第7話 ぼんやりとした空白の広がる胸を抱えながら

 カンナが求める本は、大学生協の購買部には無かった。

 その足でバスに乗って駅前へ戻り、駅ビルの中の大型書店で探したけど、そこにも無かった。検索してみても、その本が存在していた形跡さえ見つからない。

 少し寒さのゆるんだプロイセンの空の下を、国道沿いに40分ほど歩いて全国チェーンの古本屋にも行き、店内を何度もぐるぐると見て回った。

 でもそれも無駄だった。


 大学図書館に戻って、もう一度あの本を見せてもらおう。

 そう考えて、来た道を戻る。

 でも、もしもう持ち主の手に戻ってしまっていたら?

 司書は落とし主の名前を教えてくれるだろうか。


 プロイセンな空は少しずつ薄暗く、風も冷たくなってゆく。

 広い国道は、車がびゅんびゅんと走りすぎるばかりで歩行者の影も無い。割れたアスファルトに枯れ草が生えた歩道を、ぼんやりとした空白の広がる胸を抱えながら歩き続ける。行きも帰りも同じ距離のはずなのに、駅ビルが見えるころにはもう一時間くらい歩いている気がした。ダウンジャケットの下で、体は芯まで冷え始めていた。


 国道が駅前の大通りになり、県立美術館の前を過ぎたあたりから歩く人が増える。バスターミナルの手前でビジネスマンや高校生に混じって信号を待っているとき、道をはさんで斜め前方に口を開けている薄暗いアーケードがカンナの目にとまった。


 それは昔ながらの商店街で、昼でも日が射さず、シャッターを下ろした店も多いので、普段は避けている道だった。

 でもカンナは、春に誰かとふたりでここを通ったとき、小さな書店を見つけて一緒に寄ったことがあるのを覚えていた。


 アーケードの下に入ると風も無く、少し暖かくて、プロイセンも見えなかったけど、駅に近いのに人通りは少なく、スピーカーから流れる明るい音楽がかえってさびしかった。

 花屋、パチンコ屋、空き地、蕎麦屋、空き店舗、カラオケバー、百均、空き店舗……そして本屋。記憶のとおりだ。色のあせた看板に、大きな文字で「小学書林の学習雑誌」というロゴが書かれ、その下に小さな文字で店名が書いてあった。



  『雑誌・書籍 からき書店』



 店内は狭く、石油ストーブの火で暖かかった。棚には文庫本や週刊誌、学習参考書などが並んでいたが、背表紙が日に焼けた本も多く、いくつかの段はブックエンドが置いてあるだけで空っぽだった。

 レジカウンターの中では、長い金髪の、小学生くらいの子どもが、脚立の上に座ってマンガを読みながら店番をしていた。

 肌が白く、片目を隠すほど長い前髪は透き通ったシャンパン色だが、顔立ちは特に異国的ではない。夏物のピンクのワンピースに、白のニット帽をかぶり、小さな顔に不似合いなヘッドフォンで何か聞きながら、カンナが前を通ってもマンガから顔を上げようとしなかった。

 接客としては落第だけど、カンナにはその子が好ましく感じられた。そんなふうに夢中になれるなんて、うらやましいくらいだ。


 棚をひとつひとつ、本を一冊一冊確かめて、あの白い本を探しながらもつい、カンナは時々ふと、その子に目を向けてしまう。


 そして気づく。

 ピンクのワンピースを着たその子の、ボーダーのハイソックスに包まれた、ちょっとはしたなく外股になった膝頭のすぐ先にあるカウンターの上に、白い本が数冊積まれていることに。

 カンナは足を進め、手を伸ばした。



     §



 ――一冊の本との出会いという出来事を、個別の実体を持った「もの」の発見と同じように考えるべきではないないでしょう。英語では、同じ本の一冊一冊のことを指して"copy"と呼ぶわけですが、こと「本」について言うならば、これは「オリジナル」と「コピー」という対立でとらえるような意味での「コピー」ではありません。一冊の本は、それぞれ全てが同一の「コピー」であり、同時に「オリジナル」でもあるからです。(原稿がオリジナルだろう、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、原稿はあくまで「本」ではありません)。そういった意味では、本は、電子化される以前の時代から、多であり一でもある、時空を超えて偏在する存在だったのです。ですから本の他の"copy"に他の場所で出会ったとしても、それは「再会」です。あなたは相手と再び出会ったのです――



     §


 『本を読みたいあなたのための読書入門』 片野加奈


 確かにその本は、図書館で見たのと全く同じだった。

 そのまま差し出すと、店番の子はひどく驚いた顔で、切れ長の目を大きく見開いてまじまじとカンナの顔を見た。ヘッドフォンをしたままなので、カンナが財布を出して買う意志を示すと、子どもはびっくりした目のままうなずいて、不慣れな手付きでレジを打った。「1500」というグリーンの数字が光った。


 紙袋を胸に抱いてアーケードを出たら、すでに空は暗く、長い一日の間ずっとカンナの頭上を覆っていたプロイセンはもう消えていた。

 駅ビルやビジネスホテルの上には、星も月も無く、もはや名前も無い夜の空が広がっていた。

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