――来てしまった。


 七彩ななせは、芙蓉ふようをここに連れてきたことを後悔こうかいした。


 すでに日はしずみ、紫色の空にはきらめく星々ほしぼしかんでいる。


 ここは人気ひとけのない住宅街だ。背の低い家々が無数むすうに並ぶ居住地きょじゅうち。しかし、そこは七彩と芙蓉の二人以外誰もいない、文字もじどおり無人の住宅街だった。


「ここはね、『忘却ぼうきゃく領域りょういき』って言うの。数か月前から誰も住んでない、人間のかない『忘れられた場所』。この椚木くぬぎには、他にも同じような場所が二箇所にかしょある」


「ここに住んでた人たちは?」


「土地をゆずりうけたからしたとか、宝くじがあたってマンションを買ったとか、そういう『奇蹟きせき』が次々に起きて誰もいなくなった。とにかくね、どこも虚像きょぞう天使てんし生産せいさん拠点きょてんになっていることだけは確かだよ」


 二人は誰もいない路地ろじに並んで立っている。「そうなんだ」と相槌あいづちをうった芙蓉の無表情が、そのすぐ後にぴしりと硬直こうちょくした。


「どうしたの?」


 言いながら、七彩は彼と同じ方向を見る。


 二人の現在地からまっすぐに伸びる路地――その十メートルほど先に、剣と盾を持った〈虚像天使〉がのそりと現れた。


「――」


 七彩が絶句ぜっくしたのと、〈虚像天使〉が二人の存在を察知さっちし、けだしたのがほとんど同時だった。われかえった芙蓉が七彩の手首をつかんで走り出す。しかし、石像の天使は人間の二倍ほどもある巨体である。そして、そのスピードは二倍どころではなかった。


 背後にせまる、地響じひびきのような足音。


 アスファルトを蹴立けたて、〈虚像天使〉が道路を爆走ばくそうしていた。


「やば……っ」


 芙蓉が声を上げる。


 振り向くと、すぐ後ろに迫った〈虚像天使〉が大盾を振り上げていた。


「……っ!」


 七彩が意識を集中させ、『奇蹟きせき』を発動した。大盾は芙蓉の真横三メートルの位置に振り下ろされ、アスファルトの路地ろじたたった。


 轟音ごうおん炸裂さくれつする。


 割れた瓦礫がれきが、ものすごい勢いではじけ飛んだ。


 七彩が「きゃあっ!?」と悲鳴を上げる。咄嗟とっさに身をかがめた二人の頭上を、瓦礫がれきがとんでもないスピードで擦過さっかした。それが二人に当たらなかったのは本当にただの幸運だった。


 しかし、直前で敵の攻撃がそれたのは、七彩が二人の存在を『透明化』したからである。透明化と言っても身体がけているわけではなく、〈虚像天使〉に探知されないよう気配けはいした程度に過ぎない。


 石像の天使は一時的に七彩たちを見失っていたが、この近距離きんきょりでは数秒もたたずに居場所がバレてしまう。立ち上がった七彩は、しゃがんだ姿勢しせいで目を見開いていた芙蓉のそでを引っ張った。


「は、はやく……っ」


 彼はすぐに立ち上がり、七彩と一緒に全速力でその場を離脱りだつした。



   *****



 七彩と芙蓉は、放置された住宅の一つに駆け込んで、くついたまま一階のフロアに上がり込んでいた。


 二人はひざに手をついて、ぜえぜえと肩を上下させている。運動がからきしな七彩はともかく、インドア派であまり身体を動かさない芙蓉も負けずおとらずの体力不足だった。


「ふう……」


 芙蓉が息をついて、リビングのソファーに座り込んだ。


「座ってる場合じゃないよ。落ち着いたならすぐに忘却ぼうきゃく領域りょういきを出ないと。今はまだ『奇蹟きせき』でわたしたちの存在を隠せてるけど、ここは敵のテリトリーだから、それもあと五分くらいしかもたないと思う」


 まだ息のあらい七彩が説明した。


「なんで? 僕にお願いがあったんじゃないの?」


 芙蓉が疑問ぎもんを投げかけてくる。


 彼の声は少しだけふるえていた。七彩の手首をつかんだ時も芙蓉の手は震えていたし、今だって自分の腕をつかんでふるえを止めようとしているように見える。当たり前だけど、芙蓉だって怖いんだ。


『普通の高校生には、ちょっと過酷かこくすぎる』


 芙蓉はそう言っていた。やっぱりダメだ、彼には頼めない。


 そもそも、七彩を助けたところで芙蓉にはなんの得もない。これは全部七彩わたしのわがままだ。いくら適性てきせいがあったからと言って、天使との戦闘をただの男子高校生にお願いするのは間違っている。


