無人基地

 滝のような雨、という表現がある。

 昨今の日本であれば、ゲリラ豪雨に遭遇した時などで使う言葉だろう。視界が雨粒で埋め尽くされ、一寸先も見えないような雨が降り注ぐ光景。確かにあれは滝のようだとしか言いようがない。

 しかし船から下り、基地へと向かうめだか達が浴びている今の雨と比べれば、ゲリラ豪雨なんて温水シャワーのように生温いものだろう。


「うご、ごごご……!?」


 雨合羽で身を包んでいるめだかは、潰れたカエルのように呻く。

 まるで身体中を殴られているような衝撃が、上からどこどこと落ちてくる。

 吹き荒れる風もあって、時には横殴りされる事もあった。頭には防水フードを被っているのだが、顔面から叩き付けてくる雨水によりびしょ濡れ。顔から滴った水だけで、雨合羽の中身もびしょ濡れである。

 そして息が出来ない。

 勿論空気はそこら中にある。空気がない状況は、最早雨ではなく水中なのだから。だが滝と錯覚するほどの雨に押し出された分、普段よりもかなり少ないのだろう。吸っても吸っても、息をしている感覚にならない。

 こうも苦しいと、いっそ船に戻ってやろうかとも思ってしまうが……それは出来そうにない。

 雨雲の所為か、今はまだ午前九時頃なのに夜が如く暗さなのだ。しかも基地にろくな明かりがなく、殆ど何も見えない。引き返そうにも来た道が分からず、おまけに船は荒れる海の傍に浮かぶ。闇雲に戻ろうとすればうっかり足を滑らせて海にドボン、というのもあり得る。この豪雨の中で海に落ちたら、例え水泳の世界チャンピオンでも溺れてしまうだろう。

 今は手を引く武彦を信じ、前に進むしかないのだ。


「綿摘! しっかりしろ! 息をちゃんと吸え!」


「す、吸って、げほっ! ごぼっ!」


 武彦に反論しようとするが、空気がなくては言葉も言えない。

 武彦は屈強な男だ。肺活量も大きく、だからこの雨の中でも息が出来るのだろう。

 それを羨んだところで、めだかの息は楽にならないし、問題も解決しない。酸欠により理性が失せつつある頭をどうにか落ち着かせながら、言われた通り大きく息を吸い込み、なんとか呼吸する。

 暗さと雨の所為で他の科学者達の様子は見えないが、恐らく今のめだかと同じ状態だろう。これが長く続けば、いずれは命に関わるかも知れない。

 早く基地に辿り着かねば、不味い。

 ……恐らく、実際には一分か二分走っただけだろう。だがめだかは何十分も雨に晒されたような、耐え難い苦しみに悶える。

 どうにか建物に辿り着いた時、めだかは屋内に入るやその場にへたり込んでしまうほど消耗していた。武彦が素早く腕を掴んで立ち上がらせ、奥へと進ませなければ後続の人達の妨げとなっただろう。


