迫る影

「作戦の概要について話そう」


 ブリーフィングルームから移動しためだかは、多くの自衛官と米軍兵士に囲まれた状態で、気象学者である賢一の前に立っていた。

 賢一は手にしていた地図を広げる。描かれていた陸地の形からして、それはめだか達が今いるロードリオン島のものだと一目で理解出来た。


「此処が俺達等のいるフィリピン軍基地だ。村は此処から三キロほど離れた、内陸部に位置している」


「内陸にあるのですか? こういう村だと、集落は海沿いにあるイメージだったのですが」


 賢一の説明を聞き、一人の自衛隊員が尋ねる。

 確かに孤島の住民は、海沿いで暮らしている事が多い。それは彼等が漁業を生業とし、より効率的な生活を追求した結果と言えよう。

 事前の情報によれば、此処の島民も漁業が生活の基盤らしい。三キロ程度なら歩いて行ける距離ではあるが、毎日これを往復するのは少々大変だ。何故海辺で暮らさないのか、何かしらの理由があるのか……


「それはこの島の神話に由来しているのさ」


 疑問に答えたのは、黒人米国兵士である青年・サムだった。

 米軍が話していた『島民との通訳が可能な兵士』とは、彼の事である。そして言葉が分かる故に、文化にも多少なりと精通していた。


「神話?」


「なんでも、海の傍は危険らしい。前に来た時、子供達から聞いた話だ」


「ふむ。津波などから逃げるためだろうか……もしかすると今回の事件に、何かしら関係しているかも知れん」


「考え過ぎ、と言いたいところですが、二百もの人間が消えた異常事態です。我々の常識外のものも考慮すべきかも知れません」


 一人の自衛隊員が語るように、神話だからといって無下にすべきではない。

 例えば災害神話と呼ばれるものがある。それらは遥か大昔に起きた災害を、当時の人々が後世に伝えるべく残した物語だ。

 重要なのは起きた要因に『神』や『怪物』が出たとしても、話の信憑性は微塵も揺らがない事である。古代の人々や原住民は、馬鹿だから神を信じるのではない。発展していない科学故に説明出来ない事象を、どうにか理解するために超常的存在を仮定しているのだ。「神の怒りで大地が震えた」と書かれていても、地震があった証拠としては問題ない。

 海から離れて暮らす事が神話によるものなら、その神話は何かの事実を語っていてもおかしくない。空想のお話だ、などと無視するのは懸命な判断とは言えないだろう。

 ……そんな至極真面目な打ち合わせに参加しながら、めだかは思う。

 何故私は此処にいるのだろう、と。


「……あのぅ、一つ聞きたいというか……なんで私、村の捜索隊に加えられてるのでしょう?」


「なんだ、さっきの話聞いてなかったのか?」


 意を決して尋ねると、武彦は呆れたように呟く。

 聞いていなかったのではない。聞いた上で、納得出来ていないのだ。


「そんな訳ないでしょ……ただ私みたいな学者が、あの大雨の中遠くの村まで行くとか無理って言ってんの」


「だが、お前の特技を思えばこっちに編入した方が合理的だろ? 生物学者なんだからな」


「……そう言われたら、その通りなんだけど」


 反論してみるも、武彦に言われてめだかは押し黙る。納得は出来ないが、理解は出来てしまうがために。

 この島の大部分は熱帯性の森に覆われている。開拓されているのは、沿岸部にある此処フィリピン軍基地ぐらいなものだ。村へと行くには森を突破しなければならない。

 自然が残っていると言えば聞こえは良いが、見方を変えれば人の手に負えない環境が支配しているという事。日本的な里山を想像してはいけない。本来自然の森というのは、刃物で切り開きながらでなければろくに進めないほど、濃密で危険な領域だ。様々な野生動物も生息しており、中には人に危害を加えてくる種もいるだろう。

 もしも作戦行動中、なんらかの虫に刺されたら? 種類が分からなければ、それが危険かどうか、どう治療すれば良いかも分からない。またそういった危険な生物のいる場所を避ける事も、遭遇した時の追い返し方も、知識がなければ判断出来ない事である。

