第3章 本との対話
第8話 空気の冷たさがガラスからしんしんと伝わって
手さぐりで眼鏡をかけ、カーテンの端をつまんで少し引くと、パホイホイ溶岩な空は晴れていて、空気の冷たさがガラスからしんしんと伝わってきた。
枕元から、昨夜数か月ぶりの読書の歓びを与えてくれた白い本を取り、部屋が暖まるまでシーツの中でぱらぱらと読み返す。
この本が教えてくれた「空のノート」の書き方と、それによる本の選び方を、カンナは今日から実践してみるつもりだった。
新しい日々が始まる気がする。「図書委員」に戻るだけかもしれないけど、それでも。
久しぶりにオリーブグリーンのチェックのロングスカートを選び、厚手のタイツとセーターとダウンジャケットを着込んで、パホイホイ溶岩な空の下に出る。
がらがらのバスに最初に乗ってきたのは、今朝もあの男の子だった。白い肌に映えるネイビーブルーのコートとグリーンのマフラー、それに大きなヘッドフォンをつけた男の子は、カンナの顔を真っすぐ見ながら、通路をすたすたと歩いて来た。
カンナはびくっとして視線をそらした。
子どもは彼女の右側、通路を挟んで隣に座った。
バスが走り出す。
窓の外のパホイホイ溶岩に目を向けていても、右からの視線を痛いくらい感じる。
顔や体に視線をちらちらと感じるのは、日々の暮らしの中で避けようのないことだし、この子の視線は前にも感じたことがあった。でも今日はそれとは違う。
ちらちらじゃなく、横顔や、膝の上で白い本を持った手を、じっと見られているのがはっきり分かるのだ。
怖いというほどではなくても、それなりに成長した男の子だし、居心地はよくなかった。
帽子をかぶってくればよかった、とカンナは後悔した。それかフードのついた服か。
駅前に着くと男の子は、とんとんと小走りで降車口へ向かった。
カンナはほっとして顔を上げた。
同時に、ドアの手前で突然振り返った彼の、白い紙に筆ですっと描いたような涼やかな目と視線がぶつかった。
彼の目には表情みたいなものがあった。たまたま視線の先に女の子がいたから眺めているというのではなく、彼女自身を、平野カンナを見つめている目だった。
ちょっとだけ、笑ったように見えた。
この子、だれ?
でもそれは一瞬のことだった。男の子は降りて行き、入れ替わりに乗ってきたスーツの男はカンナの顔とセーターの胸にちらっと目を向け、すぐに紳士的に目をそらした。
大学前で降りると、白い本を抱いたカンナは、どこまでも流れて広がるパホイホイ溶岩の下を早足で図書館に向かい、右端のアーチをくぐって閲覧室の大机の端に場所を取った。
ダウンジャケットを脱ぎ、本とバッグを置いて、真新しいノートを開く。
まずページの両端に昨日と今日の空の名を書き、それからひとつずつ考えながら、連想による言葉で二つの間をつないでいく。
【プロイセン】→
ドイツ帝国→
神聖ローマ帝国→
ローマ帝国→
五賢帝→
トラヤヌス→
虎屋→
羊羹→
【パホイホイ溶岩】
これらの言葉が、書棚の森へ分け入って行くための導きになる。それが、「本を読みたいあなたのための読書入門」が教える、本との出会い方だった。
§
――昨日と今日の間をつなぐ「夜の名」たち。とりとめのない言葉の並びに過ぎないように見えます。しかしそれは、あなただけの言葉のネットワークによって、世界の地下を通って今日と明日を結ぶ、あなたひとりのための秘密の通路なのです。そしてそこから世界の様々な事象へとつながる、あなただけのための回路が開かれます。夜の論理は夢の論理です。昼の論理や物理的事実による隔たりは、そこでは意味を持ちません――
§
まずドイツ帝国と神聖ローマ帝国に関する本を探してみる。しかし昨日も見た「234 ドイツ・中欧史」の棚は、誰かが論文でも書いているのか、がらがらになっていた。
そのすぐ横の「232 ローマ史」も、やはりからっぽだった。もちろん五賢帝に関する本も無い。
じゃあ羊羹は? 溶岩は?
596 食品・料理、
588 食品工業、
450 地球科学・地学の各分野、
どこにもない。日本語検定や、洋館や陽関や
何が起こってるの?
新しいことが始まるって、期待はしてたけど……。
戸惑いながら、席に置いてきた白い本を頼るような気持ちで、来た道を逆にたどる。「989 その他のスラヴ文学」の角を曲がると視界が開け、閲覧席が見えた。
そのときカンナは、はじめてそのひとの姿を見た。
誰もいない大机の、カンナがダウンジャケットや白い本を置いて確保していた席の真向かいに、そのひとは座っていた。
初めて開かれたページのようにしわのない白いブラウスと、布クロス張りの表紙のようにぴんとした、ネイビーブルーのジャケットとタイトスカート。そして平織りの
きれいなひと……。
カンナの心の声が聞こえたみたいに、そのひとは顔を上げ、積み重ねられた本の塔の間から、活版インキのように黒々とした瞳をカンナに向けた。
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