六章 ユーフェの元婚約者


 緩やかな坂道を上ると、開けた土地に出た。

 森と山の国ラズリア。その王都、ラズルヘイムだ。

 鋭い切妻屋根は青く、窓が小さな、灰色の石造りの家が並んでいる。二階建てが多く、隣家との間が広く、庭付きがほとんどみたいだ。

 中央に近づくと、二階建てだが、デパートやマンションみたい横に長い造りの建物が増え、急に広い場所に出る。

「ここは王宮前広場だ。祭りや行事、市がここで開かれることが多い。あの門の向こうが王宮だぞ」

 窓に張りついている剛樹に、ユーフェが言った。

「王宮……広いですね」

 ホワイトグレーの岩山を背に、正面に大きな城が建っている。真っ平らな広々とした土地に、建物がぽつぽつとあり、西側には森と池まであるらしい。

「そうか? こんなものだ」

「こんなものですか」

 剛樹は面食らった。

(まあ、でも、ユーフェさんからすれば、生まれ育った家なんだよね。見慣れてるから、どうとも思わないのかな)

 テーマパーク一つ分くらいの広さが普通とは。ここにいたって、剛樹は急にユーフェとの身分の違いを感じ、落ち着かなくなった。

「俺みたいなのが、ユーフェさんと一緒にいていいんですか……?」

「ははっ、王宮を見て、気後れしたのか? 私は末子の第五王子だ。いずれ爵位と領地をたまわって、臣籍にくだる身だよ。ここで暮らすわけではない」

「しんせき?」

 爵位と領地は分かるが、聞いたことのない単語だ。

「臣下の籍。家臣といえば分かるか?」

「王様の部下になるってこと?」

「そうだ。王族ではなく、貴族に下がるわけだな」

「でも、それでもすごいですよね」

「まあな。公爵は王族に次ぐ地位だ。そう構えなくとも、お前は宙の泉に現れた異界の民だ。聖域に漂着した人族を粗末に扱って、森の神の怒りに触れたくはない。国の繁栄のため、縁起をかつぐものなのだ」

 剛樹はベンチに座りなおして、ユーフェをちらりと見る。

「俺がいると、縁起が良い?」

「さあ。だが、そういった物の見方もできるから、お前を特別な客人と扱うのは十分だと言っているのだ」

「いじめられないなら、なんでもいいです」

「身をつつましくして、謙虚でいれば、お前の身は安全だろう。もし傲慢にふるまったら、政治の邪魔だからと殺されるか、どこかに幽閉されるかもしれない」

「ユーフェさん、俺にそんなふうにふるまう度胸があると思います?」

 真面目に問う剛樹に、ユーフェが噴き出した。

「ないな!」

「ですよね。俺、いずれ独立すると思いますけど、それまではユーフェさんの傍にいたいです」

「独立か……。お前は臆病だし小さくて可愛いが、やはり男なのだなあ。その気概はいいと思うぞ」

「可愛くはないです」

 剛樹はきっぱり否定したが、ユーフェは笑うだけで何も返さない。

「ちょっと、ユーフェさん。そうだって言ってくださいよ」

「私は、嘘をつけぬ性分でな」

 認識を改めるつもりはないらしい。

「人族には目が悪いって笑われますよ?」

「残念だが、私は獣人だからな」

 そんな言い合いをしているうちに、王宮の玄関前に着いたようだ。牛車が止まった。

 王都まで牛車で二週間。塔は国の外れにあると聞いていたが、これほど遠いとは思わなかった。森や山を越え、時に山を迂回したせいだ。

 近衛が牛車の前のほうに階段を置き、幕を広げた。ユーフェが先に降り、剛樹も続こうとしたところで、ユーフェにひょいっと抱え降ろされた。

「ちょ、ちょっとユーフェさん!」

「このほうが早いだろう?」

 抗議も虚しく、そのまま地面に降ろされる。ユーフェが牛と客車をつないでいる棒の下をくぐるのを追うと、玄関前には出迎えの人々がずらりと並んでいた。使用人だろうか。

 居並ぶ人の中でひときわ目立つ銀狼族の男が、満面の笑みで歩み寄ってきた。

「ユーフェ、よく戻ってきたね。待っていたよ!」

「フェルネン兄上」

 ユーフェがちょっと呆れたように名を呼び、お辞儀をした。

「王太子みずから出迎えなどなさらぬように」

「固いことを言うでない。お前は私の可愛い弟だ」

 可愛いと言ってユーフェの頭をなでるフェルネンを見て、剛樹はなんとなく既視感を覚えた。沖野家の兄が剛樹にすることとよく似ている。ユーフェはものすごく渋面をしていた。

