4-5

 ――冷たい。


 ゆらゆらと水面がらいでいる。


 芙蓉ふようが戦意を喪失そうしつした時点で、〈ロゴス〉はその姿を消していた。


 制服のまま、芙蓉は水底みなそこへとしずんでいく。


 ――冷たい。


 ぼんやりとした光が差し込んで、揺れる水面が曖昧あいまいな影を水中に落とす。


 どこまでも沈む。


 この水は底なしだった。力を失った芙蓉の身体が、暗い水中へと落ちていく。


 ――冷たい。


 加熱していた頭はすっかり冷めてしまった。


 遠くにぼやけた水面をながめながら、芙蓉はゆっくりと思考をめぐらせる。


『わたしね、ヒトが好きなの』


 そう言って笑った、七彩ななせうれしそうな顔を思い出す。彼女は人間の世界を愛していた。色々なものに興味を持って、様々な場所に芙蓉を連れ回しては、幼い子供のように目をかがやかせていた。


 ――だからだ。


『わたし以外の天使を殺してほしいの』


 天使が増えれば、彼女が大好きな人間の世界が終わってしまう。


 彼女は天使のいる世界を望まなかった。


 ――だからだ。


 天使ベートの作った天使を発生させるシステムも、天使ギメルが進める天の梯子はしごの建造も、どちらも七彩の望まない結末をまねくことになる。


 そして、その原因は芙蓉と一緒にいたことだった。二人がおたがいを求め、好きになるほど、天使は街にあふれていく。つまり彼女は、選ばなければならなかったのだ。


 『芙蓉』か、『世界』か。


「ああ――」


 それは確かに、相談しにくい。どのくらい悩んで、どんな想いで別れを切り出したのか。今となってはもうわからない。


 ――冷たい。


 ギメルを手伝って天の梯子はしごを完成させ、天使たちの力で七彩を探してもらうという手もある。しかしそれでは彼女の覚悟かくご台無だいなしだ。そうやって七彩に会いに行っても、きっと彼女は嬉しくない。


 すでに状況はんでいる。


 ――七彩はもう、帰ってこない。



   *****



 誰かに腕をつかまれ、強く引っ張り上げられる。


 身体が水面へと押し出され、ざばり、と音を立ててプールサイドへと転がされた。


 芙蓉ははげしくせき込んだ。四つんいになり、飲み込んだ水をき出して息をあえがせる。Yシャツとスラックスはびしょれで身体に張り付き、ぽたぽたと水をしたたらせていた。


 雨はいつの間にか止んでいた。


 まだ灰色ではあるものの、午後の空は心なしか明るくなっている。


「……っだぁー!」


 上体を起こして息をととのえている芙蓉のとなりに、水中から飛び出した何かがうつぶせで寝転ねころがる。黒い、人型の何か――


「あぁ~~っ、疲れたぁー!」


 ごろんと仰向あおむけになったそれは、理亜りあだった。


 彼女はウェットスーツのような特殊とくしゅ戦闘服せんとうふくに身を包んでいた。身体のラインにぴったりと沿った黒とグレーのスーツが、彼女の全身をおおっている。水にれたゆたかな曲線が、てらてらと弱々しい光を反射していた。


 おさげにしていただろうこげ茶色の髪は、れてほどけてめちゃくちゃになっている。理亜はうっとうしそうに貼り付いた前髪をけると、芙蓉の方に視線を向けた。


「えへ……私の勝ち~」


 言いながらにへらと笑った彼女は、黒いグローブに包まれた右手を出してVサインを作った。しばらくまたたきをしていた芙蓉は、はっとして〈アーヴィン〉の方に顔を向けた。


 モスグリーンの機体は、プールに両膝りょうひざをついて停止している。


 それはひどい有様だった。


 壊れていない場所を探す方が難しかった。胸部きょうぶ装甲はひしゃげてつぶれ、すでに原型をとどめていない。背中のドアは脱落だつらくしており、操縦室もいびつに変形している。頭部や左腕も破損はそんしていて、かろうじて右腕だけは元の形状を判別はんべつできるレベルだ。


 もはやそれは、スクラップ同然どうぜんだった。


 芙蓉は自分のしでかしたことに気付いて顔を青くする。一歩間違えば確実に理亜を殺していた。せまい操縦室を叩きつぶして肉片に変えていたかもしれないし、シェキナーで肉体ごと蒸発じょうはつさせていたかもしれない。


