第5話 彼と会うことを目的に服を着て、家を出て

「連休中も会えないかな」


 そうナオトに言われたのは、大型連休の前日、学生会館前のベンチで話していた時だった。ナオトはカンナの顔を見ず、PET蒸着ワリサンドな空の方を向いていた。


 彼がそう言ってくるだろうことは、少し前から予想していた。言われれば「うん。いいよ。いつがいい?」と答えるつもりだった。あっちが言い出しにくいようなら、自分から言った方がいいのかな、とさえ思っていた。


 だけど、実際にナオトの口からそう言われると急に気が重くなった。

 彼と会うことを目的に服を着て、家を出て待ち合わせ場所に行くというのは、授業で顔を合わせるのとは意味が違う。

 答えるのが少し怖くて、ためらっている数秒間のうちに、ナオトが先に口を開いた。


「無理なら、別にいいけど?」


 わたしまだ何も言ってないのに、とカンナは思った。 


 彼の声は明らかに不機嫌で、卑屈な苛立いらだちが含まれていた。カンナが用意していた答えは、その瞬間にどこかに消えてしまっていた。


「ごめん、わたし、連休は実家に帰らなきゃいけないんだ」


 それは咄嗟とっさの嘘だった。だますつもりは無かった。ただその場の緊張から逃げたかっただけだった。


「そっか、じゃあしょうがないね」


 ナオトもほっとしたように見えたけれど、カンナの胸には苦いものが残った。

 その日はいつもどおりに駅前のマックで本の話をしたあと普通に別れて、PET蒸着ワリサンドが薄れてゆく春の夕空の下を部屋へ帰った。


 それから一週間近く、思いつきでついた嘘のために、カンナの連休は不自由なものになった。

 ひょっとして偶然梶本くんと会ってしまうかもしれない。共通の知り合いに見られてしまうかもしれない。

 そう思うとあまり外出する気になれず、気晴らしに本を持って郊外のカフェに行ってみたけど、人目が気になってすぐに帰ってきてしまった。結局カンナは、必要最低限の買い物以外はほとんど部屋から出ず、大半の時間をベッドで本や動画を見て過ごした。

 こんなことなら、変に意識しないで梶本くんと出かければよかったとカンナは後悔した。

 ナオトからは、最初の二日間は何度かメッセージが来たけど、三日目からは途絶えてしまった。


 休みが明けて、最初のフランス語の授業の後、ナオトが話しかけてきた。


「平野さん」

「梶本くん、久しぶり」

「連休中は、どうだった?」

「うん、最初の日は『卵黄テンペラ』でしょ、それから『やけののきぎす』。次は『タンガニーカ』で……」


 いつものように興味を持ってもらえると思って空の名を並べ始めたカンナを、ナオトはさえぎった。


「もういいよ、それは。またそうやってはぐらかすの?」

「はぐらかす?」


 カンナは心の底からびっくりした。ナオトか自分か、どちらかが「はぐらかす」という動詞の意味を間違っているんだと思った。


「平野さん、公園バイパスのステラカフェにいたよね。連休の二日目にさ」


 いつの間にか、午後の教室には二人だけになっていた。ナオトはナオトじゃないみたいな顔で、じっとカンナを見つめていた。


「見間違いじゃないよ。平野さんがよく着てる、オリーブグリーンのチェックのスカートだった」

「あー……」

「靴は白いスニーカーで、髪は黒いヘアゴムでポニテにしてて、『アライグマたちのカーニバル』っていう本を読んでた。飲んでたのはキャラメルラテだよね?」

「どうして、声かけてくれなかったの?」

「かけれないよ。平野さんが僕を避けてるの、知ってるのに」

「ごめん。でもわたしも、誰ともしゃべれなくて、空の名前も聞いてもらえなくて、やっぱり梶本くんと……」


 ナオトは激しい痛みをこらえるような顔をした。


「言いにくいけど、その平野さんの『空の名』って、『わたしはちょっと変わった子です』ってアピールに聞こえる。そういう部分あるよね? 正直、いつまで続けるのかな、って思ってた」

「……ごめん」


 もうだめだった、何もかもが。目の前にいるのはもう、カンナの友達の「梶本くん」じゃなかった。そんな人は最初からいなかったのだ。


「わたし、帰るね。全部わたしが悪かった。最初からわたしが間違ってた。ごめん」


 立ち上がったカンナの手首を、ナオトがぐっとつかんで引っぱった。


「痛い。やめて」

「待ってよ、僕は……僕は平野さんのことが好きなんだ」

「ちがうよ梶本くん。それはただ、わたしが女の子の形をしてるからだよ。女の子の形で、物理的に隣にいたからだよ」


 腕に思いっきり力を込めて手を振りほどき、カンナは後ろを見ずに教室を出て行った。

 校舎の外では、異常蛋白質応答な空が、世界の上に覆いかぶさっていた。すべてを支配するその半球形の言葉のドームの中を、胸と口を押さえながら歩き続けた。肩と手首がずきずきと痛み、頬に涙が落ちた。


 カンナが授業に出ることも、本を読むこともできなくなったのは、その時からだった。

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