七章ー1 発情



 ユーフェの元婚約者の登場に、剛樹は冷や汗をかいて、ユーフェの後ろにそっと移動し、気配を限りなく薄くした。

(俺のコミュ力で、対処できるわけないだろ!)

 心の中で、誰にともなく言い訳をする。

 幸い、シエナはユーフェしか眼中にないようなので、剛樹はシエナを観察した。

(確かに、他の銀狼族の女性に比べれば小柄かもな。子どもと大人の区別もつかないんだけど)

 背丈と体格で判断できるほど、剛樹は銀狼族に会っていない。シエナは小柄といっても、剛樹よりも身長がある。それでも、ユーフェのような背が低い銀狼族の男と並ぶと、ほど良い身長差だ。

(人形みたいな人だな)

 銀毛はつやつやしていて、銀というより、雪原を思わせるような白に近い。人工物めいて見えさせるのは、その大きな目だ。瞳は茶に緑が混じるはしばみ色をしていて、神秘的だった。

 剛樹は二人がどういう経緯で婚約していたのか知らない。なんとなく王家と貴族による政略に思えたが、恋愛かもしれない。

(恋愛か……)

 なぜだか剛樹の胸は痛みを覚えた。理解できない自分の心の動きに首をひねりながら、恐る恐るユーフェの様子を見る。激しく傷つくほど元婚約者を想っていたのだから、こうしてすがりつかれれば喜ぶかもしれないと思ったが、ユーフェの横顔は渋面そのものだった。

「シエナ……いや、グラント嬢。パーティーに来ていたのか」

「ええ。あのことで、王太子殿下にはひどく嫌われましたが、あなたはこういった行事にしか顔を出しません。恥をしのんで参加いたしました。ずっと様子を見ていましたら、お帰りになるようでしたので、追いかけて参りましたの」

 シエナは意を決した様子で切り出す。

「無礼を承知で申し上げます。ユーフェ様、わたくしともう一度、婚約してくださいませ!」

 ユーフェは勢いにのまれた様子で、ぐっと喉を鳴らした。しばらく沈黙し、口を開く。

「グラント嬢、私は」

「ユーフェさん」

 なぜだか剛樹はユーフェの答えを聞きたくなくて、無遠慮にも会話に横入りした。シエナが眉を寄せる。

「まあっ、なんて無礼なの。従者の分際で、王子殿下の会話を邪魔するなんて。それに、お呼びするならば様をつけなくては」

 シエナはそれが至極当然という態度で注意をした。彼女が叱るのも分かっていてしたことだ。

「シエナ、彼は従者ではない。そもそも国賓で……」

 ユーフェは不愉快そうに正そうとしたが、剛樹が止める。

「いいんです、ユーフェ様。すみませんでした、グラント様。あまりにプライベートな内容ですから、俺がここで聞いているのは良くないことだと思ったんです。ユーフェ様、お先に失礼しても構いませんか」

「モリオン、私はお前に様で呼ばれるつもりは」

「ユーフェ様」

 珍しく剛樹がはっきりとした口調を使ったので、ユーフェは話しかけた言葉を止めた。

「こんな廊下で話すことではないと思います。それに、俺はこんなことで、ユーフェ様が変な噂の的になるのは嫌ですから……今後のためにも、きちんと話し合ったほうがいいんじゃないでしょうか」

 ユーフェにとっては嫌なことを言っている自覚はあった。ユーフェは数秒黙りこんだ後、渋々という態度でシエナのほうを見る。

「ラウンジで良ければ話すとしよう」

「ありがとうございます!」

「モリオンを送ってから行くから、先に……」

 ユーフェが剛樹を気遣うので、さすがに呆れた。

「ユーフェ様、一人で戻れますよ。では、失礼しました」

「モリオン、人気の無い所に行くのではないぞ」

「分かってます」

 ユーフェの保護者な発言に苦笑しながら、剛樹はぺこりと会釈をして、早足で立ち去った。


     ◆


 ユーフェは剛樹が立ち去るのを見送ると、シエナとともに客用ラウンジのほうへ移動する。

 王宮のパーティーホールには、入り口から入ってすぐの場所に、客用ラウンジがある。早く到着した客が時間をつぶせるようなカフェスペースで、招待状を見せれば、無料で飲み物を頼めるのだ。普段は有料で開放しており、城への客や城勤めの者が使っている。

