目……!?」
武彦とサムは咄嗟に銃を構える。その時の顔は苦々しく歪んでいた。こんなもので勝てない事は、失った仲間達が散々教えてくれたのだから。
対する怪魚はにやりと笑う。魚の癖にわざとらしく口角を歪めた、人間染みた不気味な表情だ。こちらをまるで脅威と思っていないらしい。
事実武彦達に使えるのは自動小銃と手榴弾ぐらいしかない。閃光手榴弾でも怯ませるのが限界である。
しかし背後から迫るもう一体の怪魚なら、話は別だろう。
「避けるぞ!」
武彦がめだかを抱き上げ、その場から跳躍。サムも同じ方へと飛び込み、転がるようにして逃げ出す。
「ギョボッ!?」
「ゴッ!?」
そうすれば全速力でめだか達を追っていた怪魚は、横から出てきたもう一体の怪魚と正面衝突する。
流石の怪魚も、怪魚同士のぶつかり合いとなればただでは済まないらしい。双方共に大きく仰け反り、動きが鈍った。
「ギィィボボボ!」
「ギボォアアッ!」
そして奴等は、仲良しこよしでもないらしい。ぶつかった者同士で威嚇し合い、小突くように頭をぶつけ始める。最初は軽くだったが、反撃を繰り返すほど激しくなっていく。
「ギボァッ!」
「ギッボボオアオオオ!」
ついには噛み付き、押し倒すほどの取っ組み合いとなる。
押し倒した勢いでぶつかった基地の壁は、あまりにも呆気なく粉砕された。それほどの怪力を持つ怪魚だが、噛み付いた側の怪魚はぶんぶんと振り回し、相手を床に叩き付ける。
叩き付けた衝撃で床は陥没。人間ならば恐らく一瞬でミンチになっているだろうが、怪魚は大したダメージを受けず。下半身を鞭のように振るい、反撃とばかりに薙ぎ倒す。
凄まじい戦闘力だ。ロケットランチャーさえも通じないと、試していないのに確信出来る。しかし怪魚にとっても、これは多少なりと本気の戦いなのだろう。二体の目にはもう、めだか達は写っていない。
「今のうちに逃げるぞ!」
「ああっ!」
武彦はめだかを抱えながら走り、サムもすぐに動き出す。
二体の怪魚は延々とケンカしており、こっちの事など忘れているかのよう。今ならめだか達が奴等から逃げるのは簡単だ。
それでもつい、ケンカする怪魚達の方に視線が向いてしまう。何時標的がこちらに戻るか分からず、めだかだけでなく武彦も頻繁に警戒を行う。
その隙を突くようにすぐ傍にある部屋の扉が開く。
「危ない!」
「なっ!?」
異変に気付き、最初に動いたのはサム。武彦をその場から強く突き飛ばす。
もしそれをしなければ、足下から伸びてきたゼリー状の粘液に足を取り込まれていただろう。
「さ、サム!?」
「早く行け! この……!」
サムは銃を構えた、が、引き金を引く前に彼の身体は部屋の方へと引っ張られる。
銃声は聞こえず、代わりに何かを潰すような音のみが部屋から響く。
「あ、ぁ……!」
「っ……逃げるぞ!」
動揺するめだかに対し、武彦はすぐに立ち上がる。めだかの手を引いて立ち上がらせ、そのまま引っ張っていく。
彼の手がなければ、めだかはしばし棒立ちしていただろう。あまりにも次々と人が殺される事態。途中から精神が麻痺していたが、それもそろそろ限界だ。
「ギィボボボ」
「ゴポォォ」
されど恐怖する暇もなく、新たな怪魚は姿を表す。
廊下や部屋から次々と。一体何処に潜んでいたのか、或いは集まってきたのか、それともめだか達が来るのを静かに待っていたのか。連中の知能を思えばどれもあり得て、だからこそおぞましい。
気付けば何十もの怪魚が、わざとらしいほどゆっくりとめだか達を追っていた。
「ひっ、ひぃ……!? あ、あんな、たくさん……!」
「落ち着け! あの魚がたくさんいるってのはお前が予想してただろ!」
「そ、そう、だけど……!」
予想通りなのはその通り。
だが現実を前にして、恐怖心が止まらない。