 村へ行くには、生物学の知識が不可欠。

 そして自衛隊側の人員で、一番生物に詳しいのがめだかだった。


「……ああもう、分かったわよ。私以外に出来ないならやるしかないじゃない」


「最初からそういう話だ。大人しく同行するんだな」


 わざとらしく忠告する武彦の脇腹に、肘鉄を放つめだか。鍛え上げられた腹筋は、非力な科学者の一撃ぐらいではビクともしなかった。


「茶番は終わったか? なら次の話だ」


 めだか達のじゃれ合いを賢一は窘めつつ、話の主導権を取り戻す。

 賢一は地図を指差し、フィリピン軍基地がある場所から村までのルートをなぞるように動かしながら語る。


「先程直線距離で三キロと言ったが、そのままのルートを通る事は勧められない。この地形を見るに、恐らく土砂崩れが起きている」


「安全なルートはありますか?」


「ほぼほぼ開発されていない、未開の土地だからな。何処も危険だが……比較的マシなのがこの道だろう」


「……大きく迂回しますね」


「ああ。だから直進するよりもずっと時間が掛かる。それを考慮した上で予定を組むべきだ」


 淡々と言葉を交わし、賢一と自衛隊員達、それとサムは作戦ルートを決めていく。

 どちらにせよ、めだかには口出しなど出来ない。地図は読めるが、天気によってどんな災害が起きるかを予測するなんて真似は不可能だ。行軍スピードなんてもっと分からない。下手な口出しは混乱を招きかねない。

 しっかりと口を閉じ、賢一達の話を聞き漏らさないよう意識を集中させ――――






 やはり文句の一言でも言っとくべきだったと、外に出てから後悔した。


「ぐ、ぶ、ぶ……!?」


 基地の外は、未だ凄まじい豪雨が降り続いていた。

 いや、むしろ船から下りた直後よりも勢いを増していないだろうか? 計測していない以上憶測に過ぎないが、そう思えるほどに身体を打ち付ける雨が痛い。

 そして相変わらず息が出来ない。


「落ち着け。凄まじい雨だが、深く息を吸えばちゃんと呼吸出来る。船から降りた時にもやっただろう?」


 悶えていると、傍を歩く武彦からアドバイスが聞こえた。或いは聞こえるぐらい近くでハッキリと言ってくれた、というのが正しいか。雨音も凄まじく、普通の声では会話が出来そうにない。

 言われた通り深く、深く息を吸う。船から降りた時と同じように。それで確かに楽になった。

 しかしこの呼吸の仕方は、正直かなり疲れる。船から基地までの短距離ならば兎も角、何時間も続けられるものではない。

 今から、直線距離で三キロ先にある村を目指して森を進む。村への到着予定時間は、順調にいっても三時間の見積もりである。道中の過酷さもあって、間違いなく疲労から息が乱れるだろう。そうしたらまた窒息に似た苦しさを味わう羽目になる。


「ねぇ! やっぱこの中を進むのは無理がない!?」


「あるかも知れねぇ! だが何時止むかなんて分からないんだ! 待ってる暇はない!」


 手遅れだと思いつつ中止を要請するが、武彦はこれをバッサリ切り捨てた。

 天気予報が確認出来れば、何時頃雨が止むかも見れただろう。しかし今この島では通信が行えない。何かに阻まれているかのように、遠くとのやり取りが出来なくなっている。

 このため天気予報を確認出来ず、何時まで雨が降るか分からない。だが昼間なのに夜かと思うほど地上が暗い。雨雲は分厚く、大量の雨水を溜め込んでいるだろう。当分止まない、と考えるのが妥当だ。『何』が起きるか分からない今、のんびり状況の改善を待つのが最適とは限らない。むしろ悪化する可能性もある。

 それに島の住民に『誰か』が危害を加えたとして、その証拠をこの雨は洗い流してしまう可能性が高い。仮に無事だとしても、この大雨では一時間後も無事とは限らない。島民は今回の異変の重要な証人。早めの安否確認が必要だ。

 今行かねばならない理由は、いくらでもあった。


「大丈夫だ! 俺が傍にいるし、他の隊員もいる! もし道が塞がっていたら、すぐに引き返す!」


 ただし無理はしない。二次遭難を避けるためにも、明らかな『危険』があれば引き返す。

 そういう計画だ。そこまで言われては、めだかもあまり強く反論は出来ない。


「……分かった! 行きゃあいいんでしょ!」


 いよいよ覚悟を決めた事を、めだかは大きな声で武彦に伝えた。


「良し! じゃあ、行くか!」


「そちらの準備は出来たようだね! じゃあ、行こう!」


 めだか達のやり取りを少し離れた位置で聞いていたサムが、出発を言葉にする。

 この場には今、めだか含めて九人のメンバーがいる筈だ。米軍兵士は通訳であるサムと、彼の護衛役が二人。自衛隊側はめだかと、その護衛役が五人という内訳である。米軍人達はめだかと武彦の前にいて、雨と暗闇に紛れてろくに姿が見えないが、声だけはしっかり聞こえた。

 メンバーは二人並んで動き、それが縦に並ぶ。つまり二列で行進するイメージだ。これはペアを組む事で、互いの死角をカバーするためである。自衛隊の最前列を歩くのは武彦とめだかの二人。彼女達の前を米軍兵士三人が歩き、後方を四人の自衛隊員が警戒するという布陣だ。

