不穏な嵐
部屋の中で、めだかの身体はぐわんぐわんと揺れていた。
うたた寝している時の船漕ぎとは違い、全身を前後左右に揺らす動かし方。身体の動きに合わせて首も振り回されており、このままでは痛めてしまうだろう。それが分からぬほどめだかは間抜けではないが、しかし止められないから今身体は揺れ動いている。
いくら天才科学者でも、嵐で揺さぶられる船をぴたりと止める術はないのだ。
「山内一等海士が負傷しました!」
「命に別状がなければそのまま任務に就かせろ! 人手が足りん!」
自室の外の廊下から、自衛隊員達の怒号が聞こえてくる。どうやら隊員が負傷したらしい。しかも怪我をしても医務室に送れないほど大勢が。
それも仕方ない。そう思える程度には、船の揺れは激しかった。むしろ日頃から鍛えている自衛隊員だからこそ、この程度で済んでいると言うべきか。
非力なめだかなど倒れないよう、部屋の壁に寄り添っているのに、それでも気持ちが悪くなっているのだから。壁に枕を置いてクッション代わりにしていなければ、たんこぶも無数に出来ていただろう。
「(この揺れ……いくらなんでも、激し過ぎない……!?)」
船というのは揺れるものだ。
波打つ海面の上に浮かぶからこそ、それは致し方ない事だろう。致し方ないのだが、しかし理由もなく揺れる訳ではない。
恐らく外は今、とんでもない大荒れとなっている。
言葉にすれば簡単だが、めだかが乗っているのは自衛隊が誇る最先端の護衛艦である。民間船よりも様々な面で優れており、荒波の中でバランスを取る能力も高い。今のように、部屋の中でじっとしていても怪我をしかねない揺れ方なんて早々ならない筈だ。
そんな嵐はあり得ない、とまでは言わないが、軍基地さえも音信不通になった島を調べるというこのタイミングで起きた事に少なくない違和感を覚える。何か、想像を超える事態が起きているのではないか……
「綿摘、無事か!」
めだかの中に芽生えた微かな不安は、部屋に入ってきた武彦のお陰でほんの少しだが解消された。
尤も、入ってきた彼の顔が普段以上に強張っていたため、すぐに別の不安が湧き出してきたが。彼はしっかりと救命胴衣を着ており、この船で非常事態が起きていると察せられる。
「え、ええ。でもこれ、何が起きてるの?」
「嵐だ。それも今まで見た事もないようなとびきりの大嵐だな。船がひっくり返りそうだ、比喩でなく」
「そんな凄いのに遭遇するなんて、もしかして逆にラッキーなのかしら」
ジョークを言うような口振りで反応してみるが、めだかの内心は激しく動じていた。素人である自分の感覚など当てにならない、転覆なんて早々するものではない……そう言い聞かせていた気持ちが、プロフェッショナルの言葉により否定されたのだから。
しかし直接言われた以上、逃避してばかりもいられない。
「それで? わざわざ部屋に来たからには、何か言う事、というかやる事があるのよね?」
「話が早くて助かる。さっき言ったように、今この船は何時転覆するか分からないぐらい危険な状態だ。おまけに、原因は不明だが本土との通信も途絶した。すぐ近くの米駆逐艦との連絡は出来たが、その米駆逐艦も米国本土と通信が出来ないらしい。つまりこの護衛艦が故障している訳じゃない、未知の問題が起きているって事だ」
「軍艦すら耐えられない嵐、って事?」
「自衛隊は軍じゃないが……まぁ、細かい話を抜きにすればそうなる。こっちはてんてこ舞いだし、米軍の屈強な兵士すら悲鳴を上げているらしい」
冗談めかして語る武彦であるが、その言葉通りなら状況は極めて不味い。日米の状況が同じという事は、日米同時に転覆する可能性もあるだろう。
もしも両方の船が沈めば、当然片方の船員の救助など出来まい。海に放り出された船員は、そのまま溺れ死ぬ。死に方に良いも悪いもないが、これは特に苦しい死に方だろう。
「だが悪い事ばかりじゃない。目的地の島が見えてきている。そう時間は掛からず到着出来る筈だ」
絶望に心が満たされるが、武彦は希望も語った。
目的の島――――ロードリオン島が見えたらしい。地球というのは球体であるため、
つまり船の高さが分かれば、ロードリオン島までの距離も分かるという事。
この護衛艦の水面からの高さは、測った事がないため不明。しかし船体の半分ほどが海中と考えれば、六メートル程度はあるだろう。その上に人は立っているため、視線の位置は大凡七・五メートルほどか。
ざっと計算すれば、島までの距離は九〜十キロほどとなる。護衛艦の速さを