「大丈夫か? 落ち着いて息をしろよ、焦ると過呼吸になる」


「え、ええ……大丈夫……げほっ。心掛ける、わ」


 出来るだけ呼吸のペースが乱れないように、落ち着いた呼吸を意識する。訓練も何もしてないため意識したぐらいで整うものではないが、幸いにも過呼吸にはならずに済んだ。


「やぁ、雨の中ご苦労だったね」


 息を整えていると、軽い口調の英語で話し掛けられる。

 振り向けば、そこにいたのは迷彩服を着た若い黒人……米軍兵士がいた。武彦はその存在を認識すると敬礼を行い、米軍兵士も敬礼を返す。

 そして米軍兵士の手には、ふかふかのタオルがたくさん入った籠が抱えられていた。


「俺の名はサム。よろしく、お嬢さん。まずはこれで身体を拭いてくれ」


「ええ、ありがとう。この歳でお嬢さん呼ばわりされるとは思わなかったわ」


「女性は何時だってお嬢様さ。そうだろう?」


 英語で会話を受けると、米軍兵士ことサムは軽薄な口調で語ってくる。ひょっとしてイタリア系移民だったりする? などとめだかはほんのり思った。


「この女を口説くのは構わないが、まずは状況を知りたい。すぐに会議を行えるか?」


 武彦は籠からタオルを一枚取ると、サムにそう尋ねる。

 肩を竦めた後のサムは、真剣な面持ちで『軍人』らしく答えた。


「ああ、この先の部屋でやる予定だ。全員身体を拭いたら、申し訳ないがシャワーの前に打ち合わせをしたい」


「了解した。学者達も同行させるか?」


「そのつもりだ。会議前に言うのも難だが……状況は好ましくない。単独行動は勿論、非戦闘員だけでの行動も避けろ」


「分かった。他の隊員にも伝えておく」


 サムと軽く情報交換をした武彦は、続々とやってくる部隊の仲間達に今の話を伝える。一息吐こうとしていた誰もが、のっぴきならない会話に息を飲む。

 めだかも同じく緊張を覚える。

 しかし緊張してばかりでは身体が持たない。今は身体を拭き、体温を保つ事が大事だと自分に言い聞かせ、がむしゃらにタオルを身体に擦り付けた。

 ……………

 ………

 …


「ようこそ自衛隊の諸君。早速で申し訳ないが、状況について伝えよう」


 案内された会議室……何百もの人が入れるこの部屋をそう呼ぶのは違和感があるが。実際には一般兵士に作戦などを伝えるブリーフィングルームだろうか……では、一人の米軍兵士がめだか達を待っていた。

 ロドルフ・ブッシュ中佐。本作戦において、米軍側の指揮を行う立場にある者だ。

 彼の隣には自衛隊側の指揮官である山本やまもと寿一郎じゅういちろうがいる。どちらもめだかにとっては、直接関わりのない相手。とはいえ指揮官と聞くだけで『偉い人』とは思うので、少しばかり緊張はするが。

 室内には彼等二人の他に、約百九十人の自衛官とめだか含めた十人の科学者、それと約百九十人の米軍兵士と十人の米国人科学者がいた。厳密な数はめだかには数えられないが、それぐらいはいそうだという大人数。広いブリーフィングルームが手狭に思える。

 それに、湿気と気温が高い。

 綺麗に拭いたとはいえ、雨でぐっしょり濡れためだか達の身体からは水分が蒸発している。米軍兵士も同じだろう。そして四百名分の体温があれば、中が熱帯雨林が如く状態になるのも仕方ない。

 これでも空調が効いていれば少しはマシになっただろう。だが室内のエアコンは動いているが、どうにも弱々しく思う。稼働設定を自動ではなく、弱にしているようだ。

 その事に気付くと、部屋の明かりも随分暗く思える。プロジェクターを使うなら分かるが、そういった機材は何処にも見当たらない。

 どうも、電化製品を出来るだけ使わないようにしている様子だ。つまり……


「(電力が十分じゃない、とか?)」


 ふと脳裏を過った可能性。まさかと思いながら、否定する要素が今のところない。


「まず、端的に述べよう。基地内に生存者は確認出来なかった。そして基地内の設備は、なんらかの破壊工作を受けた形跡がある」


 そして不安は、ロドルフのハッキリとした言葉により事実と判明した。

 心の準備もなく現実を突き付けられ、正直めだかは大いに動揺する。周りのざわめきを聞くに、他の自衛隊員や科学者達も少なからず心を掻き乱されたようだ。

 しかし『前提』として述べられた事で、下手な希望を持つ事もなかったと言える。ざわめきは思いの外小さく、めだかもそうだが、すぐに落ち着く。

 場がある程度静まり返ったのを確認してから、ロドルフは話を続けた。


「詳細を説明しよう。一次異変前、つまりこの基地との通信が途絶する前、基地には五十名の米軍兵士がいた筈だ。演習に参加していたフィリピン軍人も五十名いた。仮に二次異変で消息を絶ったフィリピン海軍百名を加え、更に百名の島民の避難場所として使われていた場合、最大三百名がこの基地にいる計算だ。しかし現時点で彼等の発見はおろか、生活している形跡さえない」


