事後

 自衛隊員約百九十名。

 米海軍兵士約百九十名。

 この基地には、合わせて約三百八十名の兵士がいた。いずれも『海軍』の人員とはいえ、米軍からは海兵隊が、自衛隊からは地上戦成績優秀者が派遣されている。十分な戦闘力を備えた集団だ。当然司令官達も地上戦を想定し、米軍に至っては実績のある者がその地位に就いている。

 他には約二十名の非戦闘員がいた。彼等は戦う事など出来ないが、銃を渡せばそれなりの『火力』になるだろう。無論普通に考えれば、基地内の何処か安全な場所に避難させられているだろうが。

 そんな彼等が、たった八時間半で、恐らく全員基地から姿を消した。


「……なんの冗談よ、それ」


「ああ、全く笑えない話だ」


 思わずぼやくめだか。そしてそれに同意する武彦。

 サム達米軍兵士も、他の自衛隊員も、静かに銃を構える。指は引き金に掛けられ、瞬時に発砲出来る臨戦態勢を取っていた。

 めだか達は基地にある施設の一つに足を踏み入れている。そこはめだか達が村へ行くための作戦会議をした、会議室がある建物だ。日米全員が集ったブリーフィングルームのある建物ほど大きくはないが、百人ぐらいは問題なく収容出来るだろう。

 その施設がもぬけの殻となっている。人が何処かに隠れている様子はなく、声どころか物音一つ聞こえてこない。

 今の状況下で、遠征から帰ってきためだか達にサプライズパーティーを仕掛けるとは到底思えない。また道が悪かった事もあり、基地と村の往復には八時間半もの時間を費やしている。生き残った島民との話も含めれば凡そ九時間ぶりの帰還だ。お陰で今は午後八時近く。夜であり、今から何百もの兵士を率いて何処かに移動するとは考え難い。

 そして、室内に漂う異様な臭い。


「ミス綿摘。この臭いが何か、分かるかい? 俺には腐った魚のそれに思えるんだが」


「そうねサム。確かに魚っぽいわね……なんでそんな臭いがするかは分からないけど」


 サムからの軽口に、めだかも軽口で返す。生物学の知識などいらない。三十年前後の人生経験があれば、なんとなく分かる悪臭だ。

 海の近くだからといって、こんな生臭さが充満するとは思えない。いや、海だからこそあり得ないと言うべきか。水から漂う生臭さの原因は主に生物の死骸だが、生命が豊富な海域なら、それらはすぐ別の生き物の餌となる。よって一定範囲が腐臭塗れになるほど、大量の死骸が積み重なる事は早々ない。

 明らかな異常事態。どれだけ警戒しても足りない、言葉に出来ない不気味さをめだかは感じる。


「……通信はどうだ?」


「やっていますが、自衛隊本部からの応答ありません」


「うちの国のボスからも返事はないぜ。全員揃っておねんねしていれば、まだ笑えるんだがな」


 日米共に通信機からの応答なし。基地内ほど近ければ通信が行える事は、事前に確認済みだ。つまり通信妨害ではなく、誰も通信に出ない事が原因と考えられる。

 言うまでもなく、仲間からの通信に居留守を決め込むなどあり得ない。

 武彦は銃を構えながら考え込む。ややあって、小さく息を吐いた彼は、気張った声で『作戦』を提案する。


「ひとまず、施設内を調べる。何処かに籠城しているかも知れない」


「ああ、そうだな。だが籠城する原因と会ったら、どうする?」


「その時は全力で逃げる。戦闘は可能な限り回避。対話出来そうならプライドを捨てて命乞いだ」


「OK。最高の作戦だ……うちもその方針でやろう」


 武彦とサムの間で作戦の詳細が決められていく。

 作戦といっても、要するに『何か』がいたら生存を最重要視するという事。

 その判断は、めだかも大いに支持する。どう長く見積もっても、たった九時間かそこらで四百人近い人間を『消す』ような相手だ。七人しかいない自分達など、単純計算で十分後には全滅している。