 休憩室やパウダールームのある廊下を通り抜けながら、ユーフェは先ほどの剛樹のことを思い出した。

 剛樹は気まずそうにして、どこか焦った様子で先に戻ると切り出した。繊細な性格のせいで、気遣いをして疲弊しやすい彼のことだ。元婚約者が現れたので、対応に困ったのだろう。

(私としては、傍にいてほしかったが……)

 人目のある場所とはいえ、元婚約者と二人きりになるのは外聞が悪い。

「あの……」

 後ろからシエナに呼び止められ、ユーフェはハッと我に返る。

 振り返ると、だいぶ離れた位置で、シエナが困った顔をしていた。それでユーフェは考え事をするうちに早歩きになり、シエナを置き去りにしたと気付く。

(昔はこういったところがかわいかったものだが)

 傷心を乗り越えた今では、シエナの様子にいら立ちが湧いた。

「先に行っている」

 気遣われるのが当たり前だと思っている、甘やかされた貴族の女。今のユーフェの目には、傲慢なものにしか見えない。

 ユーフェは気にとめずに言って、客用ラウンジに向かった。

 そこには紺色のソファとローテーブルが数セット並んでおり、奥には飲み物を用意するためのキッチンカウンターがあった。パーティーが始まってまだ間もないため、給仕である銀狼族の男一人以外に人影はない。

 ユーフェはわざと人目につきやすい位置のソファを選び、給仕に茶を注文する。遅れてたどりついたシエナはぜいはあと荒い呼吸をして、恨みがましげにユーフェをにらんだ。

「ひどいですわ。わざとわたくしに意地悪なさっているのでしょう?」

「違うな。君にかけていた気遣いがなくなっただけだ。率直に言う。私は君と再び縁を結ぶつもりはない」

 座るようにと手ぶりで示すと、シエナはお辞儀をしてから着席する。大きな目を、うるっとうるませた。

「わたくしのお話を聞いてくださるつもりは、まったくありませんのね」

 給仕が運んできたお茶を飲み、シエナはカップをソーサーに戻そうとして、ガチャンと行儀の悪い音を立てた。指先が震えているので、表面上は落ち着いて見えて、動揺しているらしい。

「君が問題を起こしたあの後なら、まだ聞く耳はあっただろうな」

 遠回しに、今は全くないと告げて、ユーフェもお茶に手を伸ばす。当時あびせられた苦痛を思い出すだけで、いまだに胸の奥が重くなる。考えなおしてほしいとすがりついたユーフェを、シエナは冷たく突き放した。

「君はよりによって、兄上に惚れたではないか。私が兄上達と比較されるのを、心から嫌悪しているのを知っていたくせに」

「あなたも銀狼族ならば、恋に落ちた時はどうしようもないのだとご存知のはずですわ」

「ああ、知っている。そして、あの時、君はすっかり恋で目をくもらせた態度で、婚約破棄をしても後悔しないと宣言していた。私の元に戻ることは二度とないと、はっきり言った」

 ユーフェはふんと鼻を鳴らす。

「心変わりした理由はなんだ? 金か? 名誉か?」

 シエナの震えは、分かりやすく大きくなっていた。ぽろぽろと涙をこぼす。

「わたくしは社交界で孤立して、結婚も危ぶまれています。わたくしに、年老いた男の後妻におさまれとおっしゃるの? 一度、婚約したことに免じて、助けてくださいませ!」

 シエナはソファを立ち上がり、突然、ユーフェに抱きついた。

「何!? おい、離れぬか!」

 驚きと嫌悪で、ユーフェの全身の毛が逆立つ。シエナは死にもの狂いの必死さでしがみついており、引き離すのは容易ではない。それに加えて、シエナの首筋から甘い香りが鼻をついた。

(これは……!)

 まずいと踏んで、ユーフェは遠慮せずにシエナを突き飛ばす。

「きゃあっ」

 シエナは無様に床に転がった。

 ユーフェは鼻を右手で覆い、シエナから距離をとる。

「貴様、誘引の香水をつけて、こんなに大勢の客がいる場所に来たのか! どうかしている!」

 ユーフェの言葉が聞こえたようで、給仕の男は顔色を変えて距離をとった。

「君、このことを伝えて、衛兵を呼んでくれ。ホールの入り口にいるはずだ」

「はい! ただちに!」

 給仕が慌てるのは当たり前だ。

 この世界の獣人や人族は吉祥花から生まれるが、獣人には発情期がある。たいていは冬に入る前の一週間程度だ。その時はフェロモンを出して、他の者を惹きつけるため、事故を起こさないように、ほとんどは家にこもって過ごす。