 形跡なし。その言葉の意味は重い。

 人間が生きていくには、食べ物や水、それと安全な寝床が必要である。短期間ならなくても問題ないが、余程の事情がなければ手に入れようとする。つまり行動を行い、足跡やゴミなどを生む。

 それが三百人もいれば、完璧に形跡を消すなど到底不可能だ。そもそも自分達の基地内で、どうして自身の生存を示す痕跡を消さねばならないのか。


「そして基地内で、なんらかの戦闘が行われたと思われる。壁に、銃痕と思しき穴が複数確認された」


「銃痕だと……」


「銃撃戦があったのか……」


 銃使用の痕跡について言及されると、いよいよ自衛隊員達もざわめく。

 予め希望を削がれていなければ、もっと大きなざわめきになっていたかも知れない。


「銃痕の詳細については、現在調査中だ。だがなんらかの敵との交戦があったと予測される。そしてこの戦闘によるものかは不明だが、基地の発電機が破壊されていた。現在は非常電源で基地施設を稼働させているが、あまり多くの電力は生み出せない」


 それに、とロドルフは一呼吸挟む。自分も言いたくないという態度を表すように。


「現在、日本及び米国本土との通信が途絶状態にある。艦船や基地施設の故障ではなく、なんらかの妨害の可能性が高い」


 語られた言葉に、会場は大きくざわめいた。

 一次異変と二次異変で通信が途絶したのは、この通信妨害が理由なのだろうか。

 しかし通信妨害といっても、そう簡単に出来るものではない。一般的には通信と同じ帯域の電波を流す事で、意図的に通信を混濁させる。つまり正確な情報を聞き取れないようにするもので、通信自体を途絶させる訳ではない。

 これは当然で、電波というのは結局のところ光の一種なため、それ自体を打ち消す事は出来ないのだ。光に光を当てたところで、なんの干渉もしない。別の光を混ぜて、色合いをよく分からなくするのが限度である。

 通信が『途絶』状態という事は、もっと別種の妨害……一般的でない、なんらかの方法で止められているのだろう。それが何かは、全く分からない訳だが。


「……一つ、質問をしてもよいか」


 良くない情報を並べていたロドルフに、自衛隊側の指揮官である寿一郎が手を上げて質問する。

 ロドルフは「構わない」と答え、寿一郎は落ち着いた声色で問う。


「現時点で、敵は中国人民解放軍と思うか?」


 寿一郎の質問は、正に核心部分だ。

 この島にいたのは船を動かして戦う海軍である。しかし軍人であれば地上戦についても、相応の訓練を積んでいる筈だ。

 そんな彼等を戦闘で倒すには、敵も相応の訓練を積んだ者と考えるのが自然。ましてや一次異変時点で総数百ともなれば、かなり大規模な戦闘となるだろう。そんじょそこらのテロ組織で敵う規模ではない。

 ならば軍隊と衝突した、と考えるのが妥当である。そしてフィリピンでそのような衝突を起こす相手は、現状中国以外に考えられない。

 もしも本当に中国人民解放軍海軍が何かしたのなら、その時点で調査は打ち切りだ。証拠を持って迅速に帰還し、然るべき手順に則って追求する。通信が出来ないならば尚更、生還しなければならない。結果的に戦争が起こるかも知れないが、そこから先は政府の責任だ。軍としては、粛々と命じられた事をするまで。