頭では冷静さを取り戻すべきだと理解している。しかしそれで心がコントロール出来れば苦労はない。段々と足の動きがぎこちなくなり、走る速さも遅くなっていく。崩れたフォームは疲労が溜まりやすいのも、遅くなっている一因だろう。
怪魚達は明らかにこちらを弄んでおり、めだか達との距離は一定を保っていたが……言い換えれば、その気になれば奴等はすぐにでもめだか達を殺せるという事。今めだか達が生きているのは、奴等の気紛れに過ぎない。
何十もいる奴等のうち一匹でもおいかけっこに飽きた瞬間、二人の命は終わるのだ。
「(な、何か……何か……!)」
状況を打開する術はないか。考えてみたが、答えは出てこない。
武彦も同じなのだろう。だがめだかと違い、彼は冷静かつ勇気がある自衛官だ。
「……綿摘! 目を閉じろ!」
その言葉は、以前聞いた事のあるもの。
ハッとしためだかはすぐに目を瞑り、それとほぼ同時に武彦は何かを投げる。
閃光手榴弾だ。
群れていた怪魚達の何体かは、それに見覚えがあったのか。どよめくように動きを止め、直視を避けるためか身体を仰け反らせる。だが大半の怪魚は構わずめだか達に迫り……
放たれた閃光を直視する。
「ギョバァッ!?」
「ギボッ!?」
閃光に怯んで仰け反り、隣にいる怪魚と激突。倒れ込み、それに蹴躓いて転び、それがまた他の怪魚を巻き込む。
何十と群れていたのが仇となった。一体の転倒を切っ掛けに、他の怪魚達も身動きが取れなくなる。直視を避けた個体も、仲間が横たわっていては邪魔で通れない。
しばらく奴等は動けない筈だ。とはいえめだかが振り返って見たところ、怪魚達はやはり生きている。多少時間は掛かっても、また追い駆けてくるだろう。恐らく先程と違って、遊び抜きに。
目の前のT字路で、少しは翻弄出来れば良いが……
「綿摘! 左に行け!」
「わ、分かった!」
武彦に指示され、めだかは言われた通りT字路の左へと曲がる。記憶が確かなら、この廊下が最短で外へと通じる道順だ。
ところがどうしてか。
武彦は、めだかとは反対の右へと曲がってしまう。
「――――えっ」
「お前はそっちから逃げろ! 俺は非常口側から行く!」
立ち止まるめだかに、武彦が提案したのは二手に分かれるという作戦。
合理的に考えれば悪くない手だ。
逃げる事しか出来ないのなら、二人一緒に行動する必要はない。むしろ分散した方が、どちらかは生き残る可能性があるだろう。
だが、それを「確かに!」と納得出来るほどめだかは冷血ではない。
「そ、そんな無茶」
「無茶でもなんでもやれ! 基地から出たら船に戻って、兎に角動かせ! 動けばなんとかなる!」
めだかの言葉を遮り、武彦は更に行動を指示してくる。
そこまで言われて、めだかは理解した。彼は自分を逃がすため、囮になろうとしているのだと。
そんな事はしないで良い。一緒に逃げよう……言うのは簡単だ。だが武彦は納得するまい。彼の決意は、怯えのない顔を見れば一目瞭然なのだから。駄々を捏ねればその間に怪魚は起き上がり、彼の気持ちを無下にしてしまう。
めだかはごくりと息を飲む。
「……わ、私じゃ船を動かすのに時間が掛かるから、その間に乗り込んでよ!」
「ああ、約束だ!」
せめて最後まで逃げてくれと、遠回しに伝える。
そしてめだかは武彦に背を向け、走り出す。直後銃声と爆音が響き、彼の果敢な攻撃が始まった事を理解した。
めだかは走る。少しでも速く、武彦の意思を無駄にしないためにも。
大して広くない筈の基地が、やたら大きく感じられた。遠くなった銃声はやがて聞こえなくなり、めだかの走る足音、それと窓の外で降り続ける雨音だけが聞こえる。
もしも此処で怪魚と鉢合わせになれば、間違いなく自分は死ぬ。
その恐怖の感情が、めだかの鼓動を激しくする。思考が途切れそうになり、身体の動きもぎこちなくなっていく。