 生き延びれば、情報を持ち帰れる。だから生き残る事が最重要だ。

 ……生き残る事を、許してくれる相手であればの話だが。


「行くぞ。綿摘、お前は列の真ん中にいろ。そして何かあれば、近くの隊員にしがみつけ」


「わ、分かったわ。全部任せる」


 この状況下で、生物学者として言える事などない。めだかは大人しく、最寄りの隊員こと武彦の背中に掴まる。

 めだかが寄り添った事を確認し、武彦達は施設の奥を目指し歩き始める。

 周囲を警戒する日米の兵士達。彼等が危険を探る中、めだかも基地内の様子を観察し、何があったか知ろうとする。


「(臭い……なんか、奥に行くほど臭いが強くなってるような)」


 正直鼻を摘みたいが、数少ない情報だ。我慢して、むしろ積極的に嗅ぎ回る。

 それで分かったのは、壁や床にある『粘液』が臭いの発生源である事だ。

 見た目の印象であるが、粘液は透明で、あまり粘り気はないように思える。よく見ればあちこちにその粘液はあり、施設中が汚染されているらしい。

 指などで触れるのは、流石に無防備が過ぎるのでやりたくない。だが少なくとも、靴裏で踏む分には、滑りやすい以外の問題はなさそうだ。また漂う臭気に関しても、「直ちに影響はない」と言える程度には無害と思われる。

 勿論、だから安全だ、とは言えないが。だがそれよりも気にすべきは、そもそもだろう。


「(こういうのも難だけど、普通、人間の使うものは乾いているのよね)」


 銃にしろ服にしろ、湿っているものを人間は好まない。日焼け防止や性的遊戯など特殊な目的がない限り、ねばねばしたものには触れたくないのが一般的な感性だろう。

 その粘液が基地中にあるのは、『人間』が行動した後とは考え辛い。

 しかし人でないとすれば、消去法的に『野生動物』が原因となってしまう。一人二人なら兎も角、武装した四百近い人間を消すなんて真似、獣に出来る訳がない……そう一蹴したいところだが、生き残りの島民が語っていた、神の眷属なる未知がいる。もしかするとその未知の存在が、皆を消した元凶なのではないか。

 この考えが正しいという確信は、基地の奥に行くほど粘液の量が増えている事実から得られた。


「……ねぇ、大和。私の気の所為ならそう言ってほしいんだけど、なんか、壁とか床の粘液、増えてない?」


「ああ、俺もそんな気がしている」


「一般論だけど、粘液って時間が経つほど乾いて、見た目の量は減っていくわよね?」


「ああ、そうだろうな」


 つまり粘液が多いほど、そこを『何か』が通ったのはつい最近となる。

 施設内を歩く自分達は、着実にその『何か』に近付いている。調査のための歩みとはいえ、それは自分達が一層死に近付いているようにもめだかは思う。

 退くなら、今しかないのではないか。

 だが退いたところで、どうなるというのか。島から脱出するには港に停めた駆逐艦か護衛艦を動かすしかないが、まともに運転するには操舵士などの専門家が必須だ。嵐が今も吹き荒れているのなら尚更である。給油や艦内メンテナンスなども必要であれば、此処にいる七人だけでどうにかなるものではない。