 誘引の香水というのは、フェロモンの性質を利用した香水で、発情期を無理矢理引き起こすものだ。違法薬物ではないが、たいていは吉祥花に子どもを望む夫婦が使うものだ。こんなに多くの獣人がいる場所につけてくるようなものではないし、そんなことをすれば処罰対象になる。

 ユーフェは早鐘のように鳴り始めた心臓を意識して険しい顔をし、シエナをにらむ。

「王子にこんな真似をして、ただで済むとは思わないことだ」

「どうしてですか! ここまでしても、わたくしの気持ちを分かってくださらないなんて! あんまりだわ」

 シエナはわっと泣き出した。

「殿下、ご無事ですか?」

 鼻から下を布で覆った衛兵二人が現れ、シエナを取り押さえる。

「ああ。すぐに宮に戻れば問題ない」

 ユーフェは上着をはたいて、香水のにおいをできるだけ落とそうと努力する。

「グラント嬢、以前の私の気持ちを、やっと理解できたようだな。もう何もかも、手遅れだ。私はもう君には興味がないから、こんな真似しかできぬ君の浅ましさに、憐れみしか覚えぬよ」

 自分勝手なところも、昔はかわいいわがままに見えていた。恋は盲目とはよく言うものだ。

(彼女と婚約破棄になって、むしろ良かったのかもしれない)

 ずっと引きずっていた過去の情に、唐突な幕切れがやってきた。

「連れていけ」

「はっ」

 ユーフェが冷たい声で告げると、衛兵はシエナを強引に連れていく。行先は王宮にある、貴族用の牢だ。

「ユーフェ様、どうかお願いします、助けてくださいませ! ユーフェ様!」

 シエナの悲鳴が遠ざかっていくのをよそに、ユーフェは自分の離宮へと急ぎ戻った。


     ◆


「モリオン様、まさかお一人でのお戻りですか?」

 離宮に戻ってきた剛樹を出迎えた執事は、周りを探す仕草をして、驚きに目を丸くした。

「殿下はどうなさったんですか」

「大事なお話があるみたいなので、先に戻ってきました」

「そうなのですか。もしお腹が空いているなら、軽食をお出ししましょうか」

 剛樹とともに部屋に向かいながら、執事は問いかける。剛樹がパーティーに気後れして何も食べられないと予想したのかもしれない。

「いえ、ラズリアプラムのデザートを食べたので、お腹がいっぱいです。でも、お気遣いはうれしいので……ありがとう」

 だんだんと声が小さくなっていったが、執事には聞き取れたようで微笑みを浮かべる。

「滅相もございません。楽しめたようで何よりです。使用人を呼びますので、着替えてお風呂に入ってください。ずいぶんお疲れのようですよ」

「ああいった場は苦手なので……。早く塔に帰りたいです」

「まあまあ、そんな寂しいことはおっしゃらないでください。モリオン様がいらして、私はうれしいのですよ」

 剛樹はきょとんと執事を見上げる。

「俺が来て、うれしいんですか? その……世話する人が増えたら、普通は面倒じゃないですか?」

「ユーフェ様のお客様ですよ。うれしいに決まっているでしょう! あの方は前の婚約者との件以来、塔に引きこもって、誰も寄せつけませんでしたから。外に出るようになり、人付き合いを再開した。こんなに喜ばしいことがあるでしょうか」

 執事は剛樹がユーフェに良い変化をもたらしたと信じているようだ。

「私はユーフェ様が幼い頃からお仕えしておりますので、僭越ながら家族のように思っているのです。あの方が少しでも元気になってくれて、本当に良かった」

「それは……俺も良かったと思いますけど」

 それと剛樹はあまり関係ない気がする。

「きっと時間が解決していましたよ」

「そんなことはありません! あなたと一緒にいらっしゃる殿下は、心穏やかですから」

 執事はそう言いながら、剛樹を風呂場へと案内する。

「それにしても、ユーフェ様には困ったものですね。どうせ兄君がたに捕まってるんでしょう?」

「いえ、前の婚約者の人です」

「……は?」

 執事は本音をあらわにし、それを恥じ入るように咳払いをする。

「ゴホンッ。はは、すみません。なんだか思わぬ言葉が聞こえて……」

「聞き間違いじゃないですよ。前の婚約者の人が、ユーフェさんと話をしたいと言っていて……。俺は先に帰らせてもらいました」

「なぜですっ?」

 執事がすっとんきょうな声を上げたので、剛樹は後ろに飛びのいた。執事はあたふたと謝る。

「あ、申し訳ありません、驚かせてしまいまして。どうしてモリオン様は止めなかったんですか? というか、あの女……、いえ、あのご令嬢はどんな用件で? ああ、嫌な予感がします」

