第2章 本と出会う

第6話 ランダムに開いただけのページからふと視線を上げると

 読みもしない『プルシアンブルーの庄造と男と女』の、ただランダムに開いただけのベージからふと視線を上げると、縦長の窓枠に切り取られた冬空が見えた。昼になり、わずかにギョウジャニンニクに近づいた気もするけど、もちろんプロイセンに変わりはない。


 帽子と本の山を残したままで、カンナは出口に向かった。

 館内には少し人が増えていたけど、だれもが下を向いてそれぞれの紙や文字を見つめ、カンナには目を向けなかった。

 図書館の裏の、木々と石の壁に囲まれた、湿り気の多い空き地で、コケの生えかけた石のベンチに座ってメロンパンを食べる。

 外の風は冷たく、ダウンジャケットの前を閉じないと座っていられなかった。

 カンナはこぼれたパンくずを膝から払い、メロンパンの袋を畳みながら、空を見上げて白い息を吐いた。



 だれか、わたしをみつけてほしい。



 こんなプロイセンな空の下で、わたしはひとりだ。だれとも分かりあえない。本の世界に逃げることさえできない。

 いつどこで間違ったのか、どうすればよかったのか、彼女にはわからなかった。


 再びドアを開け、ホールからアーチをくぐって閲覧室に入ったとき、なにか真っ白なものが、カンナの視界の隅に見えた。

 それはハードカバーの小さな本だった。新着図書の棚に、表紙をこちらに向けて置かれていた。

 少しざらっとした白一色のカバーには、明朝体の黒い字でタイトルと著者名だけが印刷されていた。



 『本を読みたいあなたのための読書入門』 片野加奈



 当たり前みたいな、矛盾みたいなタイトルだけど、カンナにはその本が自分のために置かれているように思えた。

 手に取り、最初のページを開く。



     §



   目次


  はじめに

  第一章 空の名

  第二章 本と出会う

  第三章 

   …


     §



 

 反射的に、カンナはいったん本を閉じた。


 期待しちゃだめだ、たぶんの「空の名」じゃない。きっとちがう。


「空の名」という表現そのものはそこまで珍しくない。今までにも何度か、本の中で目にして胸がときめいたことがあった。でもすべて、カンナが思うのとは別の意味、別の用法だった。

 呼吸を整えてから、もう少し先のページを開いてみる。



     §



 ――を読む前に、あなたの中のことばの網を、活性化し、開かれたものにしておくために、簡単なトレーニングをしましょう。毎日の空に、名前をつけるのです。空はわたしたちの視界に常にありながら、日常の言葉から遠く離れ、かつ日々異なっています。網のパターンが重なり、あなたの五感のスクリーンに写った空が、文字列としての単語と分かち難く結びつく、その瞬間を捕まえるのです。そしてノートに記録しましょう。この「空のノート」から、あなただけの言葉の宇宙が広がり始めるでしょう。くわしくは、次章で――



     §



 鼓動がさらに少し早く、強くなった気がする。嬉しくて、怖くて、自分でも分からない気持ちが胸からあふれそうだった。

 今まで誰にも分かってもらえなかったことが、この本にははっきりと言葉にして書かれている。

 それだけじゃない。この本は、この片野加奈という人は、さらにその先のことまで語っていた。


 空のノート。


 カンナは今まで、空の名を書き留めたりはしてこなかった。なにか良くない、恥ずかしいことのような気がして、数千もの空の名を、川に流すみたいに忘れ去るに任せていた。

 でも片野加奈は、そこから新しい世界が広がるのだと言う。


 新しい世界は、ここから始まるんだ。わたしの外じゃなくて、内側から。


 カンナは本を胸に抱きしめるようにしてカウンターへ持って行き、貸し出しの手続きを取ろうとした。

 しかし白髪混じりの男の司書は、不思議そうな顔で本を裏返し、首を傾げながらコンピュータのキーを叩いた。


「この本は、どこにありましたか?」

「え? あの、新着図書の台に……」

「うちの蔵書じゃないね。だれかの忘れ物でしょう。ほら、シールも蔵書印も無い」


 男は椅子をくるっと回して振り返ると、背後の棚に置かれた忘れ物のかごの中に本を入れた。


「あっ……」

「何か?」

「あの、わたし、その本、読みたいんですけど……」

「でも君の本じゃないんだよね? 持ち主が探してるかもしれないし、貸すわけにはいかないですよ。うちの蔵書には無いし、読みたければ書店か公立図書館で探してごらん。生協の購買にあるかもしれない」

「……じゃあ、奥付おくづけだけ、見ていいですか?」


 奥付、という単語を聞いて司書はちょっとだけ表情をゆるめ、片手でひょいと本を取ってカンナに渡してくれた。


 焦りと緊張でうまく動かない手で、カンナは巻末の奥付のページを探した。

 でもそこには、出版社名も発行年月日もなかった。ただこう書いてあるだけだった。



  ───────────────

  本を読みたいあなたのための読書入門

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  著者 片野加奈カタノ カナ


  だれか

       わたしを

          みつけて

    おねがい

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   無断転載、複製などの行為を固く禁じます。

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