 こうして見ると、ユーフェの小柄さがよく分かる。

 ユーフェだって二メートル近い身長なのに、フェルネンは頭一つ分大きいのだ。フェルネンが着ている衣服は上等で、白地に銀糸で複雑な柄を刺繍している。腰には柄に宝石がついた長剣をさげており、獣の足なのはユーフェと同じだが、木の靴底をもつサンダルを履いていた。

(すごい……。美獣って感じの人だな)

 白に近い銀毛はつやつやしていて、他の銀狼族と違って長毛で、ゆるくうねっている。まつ毛がばさばさで、優美を絵に描いたみたいな獣人だ。柳の下にたたずむ佳人のような雰囲気なのに、威風堂々としていて王の風格もある。王太子だから、次代の王だろう。この国は安泰だと思わせるだけの魅力があった。

(ユーフェさんの元婚約者さんって、面食いなのかな)

 銀狼族の美醜はよく分からないが、フェルネンが美人なのは理解できる。ユーフェの後ろで見とれていると、フェルネンの水色の目とかちあった。慌てて視線をそらす。

「ああ、君が例の人族か」

「はい。沖野剛樹といいますが……」

 あだ名のことについて剛樹が話そうとすると、ユーフェが説明してくれた。

「兄上、彼の名前は私どもにはなじみが薄く、私どもの発音だと、彼の故郷では悪い意味の言葉になるのだそうです。あだ名でモリオンと呼んでいますので、そちらでお願いします」

「そうか。では、そう呼ぼう。モリオン、私はフェルネン・ラズリアだ。ユーフェが後見人についたとか、遠方よりよくぞ参った。この国の賓客としてもてなそう」

 フェルネンが朗々とした声で告げたので、集まっている人々がざわっとなった。

「失礼ですが、殿下。このようなどこの者とも知れぬ人族を、国賓などと……」

 後ろに控えていた片眼鏡の銀狼族の男が、剛樹を怪しげに見て、フェルネンに苦言をする。

「彼は異国の聖なる者らしい。もてなせば、国に幸いがあるだろう。森の神に罰を当てられたいのならば構わぬが、どうだろうか、大臣」

 フェルネンはいじわるそうな目で、ちらりと大臣を見やる。

「罰を!? それはとんでもないことです。失礼しました、お客様」

 今度のざわめきには、畏怖が乗っていた。

(え!? そんな単純な感じで、俺を国賓にしていいの!?)

 剛樹は激しく動揺しているが、この状況で意見できるような根性はない。ユーフェを伺うと、目を細めていた。面白がっている。

「まあ、そんなお客様がいらしてますの? 殿下、わたくしにも名乗る栄誉をいただけません?」

 玄関のほうから、華美な薄黄色の衣装をまとった銀狼族が歩いてきた。女の獣人のようで、男に比べると華奢でほっそりしている。

「ああ、構わぬよ、アレクサ。ユーフェ、モリオン、紹介しよう。私の婚約者で、アレクサ・ローザだ。母方の従妹だよ」

「お久しぶりですわね、ユーフェ様。それからモリオン様、初めまして。アレクサと申します。このたびはわたくしどもの婚約発表の場にいらしてくださってうれしいですわ」

 アレクサはたおやかにほほ笑んだ。

 しかし剛樹は心臓がバクバクと鳴り始め、それどころではない。アレクサがユーフェの元婚約者なのだとしたら、とんだ修羅場である。

「どういうことです、兄上」

 ユーフェが動揺を込めて言う。

「どうしてあなたの婚約者が、シエナではないのです?」

 ユーフェまで驚いているので、剛樹は面食らった。

(何これ、どういう状況?)

 当事者でもないのにはらはらと息を詰めていると、フェルネンが笑った。剛樹の背がゾクリとするような、怖い笑い方だった。

「弟を侮辱した無礼な女と、なぜ私が婚約するのだ、ユーフェ」

 ひんやりとした返事に、その場が凍りついたようだった。



 場をサロンに移し、剛樹はユーフェとともに、フェルネンやアレクサとお茶をしていた。

 窓が小さく薄暗いが、サロンの天井には空、壁には森の木々や草花が描かれており、温かい雰囲気がある。金細工で飾られた豪奢なもので、この国の裕福さがよく分かる。

「すみません……」

 緑のビロード張りの長椅子で、剛樹はうつむいていた。

 フェルネンの怒りの気配に当てられて、腰を抜かしてしまったのだ。結局、ユーフェに抱えられて、ここまで移ったのだった。

「お気になさらないで。フェル様が大人げないのが悪いんですもの。人族は獣人を恐れるものです。あんな殺気を放つなんて……」

 アレクサにとがめられ、フェルネンは気まずそうにしている。

「すまぬ。あの時の怒りを思い出してなあ。ユーフェはあの様子だったから、手紙を読んでいないだろうとは思っていたが。まさか、私があの女と成就したと思っていたとはな。私のこれぞという相手は、昔からアレクサだぞ。彼女に私を選ぶかどうかの猶予を与えたくてな、公表していなかっただけだ」