あとほんの十分耐えれば、少なくとも海の底に沈む未来は避けられる。無論大嵐の中を最大速度で進むのは困難であるため、実際はもっと時間が掛かるだろう。しかし二十分か三十分もあればどうにかなるかも知れない。
「今全力で島に向かっている。だから自暴自棄にはなるな。それと万一に備えて今から甲板近くにある、救命ボートへと向かう。救命胴衣はこれを使え」
「成程。今すぐ着替えろってことね。了解」
言われるがまま、めだかは救命胴衣を着込む。
水に浮かぶための衣服は、それなりの体積があって身体の動きを妨げる。ハッキリ言って着心地は良くないが、状況を考えれば
めだかがしっかり救命胴衣を着込んだのを見届けると、武彦はめだかを誘導しながら部屋から出た。武彦はめだかの横に付き添いながら案内を行う。
まるで老人の介護であるが、激しく揺れ動く船の中を歩くのは、武彦ほど鍛えていないめだかには困難だった。彼の支えがなければ、今頃身体は痣だらけになっていただろう。ありがたいと思うのと同時に、手間を掛けさせて申し訳ないとも思う。
そんな気持ちも、船の外が見える窓際まで辿り着いた時にはすっと消えてしまったが。
「う、うわぁ……」
思わず声が出てしまう。それほどまでに、船の外に広がる海は大荒れだった。
いや、大荒れのように思えた、という方が正確だろう。窓は吹き付けてくる雨に濡れ、外が殆ど見えない状態なのだから。しかしバチバチと窓ガラスを叩く雨音の強さと、昼間にも拘わらず夜のような景色の暗さを前にすれば、嵐の激しさは窺い知れた。
そして時折雨とは違う、波飛沫のようなものが窓を浸す。海面から四メートルは離れた位置なのに掛かるぐらい、波が高いようだ。
「部屋の中じゃ、わわっ、実感、湧かなかったけど……滅茶苦茶な天気ね、わひゃっ!?」
「危ないから喋るな。舌を噛んでも治療する暇はないぞ」
感想を言いたかったが、武彦に黙るよう促される。確かにその通りだと思い、しっかり口を閉じておく。
後はゆっくりとだが、船内を進むだけ。
救命ボートの近くまで来たところで、近くの部屋に入り待機する。そこには既に、めだかと同じく調査のため同行した科学者達がいた。老若男女、というにはやや年老いた男性に偏っているが、様々な者が一同に集まっている。科学者達の傍には、めだかと同じく自衛隊員が一人、護衛のように付き添っていた。
折角船の仲間が集まったのだから、何か話したい。そう思うものの、先程武彦に言われた通り、激しく船が揺れる中で喋ると舌を噛みかねない。不用意な会話を避けるため、誰もが口を開かず沈黙しておく。
会話の一つもないためやたら時間が長く感じられたが……所詮は感覚だ。時間は止まらず、やがてその時は訪れる。
【ロードリオン島、フィリピン軍基地に到達。これより緊急着港を行う。総員、衝撃に備えろ】
艦内に流れたのは、緊張を促す放送。
咄嗟にめだかは傍にいる武彦の腕を掴む。男女の仲ならほんのり顔が赤くなるかもだが、生憎『友達』ぐらいにしか思っていない両者の顔色は分からない。
他の科学者達も取っ手に掴まる、隅っこに寄り添うなど衝撃に備える。間もなく船は大きく、今までとは違う揺れ方をし……今までよりは、幾分揺れ方が静かになった。
【総員待機。指示を待て】
それから次の命令――――待機指示が放送で伝えられる。
これは事前に決めていた作戦通りだ。
今回辿り着いたのは、あくまでもフィリピン軍基地。つまりフィリピンの所有物であり、いくら緊急事態かつ救助活動目的とはいえ日米の『軍隊』が勝手に入り込むのは、下手をせずとも国際問題になる。
しかしロードリオン島のフィリピン軍基地は、一次異変発生から今日まで沈黙を続けている。島に辿り着いても応答がない事は十分あり得る展開であり、またフィリピン軍の基地や艦が沈黙する事態を前にして悠長に許可を得る余裕があるとは考え難い。故に日米政府は事前にフィリピン政府と協議。ロードリオン島の基地については、一定の手続きの下、独自判断による着港が許された。
現在はその一定の手続き……フィリピン政府と友好関係にある米軍が基地内を捜索。自衛隊は基地への連絡及びなんらかの通信がないか確認を行うなど……をしているところなのだろう。
緊急事態なのになんともまどろっこしいようにも思えるが、それだけ軍事基地というのは重要なものなのだ。加えてこの基地は通信が途絶した状態である。もしも危険があれば、それは人命をも脅かすものである可能性が高い。
万全かつ慎重に行動しなければ、日米の救援部隊もフィリピン軍の二の舞いとなるかも知れない。まどろっこしいぐらいが丁度良いだろう。