 そして武彦達『軍人』は、全員が銃を持っていた。

 敵対的な何かに遭遇した時の備え。そういったものがいる可能性は、それこそこの島に着く前から考えていた。今回島に派遣された四百人近い軍人達は全員海軍(自衛隊は軍ではないとされているが)所属であるが、上陸後の戦闘は考慮されている。米軍側は正に上陸戦のプロである海兵隊を送り込んでおり、日本側は海上自衛隊の中でも優秀な地上戦成績者を選んだ。

 そんな彼等が人殺しのための武器を構えると、いよいよ危険が現実味を帯びてきたとめだかは思う。


「安心しろ! ちゃんと守ってやる!」


 果たしてその気持ちを察したのか。武彦はめだかの肩を力強く叩く。

 不安な気持ちは、たったそれだけで何処かに飛んでいってしまった。


「ええ、期待してる!」


 大きな声で答え、めだかは武彦達と共に歩き出した。

 ……勿論、気持ちを強く持ったところで雨は止まない。

 数歩も歩けば、豪雨の強さに早くも気持ちが挫けそうになる。いや、武彦が傍にいなければもう折れていただろう。


「(というか、他の人の姿が全然見えない……!)」


 ただでさえ暗いのに、雨さえも視界を遮る。ほんの一メートル先さえ、ハッキリとは見えない。景色なんて分からず、靴裏で感じるコンクリートの感触だけが、此処がまだ基地の敷地内だと示す。

 自衛隊員と米軍兵士達は、腰にライトを付ける事で自身の存在をアピールしている。確かにそのままの出で立ちよりは見えやすいが、その程度でしかない。油断すればすぐにでも見失いそうだ。

 こんな状況で、危険な野生動物の警戒なんて出来っこない。


「(そもそも、動いている動物なんていないでしょ! こんな天気じゃ!)」


 野生動物も馬鹿ではない。雨の中動き回る事のリスクを、彼等はちゃんと理解している。それでも動く時というのは、餓死寸前など緊急性の高い理由がある時だ。

 こんな洪水同然の雨の中、巣穴から出てくる動物がいるとは考え辛い。カタツムリやナメクジでも、流され、溺れる可能性がある(陸生貝類である彼等は肺呼吸だ)のだから大人しくしているだろう。カエルも、この弾丸のような雨を浴びては身体が傷付く。

 当然虫は飛び立とうとさえするまい。小さな虫にとって雨粒は、砲弾のようなもの。直撃を受ければ致命傷となりかねない。水溜りに卵を産む蚊でも、飛び回るのは雨が止んだ時だ。

 こんな時に出歩く動物なんていやしない。生物学者だからこそ確信があり、それ故に緊張感が持てない。ぐちゃりと足下の感覚が泥に変わっても、「ああ。もうすぐ森かぁ」としか思わず。

 、すぐには反応出来なかった。


「――――っ!?」


「どうした!?」


「い、今、私の横を何かが通って……」


「総員警戒!」


 めだかが感じた事を伝えると、武彦は即座に怒号と共に銃を構える。

 武彦からの指示を受け、他の自衛隊員達や米軍兵士も銃を構えた。機敏で、統率の取れた動き。全員が違う方向を見て、死角がないよう務める。

 流石はプロだと、めだかは褒め称えたくなる。だからこそ、見間違いっぽいとも言い辛い。


「ご、ごめんなさい。気の所為かも……」


「それはこっちで判断する! だから俺の傍から離れるな!」


 それでも勇気を出して伝えるが、武彦からは正論を告げられた。確かにめだかは戦闘の素人。何かがいるかどうかなど判別出来ない。

 これこそ余計な口出しだ。ぎゅっとへの字に口を噤み、押し黙る。


「……警戒を継続! このまま村に向かう!」


 そしてプロの判断は、真偽は保留、という形になった。


「こっちも警戒するが、お前も注意を怠るなよ! この視界だ! いくら俺達でも、見落としかねない!」


「え、ええ。分かったわ!」


 大仰に頷き、前の隊員が歩き出したのを見てめだかも前に進む。

 そう、視界さえハッキリしないほどの大雨だ。何かを見落としても不思議はない。

 だから今度こそ警戒していた。警戒していたが、それでも足りぬほどに雨と雲が邪魔をする。雨音があらゆる雑音を掻き消し、ぐちゃぐちゃの地面を進むため足下にも意識が割かれてしまう。そして今正に立ち入った森では、逞しい草木が行く手を遮り、集中力を削ぎ落とす。

 つまりは、仕方なかったのである。

 道中で何時の間にか、隊列最後尾を歩いていた自衛隊員二人が行方知れずになったとしても……

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