「おかげで楽しい青春を過ごせましたわ。王族の婚約者になると、いろいろと大変ですもの」

 フェルネンとアレクサがいちゃいちゃしているのを、ユーフェはいまだに呆然と眺めている。

「まさか二人がそんな関係とは……。それではシエナはどうなったんです?」

「穏便な婚約破棄ということで済ませてある。銀狼族では、これぞと思ったらどうしようもないからな。しかし心変わりしたのはあの女のほうだと社交界で噂になったから、当分出歩けなくなっていたぞ。自分で自分の名節に傷をつけたわけだ。自業自得だな」

「そうなのですか」

「……あの女に未練があるのか?」

 フェルネンの案じるような問いに、ユーフェは首を振る。

「吹っ切りました。ですが、しばらく婚約などはいいです。そっとしておいてくれませぬか」

「お前の好きにするがいい。家族の総意だ。失恋のショックで、命を絶つ者もいるのだ。よく耐えた。さすがは私の弟だ」

「兄上……」

 兄弟の間にしんみりした空気が流れる。

 そこでアレクサが明るい調子で口を挟む。

「あら、婚約しないんですの? てっきりそこの人族が、新しい婚約者かと思っておりましたわ」

「えっ」

 急にこちらに会話が飛び、剛樹は目を丸くした。ジュエルにもそんなことを言われたのを思い出した。ユーフェが笑って否定した。

「違うぞ。この者は私が保護しているのだ。兄上、アレクサには話しても?」

「構わぬぞ。アレクサ、機密事項ゆえ、このことは他言無用だ」

「はい」

 フェルネンが警告すると、アレクサの表情が硬くなる。

「モリオンは宙の泉に現れた、異界から来た人族だ」

「まあ! あの不可思議な品が流れ着いた泉の?」

 ユーフェの言葉に、アレクサは目を輝かせる。彼女はいそいそと帳面を取り出して、身を乗り出す。

「そこをもっと詳しく! 異界から迷い込んだ人族と、獣人の王子の出会い。新しい切り口ですわー!」

「お前、まだあの趣味をやめていなかったのか」

 ユーフェが引き気味に言った。アレクサはうなずく。

「やめるなんてありえません! わたくしのライフワークですわ。小説を書くことをやめさせるなら、フェル様とは結婚しないという条件を出したくらいですもの」

「唯一の条件がこれだからな……。構わぬのだが、あまり分かりやすくモデルにしないでくれよ。公務にさしさわる」

 フェルネンとユーフェは諦め顔だが、剛樹はなんの話だか分からない。

「アレクサさん……様? は」

「さんで結構ですわよ」

「はい、アレクサさん。あの、作家先生なんですか?」

「先生だなんて、そんな……!」

 アレクサは照れているが、まんざらでもなさそうだ。

「ちょっとロマンス小説が好きなだけですの。王宮ってネタの宝庫ですから、楽しいですわよ~」

「……と言って取材気分でいてくれるから、彼女といると気楽でいいのだ」

 フェルネンがのろけを挟んだ。

 ユーフェは反応に困った様子ながら、この会話を切り口にして、アレクサにモリオンの好きなことを教える。

「アレクサは文章だが、モリオンは絵を描くのが好きだぞ。そこの、モリオンの鞄を持ってきてくれ。革製のトランクだ」

「畏まりました」

 ユーフェが命じ、侍女が退室する。しばらくして戻ってきた。剛樹の絵描き道具を詰めたものである。剛樹はトランクから、着せ替え紙人形を出す。

「こういうのを……作ってみました」

 ちょっと恥ずかしいのだが、恐る恐る差し出す。フェルネンがほうと感嘆の声を漏らし、先に全て見てからアレクサに渡す。

「まああ、可愛らしい! こんな絵は初めて見ましたわ」

 アレクサが紙人形を手に取って、はしゃいだ声を上げる。

「いいですわねえ。他にはどんな絵を?」

 剛樹がスケッチブックを出すと、アレクサは真剣な目で絵を見つめる。村や塔の様子、道中で見たもの、近衛の獣人達やユーフェなどを描いていた。特徴だけおさえたコミックアートで、作風は全年齢のゲームイラスト寄りで、あまり癖がない感じだ。