「ユーフェ様にもう一度婚約してほしいと話していましたよ」

「ええっ、なんて恥知らずな!」

 執事の毛が派手に逆立った。分かりやすい怒り方だ。執事は落ち着きなく、部屋の中をぐるぐると歩き始める。剛樹は邪魔にならないように、さらに一歩下がった。

「ええと、恥知らずなことになるんですか? ユーフェさんがあの女性を好きなら、それでいいんじゃ?」

 好きと言ってみると、なんだか胸がひどくざわつく。剛樹はけげんに思いながら執事に問う。

「シエナ嬢は、婚約破棄しても後悔しないとはっきり宣言していたんです。ただの恋愛ではないんですよ。これは王家と貴族家の間の約束事でもありますから。だというのに、それを反故にして最接近したのなら、ルール違反です。もしご家族に見つかったら、即刻、王宮の外につまみ出されていたはずですよ」

 それほどのこととは思いもしなかった剛樹はうろたえた。

「俺、先に帰ったのはまずかったですか?」

「いえ、あなたは悪くありませんよ。殿下が気にするべきです。はあ、あんなに分かりやすいのに、まさか気づいてないんでしょうか」

 執事はぶつぶつとつぶやいて、ぱたりと歩みを止める。こちらの様子をうかがってきた。

「モリオン様、殿下と元婚約者をご覧になって、どう思われました?」

「え? ええと……お似合いだと思います」

 思わず足元を見つめ、声が小さくなった。

「私は不釣り合いと思いますがね。実際のところは?」

 どうしてこの執事は、剛樹に詰め寄るのだろうか。嘘をとがめられていると思った剛樹は、冷や汗を浮かべて返す。

「じ、実は、二人が元の鞘に落ち着くのを見るのが、なんだか嫌で……」

「嫌なんですか!」

 執事の声はうれしそうで、明るいものだった。剛樹は目を白黒させる。

(悪口の同意を得てうれしい、みたいな……?)

 よく分からないが、執事はシエナの登場を喜んでいないことだけは理解した。

「そうですか、そうですよね。きっと殿下も不機嫌になってお戻りになるでしょうから、後で夜食でもお持ちして、お疲れを癒してさしあげてください」

「はあ」

 今度はにこにこし始めた執事を、剛樹は戸惑いとともに見つめる。彼の尻尾ときたら、ブンブンと大きく揺れていて、喜びを隠しもしていない。

(そんなにうれしいのかな?)

 やっぱりよく分からない反応だ。

「おっと、いけない。お風呂でしたね。殿下のほうには、使用人を迎えに出しましょう。安心してください」

「え? は、はい」

 執事は剛樹を風呂場に案内すると、使用人を呼ぶために、すぐに出て行った。

 剛樹は自分で衣装をぬぐと、さっそく風呂に入る。

(ユーフェさん、あの人と結婚するのかな……)

 顎まで湯につかりながら思い浮かべると、なんだか胸の辺りがもやもやする。

(デザートを食べすぎたかな?)

 胃の辺りをさすって、剛樹は首を傾げた。


     ◆



 風呂から出ると、剛樹はタオルで髪の水気をぬぐいながら、客室の居間に出てきた。

 執事は世話を焼きたがったが、自分でするからと断ったのだ。他人に世話をされるのは、今日の朝だけでお腹いっぱいである。

 テーブルには水差しとグラスのセットが置いてあるので、剛樹は水を飲んで一息ついた。ふわっとあくびが出る。

(うーん、さすがに疲れた)

 慣れない場所で緊張しっぱなしだったのだから、体力面でも精神面でも負荷がかかっていた。もう寝てしまおうかと寝室に向かおうとしたところで、廊下が騒がしくなった。使用人と話している声を拾い、剛樹は扉のほうへ向かう。

(ユーフェさん、帰ってきたのか)