「ごめんなさい……」


 芙蓉は地面に手をついて、一も二もなく深々と頭を下げた。となりで理亜が起き上がる気配がする。彼女は短く息をつくと、優しい声で芙蓉に声をかけた。


「芙蓉くん、顔上げて」


「でも」


「いいから」


 ばつの悪そうな顔で上体を起こした芙蓉のひたいに、「おりゃ」と理亜がデコピンした。


「いたっ」


生意気なまいきだぞー後輩こうはいのくせにー」


 彼女はそう言って、ひたいを押さえる芙蓉に笑いかけた。


「私、これでもプロの二脚操縦兵なんだぜ。死ぬ覚悟くらいいつでもできてるっちゅーの。子犬にみつかれたくらいで怒ったりはしませんよ」


 胸の下で腕を組んだ彼女が、ボロボロの〈アーヴィン〉に目を向ける。


「それに、きつけたのはこっちだしね。私が好きでやっただけなんだから、芙蓉くんが自分をめることはないよ。まあ、私はしかられるかもだけど……」


 苦笑した理亜が灰色の空をあおぐ。


「怒らないんですか?」


「なにを?」


「自分勝手に行動したこと……的な」


 本来なら、ギメルのところに行く前に理亜にも相談するべきだった。しかし、ギメルの登場があまりにも衝撃的しょうげきてきすぎて、そんなことに気を回す余裕が残っていなかったのだ。


 しかし、芙蓉がそう言うと理亜はおかしそうに笑い出した。


「……?」


「ごめんごめん。なんかやけに物分ものわかりがいいなって思ってさー」


 不思議そうにする芙蓉に、理亜が言う。


「芙蓉くんには、芙蓉くんの生き方がある。自分の人生なんだし、好きなようにやっていいんだよ。それに私が口出しするのはお門違かどちがいでしょ」


 言いながら、理亜が優しげな微笑みを向ける。


「私は、私がそうしたくてここに来た。なんか迷子まいごの子犬みたいでほっとけなくって。とりあえず連れ戻しに来たんだよ」


「僕は子犬ですか」


「そ。しかも、狂暴きょうぼうでわがままな子犬。芙蓉くん頑固がんこそうだし、私も説得とか得意じゃないし……そんでこの子の出番ってわけ」


 にやりと笑った理亜が、親指で〈アーヴィン〉を指し示す。


「とりあえずぶんなぐって連れて帰る。簡単でしょ?」


「バトル脳だ」


「いーだろ別にー」


 ジト目で口をとがらせた理亜は、「それで」と言って話題を変えた。


「どうだったの?」


「どのことですか」


「七彩ちゃんのこと」


 理亜が聞くと、芙蓉は目をらしてプールの水面をながめた。


 ――全知全能の神様みたいに、指先一つで世界を変えられたらいいのに。


 幼稚ようちな願いだ。世界を変える力は、芙蓉にはない。そんなことを思いながら、この二か月間を過ごしてきた。なにをやっても無意味で無駄むだなことだと、だらだらと時間を浪費ろうひした。


 けれど、理亜にさそわれて調査を進めるうちに、希望を持ってしまったのだ。


 七彩に再会できるかもしれない。


 終わった青春を取り戻せるかもしれない。


 エンドロールを巻き戻して、かがやかしい時間を再生できるかもしれない。


「……だめでした」


 芙蓉が言った。


「七彩がいなくなった理由がわかった。それは、僕の力ではどうしようもないことでした」


 そんなつもりはなかったのに、芙蓉の目から涙がこぼれだした。それは当然の結果で、どうしようもないことだとわかっているのに、どういうわけか涙が止まらない。


「……ちょっと……待って、ください……すみません、これはただの汗で――」


 言い終わるのを待たずに、理亜が芙蓉をぎゅっと抱きしめた。


「なにしてるんですか」


「よしよし。芙蓉くんがガチ泣きするなんて、よっぽどくやしかったんだね」


 理亜が言った。彼女の体温があたたかかくてやわらかかったから、芙蓉は余計に涙が止められなくなってしまった。


「そうです。悔しかったんです。やっぱり意味がなかった。なにをしても無駄だった。どんなに頑張ったって七彩には届かない。僕には世界を変える力がない。そんなのわかってるのに……そんなの当たり前なのに……なにもできないのがすごく悔しいし、嫌だ」


 まるで子供が駄々だだをこねているようだと、自分のことながらみっともなく思う。空回からまわって、失敗して、無駄なこととわかっているのにあがき続けて――理亜の目には、芙蓉の行動はずっと滑稽こっけいにうつっていたに違いない。


 腕の中でぐずぐずと泣き続ける芙蓉に、理亜が「でもさ」と声をかけた。


「そういうもんだよ。どうしようもないことなんて、世の中いっぱいあるって」


「イヤなものはイヤです」


頑固がんこだなー。そこはさ、先輩の言葉に感銘かんめいを受けて立ち直るとこじゃん」


 理亜が苦笑した。芙蓉は「そんなの知りません」などと言いながらも、しばらくは彼女の好意に甘えてしまったのだった。

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