「素晴らしい……近衛の衛士達ですわね。まあ、制服に鎧まで。ふんふん。これ……おいくら?」

「アレクサ、買い取ろうとするのをやめなさい。ここに私という麗しい存在がいるだろう!」

「フェル様もお美しいけれど、衛士は衛士で男くさくて素晴らしいんですわ。ふふ。こっちが受けちゃんで、こっちが攻め。うふふふ。美少年攻めですわね」

「あー、また病気が始まった……」

 フェルネンはうんざりと呟いている。ネットで聞きかじった単語が聞こえ、剛樹はアレクサに質問する。

「美少年攻め……? あの、そのロマンス小説って、もしかして男女ではなく」

「どちらも書きますわよ。男女でも同性愛でも。わたくしは男同士が好きですわ。むくつけき獣人達がからみあって……はあはあ……すみません、鼻血が出そう」

 趣味に全力のアレクサの様子に、剛樹は思わずフェルネンを見つめる。

「こんなにオープンなのが宮廷流?」

「そんなわけがあるか!」

「アレクサが例外だ」

 フェルネンとユーフェが声をそろえた。

「えっと、でも、ここって同性愛も普通なんでしょう? 何が問題なんですか?」

 二人の反応がよく分からない。はあはあ言っているところは、剛樹でもちょっと引くが、好きなことについて興奮する気持ちは分かる。

「私もな、趣味は好きにすればいいとは思うが……。迷惑なことにアレクサは、身近なことをネタにするのだ。私をモデルにして、部下をモデルにした登場人物と恋愛した小説を書かれるのはさすがにな……」

 遠くを見つめる目をして、フェルネンがSNS。

 それで先ほど、分かりやすくモデルにするなと注意したらしい。

 今度はユーフェがため息をついた。

「親族は皆、一度はアレクサのネタにされているのだ。面白がって登場させてと言う者もいるが、あんな小説に出されるのはちょっとなあ」

「ロマンス小説なんでしょう? あんなって、どんな?」

「駄目だ、モリオン! 教育に良くない!」

「あの、俺、もう十八……」

「とりあえず言っておく。アレクサの小説は、お前が想像しているような可愛いものじゃない。えげつない」

「えげつない……」

 いったいどんなロマンス小説なんだろうか。鬼気迫る顔をして説明を拒否するユーフェの様子に、剛樹はそれ以上問い詰めるのをやめた。

 剛樹が長椅子の上で姿勢をとりなおし、アレクサのほうを見ると、彼女は前のめりに頼んできた。

「後生ですからモリオン様、わたくしにそれを売ってくださいませ!」

 アレクサの勢いにおされて、剛樹はしどろもどろに答える。

「え、ええと……それなら別に描きますよ。これは落書きだから……売るのは……」

 絵を売って欲しいと言われたのは初めてで、うれしい反面、こんなレベルでお金をとっていいのかという不安が首をもたげてくる。

「職人としてのプライドが許さない、と。なるほど、分かりました。では一枚、おいくらで?」

「ええとええと、困ったな……。売る予定がなかったから。できたら見てもらっても? それから話しませんか」

「ええ、わたくしはすでにフェル様の宮に移っておりますから、そちらに使いをくだされば、会いに来ますわ。モリオン様の小さな足で、宮まで来るなんて大変そう」

「でも、既婚者にはあまり会わないほうがいいって聞きました」

「二人きりで、ですわ。侍女が一緒ですから大丈夫」

「分かりました」

 アレクサのために絵を描くことになり、スケッチブックの中で、特に書いて欲しい絵の獣人を選んでもらった。剛樹は筆記具を出して、メモを描き、そのページに挟んでおいた。ふせんがないから不便だ。

「モリオン、嫌ならば断わっていいのだからな」

「そうだ。お前はアレクサがどんな小説を書くか知らないから……」

 フェルネンとユーフェが心配して口を出す。

「いえ、同性もののロマンス小説好きは、元の世界では珍しくなかったので、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。でも、まさかそういう絵を俺が描く日が来るなんて思いませんでしたけど」