……それはそれとして、待ち時間は堪らなく暇なのだが。船の揺れが幾分収まった事もあって、沈黙しなければという危機感も薄れていく。
「……それにしても、凄い嵐だったわね」
めだかがぽつりと独りごちたのは、そんな気の緩みから。
「ああ、そうだな。あんな嵐は俺も見た事がない」
その独り言に反応したのは、めだかの近くにいた一人の老翁だった。
彼の名前はめだかも知っている。
愛人が二人いる、等という品のない噂も流れている人物だが、あり得そうだとめだかには思えた。精力的に相手が出来そう、という意味であるが。
学者としても旺盛な人柄で、今もフィールドワークに励み、論文を数多く出しているという。普段なら絡みのない『先輩』と話せる好機。めだかは意気揚々と賢一との会話を始めた。
「……矢張先生がそう言うのでしたら、相当な嵐なのでしょうね」
「ああ。先程窓から見た印象からするに、降水量は一時間当たり百ミリを優に超えている。これはゲリラ豪雨の中でも特に激しい量で、土砂災害や河川の氾濫を警戒すべき水準だ」
「あまり詳しくはないのですが、フィリピンはこの時期、雨季だったと思います。それを考慮しても多い、という事で良いのですよね?」
「その通りだ。フィリピンの八月降水量は五百から六百ミリと言われている。ところがこの雨は、少なくとも三時間は続いている状態だ。月降水量の半分ほどが降ったと考えて良い」
「成程。では、もしもこの豪雨がずっと降っていたとしたら、基地の機能が停止してもおかしくないかも知れませんね」
「ずっとというのは、一次異変からという意味か? それは、現代科学の常識から言えばあり得ん」
めだかの意見に対しばっさりと、否定的な言い方をする賢一。
しかしめだかの考え自体は否定されていない。あくまでこの豪雨がずっと、何日も降るなんて事は、現代の気象学では考えらないと言っている。
何か未知の現象があれば、それも起こり得るかも知れない。どんな天才科学者でも、これだけは否定出来ない『事実』である。
と、言葉にするのは簡単だ。だが事はそう単純ではない。この世には質量保存の法則があり、雨水だって無から湧いているのではない。海水や大地から蒸発した水が、上空で冷えて液体となって降ってくるのが雨である。つまり蒸発という形での『供給』がなければならない。
日本の夏にやってくる台風が、この現象の説明には丁度良い。海にいる間の台風はどんどん巨大化するが、これは海面から蒸発する水分を取り込んでいるためだ。逆に上陸後の台風が勢力を衰えさせるのは、陸地で蒸発する水分は海に比べると少なく、降雨により失う分を補えないため。
要するに水分補給がなければ、雨雲というのはやがて消えるのだ。至極当たり前の話である。未知の現象とやらがどんなものであれ、雨を降り続けさせるにはその分水を供給しなければならない。そのためには一体どれほどのエネルギーが必要になるか……普通に考えれば、極めて馬鹿げた量になるだろう。
しかしこの馬鹿げた事実を、なんらかの方法で無視しているのではないか。
そう思わせるほどに、船を襲う雨は止む気配がない。
「(いや、そもそもそんな雨が降っていたら、島に近付く前から米軍も自衛隊も気付くわね)」
軍隊にとって気象条件は極めて重要な情報である。ましてや今から向かう島は、何が起きたのかも分からない状態だ。天候は間違いなく気にしていた筈であり、もしも巨大な雨雲がずっと立ち込めていたなら、それに関して事前に情報連携ぐらいあるだろう。
だからこの大雨は、自衛隊や米軍にとって予想外の出来事なのだ。
……それはそれで薄気味悪い。これほどの大雨が、なんの予兆もなく出現するものだろうか? 暴風を伴うような気象が、全く予測出来ないなんてあり得るのか。
何か、おかしい。
「なんにせよ今話せる事は殆どない。情報が少な過ぎる」
「……ええ、その通りですね。それに今はもっと、気にすべき事がある」
「ああ、確かにな」
めだかの言葉に、賢一は同意する。
二人の会話に耳を傾けていた、他の科学者達が僅かに緊張した。この雨よりも気にすべき事とは何か。そう言いたげである。
めだかも賢一も話を続けないが、隠すつもりはない。というより隠すまでもない。どうせ誰もが体験するのだから。
【全確認内容が終了。これよりロードリオン島基地に入場を行う】
フィリピン軍基地に降り立つため、嵐の中に身を晒すというとびきりの困難を。
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