 ところがロドルフは首を横に振った。


「そうだ、と言いたいところだが……現時点で証拠はない。人民解放軍のものと思われる武器や書類は、上陸直後の調査では発見出来なかった。それと奇妙な点もある」


「奇妙な点?」


「仮に人民解放軍の攻撃だとしたら、何故死体が一つもない? 本当に全滅したなら、何百もの数の遺体がある筈だ。それに占領した基地に駐留していないのもおかしい」


 本当に中国の仕業ならば、手に入れた基地を野放しにはしないだろう。人民解放軍の軍艦をずらりと並べ、『部外者』を侵入させない筈だ。

 ところが軍艦以前に、基地内を警備する兵士の姿すらない。


「まだ調査中のため、全てを確認出来た訳ではないが……基地区画の五割はざっと見ている。ここまで探して、兵士どころか指一本すら見ていない状況だ」


「確かに、それは奇妙だな……」


「それともう一つ。仮に銃撃戦があったなら、多少なりと血痕もある筈だ。だが、それも見付かっていない」


 死体がないのは、もしかすると片付けたのかも知れない。何百人分も埋めるのは大変だが、軍の総力を結集すれば出来なくはないだろう。

 だが血痕はそうもいかない。撃ち抜かれ、飛び散った血は壁の広範囲に付着する。それを一々拭き取るのは、実に面倒な行いだ。一次異変時の通信途絶からたった十日で、死体の片付け含めて全てやりきれるとは考え難い。

 加えて基地を占領して使うなら兎も角、警備員一人すら配置しないなら拭き取る必要なんてない。尤も、それは死体についても言える事だが。


「成程。だとすると、次の作戦はこの事件の犯人が誰かを突き止める事か」


「その通りだ。本作戦はこのまま継続し、真相を突き止める。これが米軍としての総意であるが、自衛隊の方はどうか?」


「作戦に協力しよう。全員の死亡が確認されていない今、『人命救助』の名目でやってきた我々が撤退する訳にはいかない」


「頼りになる。流石は我が同盟国だ」


 ロドルフが手を伸ばし、寿一郎がこれを握る。握手という形で改めて協力関係を確認したのだ。

 恐らくそうなるだろうとは、めだかも思っていた。調査のために来たのに「誰もいなかったから帰ります」では意味がない。それになんの証拠も掴まなければ『犯人』が野放しになってしまう。

 何より、状況的に中国人民解放軍が怪しいのは確かだが、怪しいだけだ。犯人だと断定するのはまだ早い。

 未知の脅威がいるのならば、それを確認、可能ならば排除する。そこまでやってようやく『作戦成功』と言えるだろう。


「良し。では大まかな作戦として、基地の捜索隊と、周辺地域の調査隊に分けたい」


「異論はない。一つ言うなら基地内の捜索は、人手を多く割いた方が良いだろう。なんらかの証拠があるとすれば基地内だが、短時間で成果を出すには人手が必要だ」


「そうだな。ただ、周辺地域でも重点的に調べたい場所がある」


「何? 何処か、他に基地施設があるのか?」


「原住民の村だ。この島には百名の島民が生活している。彼等が生き残っていれば状況を確認し、仮にいなければその原因究明のための証拠品を集めたい」


 ロドルフ達の会話で、めだかは思い出す。確かこの島には、島民が百人暮らしているという話だ。

 武装した二百人の軍人が行方不明になる中、言い方は悪いが、原始的な島民が生き残っているとは思えない。だが可能性がある以上、調べる必要はあるだろう。


「分かった。こちらからも人員を出そう。ただ現地民の言葉が分かる者がいない。それは米軍側で用意してくれないか?」


「承知した。通訳が可能な者がいる。彼を派遣しよう」


 指揮官同士の会話はすらすらと進み、とんとん拍子で次の作戦が決まる。

 それは良い事だとめだかは思う。何が起きたかは分からないが、最悪二〜三百もの軍人を打ち破った何かと戦うかも知れない。迅速に事を進め、危険であるなら退却した方が良い。

 ましてや戦う力のないめだかにとっては、可能なら今すぐ帰りたいぐらいだ。


「(そのために出来る事は、私も協力しないとね)」


 早く帰るためにも、真相を突き止める。めだかは強く決心する。

 尤も、まさか自分が『島民捜索隊』に加えられるとは、この時のめだかは考えもしていなかったのだが――――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る