 そういえば執事が夜食を持っていくことを提案していたなと思い出し、廊下に出る。

 ユーフェの部屋の扉が閉まり、執事が速足で立ち去るのが見えた。

「ユーフェさん、入ってもいいですか?」

 どうせならば就寝前のあいさつをしてから休もうと思い、剛樹はユーフェの部屋の扉をノックする。

「モリオン、だめだ。自分の部屋に帰れ」

 剛樹はいつになく硬いユーフェの声に驚いた。

 だが、剛樹は言われた通りにしなかった。ユーフェの声が苦しげだったせいだ。

「ユーフェさん、どうしたんですか。体調でも悪いんですか?」

「私に構わないでくれ!」

 激しい口調で拒絶され、剛樹は震えた。心臓が凍りつくような心地がする。

 どうしてユーフェが怒るのか分からない。

 知らないうちに、剛樹は何か悪いことをしたのだろうか。

「あ……すみません。俺、ただ、心配だっただけで。俺なんかが、余計なお世話でしたよね。もうユーフェさんには近づかないようにしますから……嫌わないでください」

 ユーフェに嫌われたのだと思うと、勝手に涙が浮かんでくる。鼻がつんと痛んだ。

 剛樹が扉から離れようとすると、扉がギィと開いた。

「ち、違う! お前は悪くない!」

 ユーフェは焦ったように言った。頭の右半分を手で覆い、ふらふらしている。明らかに様子がおかしいので、剛樹の胸から悲しみが飛んでいった。

「どうしたんですか、ユーフェさん」

 ユーフェの顔を下から覗きこむと、彼はふうふうと荒い息をしている。暑そうに、上着の襟を引っ張っては風を起こしていた。

「あ、もしかしてお酒に酔ったんですか? 少し待っていてください。お水を持ってきます。……わっ」

 剛樹が慌てて身をひるがえした瞬間、ユーフェに左腕を掴まれた。ぐいっと勢いよく室内へ引っ張られ、ユーフェが閉めた扉に背中を押しつけられた。

「いたっ」

 装飾がついた扉に背をぶつけて、剛樹は声をこぼす。何が起きたかわからないでいるうちに、顔に陰がかかった。剛樹が上を見ると、ユーフェが壁に手をついて、剛樹に覆いかぶさっている。

「あの……ユーフェさん……?」

 剛樹は恐る恐る名前を呼ぶ。

 ユーフェの部屋にはあちこちのランプに火が灯されており、剛樹にはユーフェの様子がはっきりと見える。

 ユーフェは息が荒いだけでなく、目も血走っている。どう見ても正常な状態ではない。

「体調が悪いなら、お医者さんを呼んだほうが……」

 剛樹は声を途切れさせた。

 ユーフェが剛樹にぐっと顔を近づける。剛樹の首元に鼻先を寄せ、スンスンとかいだ。

(へ……? においをかがれている⁉)

 剛樹は羞恥に襲われた。風呂上がりだからまだいいが、それでも恥ずかしい。

「ちょ、ちょっと、ユーフェさん?」

 困惑しながら、剛樹はユーフェの胸元を押して自分から離そうとした。

「ひゃっ」

 その瞬間、ユーフェが剛樹の首筋をベロリとなめた。剛樹は驚きのあまり、飛び上がった。ユーフェは目を細めた。

「モリオン、お前は本当にいいにおいだな。たまらない」

「入浴剤がよかったのでは?」

「違う。この……お前の魅力的なにおいだ」

 ユーフェは再び剛樹に顔を近づけ、耳の下あたりで鼻を鳴らす。剛樹はいたたまれない気持ちになって、首をすくめる。

「怖いか?」

「いえ……さすがに恥ずかしくて」

 嗅覚の鋭い狼獣人ににおいをかがれるなんて、剛樹からすればちょっとした拷問だ。剛樹がぎゅっと目を閉じて、羞恥に耐えていると、ユーフェははあっと熱いため息をこぼす。

「……モリオン」

「はい」

 剛樹は返事をする。もふっとした毛が頬に当たってくすぐったい。

「私は部屋に戻るように忠告した。構うなとも言った。だから、もういいな?」

 剛樹は再び困惑した。

 ユーフェがなんの許しを得ようとしているのか、さっぱり分からないのだ。

「……ええと?」

 ユーフェが身を離し、剛樹を見つめた。思わず見つめ返した剛樹は、ユーフェの目がギラギラと光っているのに気づいて息をのむ。まるで獲物を見据えた捕食者のようだった。


 ――食べ……られる?


 ふと、頭にそんなことが浮かぶ。

 ユーフェがぱかりと口を開け、鋭い犬歯が覗く。剛樹があっと気づいた時には、ユーフェは剛樹の口を食むようにして口づけていた。



(※以下、性描写があるので非公開)

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