それでも武彦の覚悟を無駄にするまいという想いが、めだかの足を前へと進ませる。
……やたら長く感じていた基地の廊下も、走り続ければやがて終わりは来る。
出口が見えたのだ。めだか達が乗ってきた護衛艦は、基地の近くに停めてある。走っていけばすぐに辿り着けるだろう。乗り込むためのタラップが出しっ放しかは分からないが、此処で考えても仕方ない。
念のため後ろを振り向くが、怪魚達の姿は見えない。追ってはきていないようだ。怪魚の素早さを思えば安心は出来ないが、追われながら船に向かうより遥かに状況は良い。
「(問題は、護衛艦の動かし方なんて知らない事だけど……なんかレバー適当に引けば、多分動くわよね!)」
沖にさえ向かえば、島から離れてしまえば、何時かは電波の通じない海域から出られる。電波が通じれば、通信が出来る筈だ。こちらから掛ける事は出来なくても、丸一日音信不通の船なら、自衛隊や米軍の方から呼び掛けてくる可能性が高い。
そうすれば助けを呼べる。この島で何があったか伝えられる。信じてもらえるかは分からないが、多少なりとも信用してもらえれば……もしも次の調査か攻撃をする時、もっと装備を整えられる。
情報さえ持ち帰れば、人類にはまだ出来る事があるのだ。
――――持ち帰れたなら。
「はあっ! はぁ、船、は……」
ついに基地の外へと出ためだかは、そのままの勢いで護衛艦に向かおうとして、足を止めた。
気付けば、雨は止んでいた。
それどころか雲すらなくなっている。急な天候回復というのはあり得ない出来事ではないが、今までの豪雨を思うと不自然極まりない。
だがお陰で見晴らしは良い。月明かりもあって、目が慣れてくれば夜中にも拘らず遠くまでよく見える。
そう、何処までも続く、美しくて穏やかな海が。
護衛艦の姿は、その海の何処にもなかった。
「……………え……えっと……」
自分が何か勘違いしているのか。めだかは周囲を見回す。
だが護衛艦の姿はない。いや、護衛艦どころか米軍の駆逐艦さえ見られない。
沖に流された訳でもなく、忽然と姿を消している。
まさかあの大雨で沈んだのだろうか? あり得ないとは言わないが、考え難い。荒れた海でも辛うじて沈まずにいた最新鋭の船なのだ。ましてや浅い場所に停泊しているのだから、沈んだとしても船尾ぐらい見えそうなものである。
忽然と船が姿を消す。その異常さに唖然とするめだかだったが、すぐに一つの可能性に思い至る。
あの怪魚達だ。考えてみればあれは魚なのだから、海こそが本来のテリトリーと考えるのが自然。しかも人間並と思える高度な知能を持つ。船を沈め、人間達の逃げ場を潰しておくぐらいの事はしてもおかしくない。
端から、この殺戮から逃げる事など出来なかったのだ。村にいた二人のように、何処かに隠れる以外生き残る術はない。
先人の教えを軽視したツケが、今、ここで突き付けられた。
「ゴボボボ」
立ち尽くしていると、ぽんっとめだかは肩を叩かれた。不気味な鳴き声と共に。
最早恐怖もなく振り返れば、そこには怪魚がいた。「残念でしたぁ」と言いたげな、意地の悪い笑みを浮かべている。部屋の隅にゴキブリを追い込んだ人類でも、ここまで嗜虐心は剥き出しにしないだろうに。
ここで殺されるのか……めだかは諦めて身動き一つ取らなかったが、怪魚は何もしなかった。強いて言うなら、「前を見ろ」と言わんばかりに頭を軽く振るだけ。
機嫌を損ねる事も今や怖くないが、何を見せたいのかは気になる。怪魚の指示通りに、めだかは前を見据えた。
――――そして後悔する事となる。
知らなければ得られた、無知故の安らかさを捨ててしまったと……
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