 森に逃げ込んだところで、島民が壊滅している以上安全とは言い難い。生き残っていたあの若い二人のように、ガタガタ震えるのが精いっぱいだ。

 ならばせめて、真実を知ろうとする方が生き残れるのではないか。生き残りを探し、積極的に脱出する方が良いのではないか。


「(単純に、じっとしていられないだけと言われたら反論出来ないけど)」


 何かしている方が気は紛れる。それもまた、皆に行動を促したのかも知れない。少なくともめだかに関してはその通りだ。

 そして行く先で奇妙な、という物音を聞いた瞬間、めだかの僅かな理性は消し飛んだ。反射的に最も近くにいた武彦の腕にしがみつく。


「ひゃっ!? え、な、何……?」


「……声を抑えろ」


 戸惑うめだかに対し、武彦は小さな声で黙らせようとする。めだかも、自身の行動が危険を招くと気付き、慌てて口を噤む。

 米軍兵士や自衛隊員達も、身動ぎすら抑え、静かに耳を澄ます。

 そうすれば、ぐちゃりぐちゃりという生々しい音が、ちゃんと聞き取れた。

 音は大きくなったり小さくなったりしていたが、ほぼ絶え間なく鳴り続けている。時折聞こえてくるのは、カタカタと硬いものを擦るような音と、ボタボタと何かの滴る音。

 それと音の発信源は、どうやらめだか達の行く先にある部屋のどれからしい。


「……………」


 武彦は片手を軽く動かす。前進を意味するハンドサインだ。宮内と名乗っていた自衛隊員が先頭を進み、武彦とめだかはその後を追う。

 残り一人の自衛隊員・笹原と、三人の米軍兵士達は後方を警戒。挟み撃ちにならないよう注意しながら、ゆっくり、足音を立てずに前へと進む。

 生々しい音は少しずつ大きくなる。それだけ近付いている証だ。近付けば、今まで大まかにしか分からなかった方角もハッキリと感じ取れるようになる。

 最終的に、あと二メートルほど進んだ先にある、半開きの扉の奥が音の発信源だと分かり――――そこで武彦は足を止めた。


「……………」


「……………」


 武彦は再びハンドサインで指示。宮内はこくりと頷くと、忍び足で半開きの扉へと向かう。

 扉の前まで来たら慎重に、決して扉に触れぬようゆっくりと身体を傾ける。開いた扉の奥に何がいるのか、それを確かめるために覗き込んで


「っ! 畜生っ罠」


 突然叫ぶや銃を構えた

 瞬間、宮内の身体が突き飛ばされる。

 いや、それはあまりにも生温い表現かも知れない。飛んだ宮内の身体は、くの字に曲がるだけでは足りず、なったのだから。

 見間違いではない事は、落ちた宮内の身体が二つあり、その断面からでろりと生々しいものが溢れ出た事からも明らか。最初は起き上がろうとした宮内だったが、胴体直径ほどもある『傷口』からは一気に血が溢れ出す。大量失血なのは見ただけで分かり、宮内が即座にばたりと倒れ伏したのは失血による意識喪失……失血死の結果か。

 武彦達が宮内の下に駆け寄らないのは、一目で手遅れだと分かったからだろう。


「――――うぶっ」


 衝撃的という言葉でも足りぬ光景に、めだかは吐き気を催す。

 死んだ人間を見た事がない訳ではない。しかしそれは葬式や病院など、先進国らしい『整った』環境での出来事だ。こんな惨たらしい遺体を見たのは初めてであり、精神的に動揺してしまう。

 それでも吐かずに済んだのは、吐いてる場合ではないと理解していたから。

 人間を惨たらしく殺した『何か』が、扉の奥にいるのだから。


「……罠って事は、つまりそいつは俺達が来るのを待っていた訳だ。誘うような物音まで付けて」


「ヘイッ! 部屋の奥に隠れてないで、とっとと出てこい! もういるのはバレてるんだからよ!」


 武彦の推理通りならば、相手には相応の知能がある。それを前提にし、サムが大きな声で呼び掛ける。

 果たしてそいつは、サムの言葉に応じたのか。

 半開きだった扉がゆっくりと押し開けられ、その奥から何かが出てくる。ぬちゃぬちゃと湿った音を鳴らし、巨大な身体をゆっくりと廊下側へと進ませる。

 この時感じた衝撃を、めだかは生涯忘れないと思った。その生涯は間もなく閉じるだろうという予感と共に。

 堂々と自分達の前に現れた巨大な『魚』の怪物が、この基地の兵士達を全滅させた元凶だと確信したのだから……

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