 真っ暗な部屋で、二人はしばし見つめ合う。ふいに目をらした七彩が、つぶやくようにぽつぽつとしゃべりだした。


「最初は芙蓉に頼もうと思ってた。でも、なんか違うのかなって……」


「どういうこと?」


「これはわたしの問題で、芙蓉には関係ない。虚像天使が出てくるのって、わたしを殺すためでしょ。今はまだ秘密裏ひみつりに倒せているけど、これ以上数が増えたらどうしようもない。わたしが逃げれば逃げるほど、街にどんどん虚像天使が出てくる」


 芙蓉はだまって七彩の言葉を聞いている。


「そうなったら、街の人達はパニックになっちゃう。虚像天使は敵意を向けない限り攻撃してこないけど、わたしを殺すまで行動を続けるし、増え続ける。そうなったら、きっとこの街はおかしくなる。全部わたしのせい。わたしがいると人に迷惑がかかる。本当は気付いてたんだ、わたしはいるだけで迷惑な存在なんだって」


 ああ、ダメだ――


 そう思ったときにはもう遅く、七彩の目からぽろぽろと涙が落ちてきた。


 床にかれたカーペットが、七彩の涙を吸収きゅうしゅうして黒ずんでいく。何度ぬぐっても涙は止まらない。他人をんでおきながら泣き出すとは、なんて最悪な天使だ――そう思いながらも、たどたどしく言葉を続ける。


「さっき、もう少しで芙蓉も死んじゃうとこだった。わたしはヒトが好き。この世界が好き。だから何も傷つけたくない……迷惑めいわくかけるのもイヤなの。だったら、この世界にわたしの居場所いばしょはない。わたしはいちゃいけないんだよ」


 それは解決のしようがないジレンマだった。


 七彩はヒトの世界が好きだが、七彩の存在はそれを傷つけてしまう。その原因は明白だった――白羽しらはね七彩ななせが『不完全で不必要な天使』だからだ。


 残された道は一つだけ。


「わたしはもう、このまま殺されるべきなんだ」


 金色のひとみから、大粒おおつぶの涙があふれていく。七彩には、まだやりたいことも知りたいことも沢山ある。けれど、それはただのわがままだ。セーラー服のそでで何度も涙をぬぐって泣くのを我慢がまんしようと試みたが、それはどうしても止まってくれなかった。


「白羽さん――」


 芙蓉が言いかけたとき、轟音ごうおんひびわたった。


 壁がたたられ、破片が四方八方へと飛び散る。光輪こうりんをぎらつかせた巨大なシルエットが大盾を振りかざし、七彩と芙蓉がいる家屋かおくへと侵入しんにゅうしてきたのだ。突然の出来事に、二人は呆然ぼうぜんとそれを見上げるしかない。


 虚像きょぞう天使てんし


 剣と大盾をかまえた〈ガナン・タイプ〉と呼ばれる灰色の巨人は、明確に七彩だけを見据みすえていた。長剣が振り上げられて、白い刀身がにぶかがやく。


 七彩は覚悟かくごを決めた。


 これで全部が終わる。白羽七彩を排除すれば、敵は目的を失い芙蓉は助かるはずだ。七彩はぎゅっと目をつむった。本当はもっともっと生きていたかったけど――


 そこで、彼女の身体を軽い衝撃しょうげきおそった。


「え……っ?」


 目を開ける。ふりおろされる巨大な剣。倒れゆく自分の身体。そして、必死な表情でこちらに飛び込んできていた芙蓉の姿。


 床が粉砕ふんさいされるはげしい音がした。


 七彩と芙蓉はもつれ合うようにして床を転がる。それはほとんど奇跡的きせきてき回避かいひだった。ほんの少し遅ければ、芙蓉が死んでいた。


「立って!」


 気付けば、立ち上がった芙蓉が七彩の右手首を引っ張っている。


「でも――」


「早くっ!」


 その勢いにされて、七彩は足をもつれさせながら立ち上がった。芙蓉は七彩を引っ張って家の外へと走り出す。その背後で、床から長剣を引き抜いた〈ガナン・タイプ〉がふりかえった。


