第2話 【無】の正体

「はぁ、やっちまった……。気をつけてたんだけどなぁ……」


 あの後、白目を剥いて人には見せられない顔で失神した先生をベッドに寝かせて、逃げるようにアパートに帰って来た。

 一人暮らしなので、冷凍食品の担々麺を温めてさっさと食べて、風呂に入る。身体を洗ってから湯に浸かり、右の腕をさする。

 そこには【無】の文字が。

 そして二の腕の上の方に、さらに文字が続く。

 【無量大数】

 これが俺の本当の経験値量だ。

 小さい頃は【無】の文字だけが浮かび上がっていたため、この事を知っている人は俺以外にはいない。

 無量大数というのが数の単位だと知ったのは中学一年になってからだった。少しずつ浮かび上がってきた文字がようやくはっきりと見えるようになり、疑問に思って調べてみた。

 無量大数。それは10の68乗。

 分かりやすく数字で表すとこんな感じだ。

 100,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000


 これが一無量大数となる。

 最初この事実に気がついた時、それはそれは震えた。億でさえ国宝級なのだ。それをはるかに凌ぐ経験値量である。もはや世界の宝だ。アメリカ大統領よりもVIPな待遇でものすごく贅沢な暮らしが出来るのではないかと期待した。

 しかし、その期待はすぐに潰えることとなる。

 当時中学1年生だった俺には好きな子がいた。肌が白く、細く長い濃紺の髪が綺麗で、読書好きな大人しい子だった。名前は、浜野はまの由良ゆら。小学生の頃は下の名で呼び合う仲だったが、中学生になりクラスが分かれてからは、あまり話さなくなってしまった。

 俺は浅はかにも以下のような妄想をしていた。

 秋の放課後、西日の差す人気のない図書室。図書委員の彼女だけが、茜に染まった図書室でペラリとページを捲る。

 唐突に図書室に入る俺。八冊の純文学を手にして、カウンターへ。一冊ずつ彼女に渡す。

 貸出用パソコンにバーコードで読み取る彼女。そして気が付く。本のタイトルの一文字目を繋げて読むと、『つきが きれい ですね』になっていることを。当然読書好きな彼女は、それが愛の告白だと気が付き、頬を赤く染める。

 しかし、奥手な彼女は気が付かないふりをするのだ。だから俺は本を受け取るときに、彼女の指に少しだけ触れる。するとどうだ。手が触れるだけでは経験値の移行はほんの少しだが、俺はそもそも経験値量が莫大なのだ。0.001%だけ移行したとしても百那由多の経験値が彼女へ行くのだ。そんな量の経験値を受け取った彼女はキュンキュンのキュンになることは間違いはない。

 毎夜毎夜妄想して、何度も都合のいい脳内シミュレーションを行った俺は、とある秋の日についに実行する。

 八冊の本を探し、カウンターへ……

「達哉くん、なんだが久しぶりだね。こういう本読むんだ」

「あ、うん」

「まとめて処理しちゃうね」

「あ、はい」

 早々に作戦は終わった。バーコードが見えるように本を並び替えて、手早く機械に読み取る由良ちゃん。『いきが きれつ ですね』等と意味不明な文章では俺の愛が伝わる訳もない。

「返却は二週間後だよ。読んだら感想、教えてね」

 微笑みながら本を差し出してくる彼女。俺はええいままよ、という気持ちで彼女の指先に触れた。

 この軽率な行動が間違いだったのだ。

 まだ性に目覚めたばかりの年頃の少女に、雪崩の様に押し寄せる経験値の快楽。しかも百那由多という意味のわからない単位で。キュンキュンのキュンで済む訳もない。


「……ぁ……ぁぁ……ぁ……」


「ゆ、由良ちゃん?」


 長い前髪に隠れた瞳が大きく開かれ、ワナワナと震える。しばらくの後、


「♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ファ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ンンンッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡ルルッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡んっフォおおぉぉぉッ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡」

※指先が触れ合っているだけです。


「由良ちゃんっ!? 由良ちゃあああぁぁぁぁん!!」


 途端、白目を剥いてガクガクと震えて叫ぶ由良ちゃん。そのまま失禁して床に崩れ落ちた。

 幸い保健室が近くにあり、まだ保健医が残っていたのか、叫び声を聞いてすぐに駆けつけきた。

 ちなみに俺は咄嗟に本棚の陰に隠れて、担架で運ばれていく由良ちゃんをただ見送った。救急車のサイレンの音か、何時までも耳に残っていた。

 翌日から、由良ちゃんはいなくなった。どうやら転校したらしいとの噂を聞いたが、真実は分からない。

 怖かった。死んでしまったではないかと、俺が殺してしまったのではないかと思い、すごく怖かった。

 もし、俺の経験値のせいで由良ちゃんがああなったとバレたら、一体どうなるのだろうか。怖くて怖くて仕方がなかった。

 その日から俺は二の腕をアームカバーで隠した。しつこく聞いてくる友人たちには【無】の文字だけを見せてやりすごした。そして今日まで、女性に触れないよう、常に手袋をつけて生活している。

 しかし、ついにそれも今日終わってしまった。


「先生、記憶なくしてないかなぁ……」


 どれほどの経験値が先生に渡ったのかは分からないが、気絶するほどの快楽を感じていたのは確かだ。まぁ、少なくとも脈はあったから、死んではいないはずだけど。


「少しずつでもいいから無くなればいいのに、経験値」


 そんなことを願うも、最新の研究で経験値は一晩休めば回復することが判明している。明日になればまた無量大数の経験値に回復してしまうのだ。


「こんなんじゃ、絶対エッチなんて出来ないじゃん……」


 手が触れただけでこれなのだ。エッチなんてした日には、相手の女性を殺してしまうこと間違いない。

 憂鬱になりながら、今日も由良ちゃんが生きていることを願って眠りについた。

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男が経験値な世界で、まるでメタルスライムな俺はどうやって生き抜けばいいんですか? 佐伯凪 @gottiknu

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