「……っ!」


 七彩が奇蹟きせきを発動する。


 再び二人の存在が『透明化』し、虚像天使が目標を見失った。しかし、これで二回目だ。一度破られた奇蹟である以上、その効果時間は一回目よりも格段かくだんに短くなる。


 芙蓉は七彩を連れて暗闇くらやみ路地ろじを走っている。彼の手はふるえていた。きっと、今どこに向かって逃げているのかすらわかっていないだろう。


「どうして……」


 七彩が彼の背に声をかけた。


「どうしてそこまでしてくれるの」


 引っ込んでいた涙がまた出てきて、じわりと視界がにじんだ。あの状況じょうきょうで七彩を助けようとするなど、命知らずにもほどがあった。芙蓉だって死ぬのは嫌なはずだ。だというのに、彼は迷わず飛び出してきた。


「普通の高校生には、ちょっと過酷かこくすぎる」


「……え?」


 小さな庭に駆け込んだ芙蓉は、そこで足を止めて七彩をふりかえった。


「白羽さん一人でどうにかするのは大変じゃない? だからなにか手伝いたい」


 それを聞いた七彩が目を丸くした。


「普通の高校生って、わたしのこと……?」


「そうだけど?」


 芙蓉が表情を変えずに七彩を見返す。


 人間でもなく、天使としても不完全な七彩のことを、それでも彼は『普通の高校生』と表現する。この世界に居場所いばしょがないと思っていた七彩は、それだけで少しすくわれた気がした。


 園見そのみ芙蓉ふようは根っからの善人ぜんにんなのだろう。


 少し変わっているけれど、本質的には素直すなおでいい人なのだ。それに、かなりの向こう見ずでもある。そうでなければ、この状況で七彩を助けたいなんて言い出せない。


 でも、そうだとしても、やっぱりダメだ。


 ぜんぶ七彩わたしが悪い。こうして芙蓉を危険にさらしているのも七彩のせいだ。セーラーのそでで涙をぬぐって、ぼやけた視界で周囲を見回す。一刻いっこくも早く、彼をここから避難ひなんさせなければならない。


「芙蓉はわたしを助けようとしてくれる。それはすごく嬉しい。でも、それであなたが死んじゃったら、どうしていいかわかんない」


「白羽さん」


「わたしが言い出したことだけど、やっぱりこんなのダメ。全部わたしのわがままだってわかったから。もういいの、大丈夫。だからお願い、今のうちに――」


「七彩」


 とつぜん名前で呼ばれて、七彩は思わず芙蓉の顔を見返した。


「時間がない。あの白いロボットをして」


「わたしの話、聞いてた?」


「聞いてた。でも、七彩のことは置いていけない」


「なんで……だって、怖くないの……?」


「めちゃくちゃ怖い。ほんとに死ぬかと思った」


 芙蓉は正直にそう言うと、ふるえを止めようとするかのように自分の腕をぎゅっとにぎった。


「だったら――」


「でも、それ以上に、七彩のつらそうな顔は見てられない」


 呆気あっけにとられる七彩から目をらして、芙蓉が言った。


「僕はそんな顔を見るためについてきたわけじゃない。可愛かわいい顔が台無だいなしだ」


 そう言われて、七彩はあわてて顔をそむけた。沢山泣いてしまったから、きっとひどい顔になっていることだろう。こんな状況だというのに、七彩はずかしさで顔が火照ほてるのを止められなかった。


 ぐしぐしと両目をこする七彩を見て、芙蓉が少しだけ微笑ほほえんだ。


「できることはやる。頼まれたからじゃなくて、そうしたくてここにいるんだ。七彩がどう考えてても、どう言ってても関係ない。僕はただ――」


 そこで芙蓉は、赤い光が遠くに見えた気がした。


 狙撃そげき


 弓を持った虚像天使――〈トルカン・タイプ〉の狙撃だ。


 芙蓉がとっさにと手を伸ばし、おどろく七彩を引き寄せる。しかし、赤く輝く光矢が着弾すれば、二人が隠れる家屋もろともみじんに吹き飛ばされてしまうだろう。


 光矢の到達とうたつ一瞬いっしゅんだった。


 爆音と共に家屋がはじける。芙蓉のほほ破片はへんがかすって血がにじんだ。今に大量の瓦礫がれきがばらかれ、衝撃波しょうげきはでもろとも吹き飛ばされる――いや、そうはなっていない。


「……!」


 ふりかえると、そこには純白じゅんぱく騎士きしがいた。


 〈制圧躯体ロゴス〉。


 誰もその名を呼んでいない。しかし、背を向けた巨人は確かに少年と少女を守ったのだ。


 そして、〈ロゴス〉の背中がばくりとれた。それは間違いなく、七彩ではなく芙蓉に向けて開いている。早く乗れ、とでも言わんばかりに。


 ふりむいた芙蓉が言う。


「僕は七彩に死んでほしくない。だから、助ける」


 彼は迷わず純白の騎士に飛び込んだ。

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