「珍しくないのか!? どんな場所だ……」

「モリオン、一応言っておくが、アレクサは例外だ。こんなふうにおおっぴらに趣味を語る貴婦人は珍しいからな、勘違いしてはならんぞ」

 兄弟そろって言い含められ、剛樹は頷いた。ユーフェは剛樹の肩にポンと手を置く。

「だが、王太子妃と親しくするのは良いことだ。王宮では権威が物を言うし、社交界では女性の味方があると強いからな」

「や、やっぱり俺、いじめられるんですか!」

「だから私の傍にいれば大丈夫だと言っているだろう」

 おどおどする剛樹に、ユーフェが再三に渡って言う。そこでなぜかアレクサが鼻を押さえた。

「いいわ。人族と獣人の王子、次の新刊はこれで決まりね!」

「おい、お前達、私の婚約者にネタを提供するのはやめよ」

 なんのことだか謎すぎる注意を受け、お茶会はお開きになった。



 サロンを出ると、侍女がお辞儀をした。

「ユーフェ様、お客様、お部屋までご案内いたします」

「案内はいらぬ。自分の宮の場所くらい分かる」

「いえ、王太子殿下より、お客様には玻璃の離宮をとおうかがいしておりまして……」

 ユーフェがつっぱねたが、侍女はそう返した。

「国賓というだけあって、良い離宮を選んでくださったのだな。そちらはそのままでいい。だが、モリオンは私の離宮で寝泊まりさせる」

「しかし、王太子殿下が……」

 侍女は明らかに困っており、どうしてこんな人族を手厚く迎えるのかと不思議そうに、剛樹を値踏みするような冷たい目を向けた。

 侍女を困らせたくないが、ユーフェと離れるといじめられそうで怖い。しかしやっぱり迷惑になるようなことはしたくない。

「あ、あの、いいです、ユーフェさん。俺、この人について……」

「駄目だ」

「わっ」

 ユーフェに抱き上げられて、剛樹は慌ててトランクを抱えなおし、その肩にしがみついた。腕に座っているだけなので、バランスを崩すと落ちてしまう。

「モリオンはこの辺りのことが分からぬのだ。国賓だからこそ、私が世話をする」

「……畏まりました」

 結局、侍女のほうが折れた。ユーフェは勝手知ったる態度で王宮の廊下を歩き出す。

「いいんでしょうか……。俺、ユーフェさんに迷惑はかけたくないです」

「見知らぬ場所にいるのが怖いのだろうに、私のために我慢しなくてよい。私の離宮も広いぞ。客室くらいいくらでもある」

 ユーフェとは物の見方のスケールが違いすぎて、剛樹はくらくらしてしまう。王宮は玄関ホールや部屋は見事な装飾がされていたが、廊下は無骨な印象だ。窓が小さくて薄暗く、壁には絵がかかっている。

 飾られている緑が少ないから、なんとなく殺風景に見えるのかもしれない。

「王子様も宮殿をもらうんですか?」

「そうだぞ。臣籍にくだるまで、だな」

「五人も王子がいたら、住む家がなくなったりしません?」

 口に出してみて、質問が馬鹿げていると気付いた剛樹だが、ユーフェは答えてくれた。

「ならぬよ。王と王妃は、できるだけ多くの子をもうけるからな。過去、多い時は十人近くいたぞ。賓客用の離宮も含めて、王宮の敷地内に十二はある」

「そんなに……!」

「しかし王子や王女は養育に金がかかるからな。最近は多くて五人程度だ。あまり多くなると、目が行き届かない。それで素行の悪い者が出て、内乱になった過去がある。教訓としているのだ」

 なるほどと、剛樹はあいづちを打つ。

 すっかりこの体勢に慣れてしまい、普通にしゃべっていた剛樹だが、通りすがる銀狼族や人族がじろじろと見ているのに気付いた。

「あ、あの、降ります」

「少し歩くからな、降ろさぬ」

「なんで!」

 気のせいか、ロスに襲われた事件以来、ユーフェの過保護さが増している。剛樹は落ち着かず、無意味に首をすくめて辺りを伺っていた。

(ひいいい、視線が痛いーっ)

 他人の視線を苦手とする剛樹には、とんだ苦行である。

 ユーフェは廊下を通り抜け、一度外に出ると、しばらく平地を歩いていく。彼の言う通り、王宮からは少し距離があった。剛樹の足だと三十分はかかりそうだが、さすがはユーフェの足は速く、十分くらいで離宮に着く。

 それは小さな城館だった。小さな池と庭があり、狼の石像が飾られている。城館に勤める執事とあいさつすると、ユーフェの部屋から近い、一番良い客室に案内してもらった。

 だが獣人向けの部屋で、剛樹には結構不便だ。

 ユーフェが剛樹を連れて帰ってきたことを王宮の侍女から聞いたようで、執事の男はここに剛樹を泊めるのを渋った。

「ユーフェ様、玻璃の離宮のほうがよろしいですよ。あちらは人族や小型の獣人向けの造りなのです。モリオン様にはこちらは暮らしにくいかと」

「では、あちらの家具をいくつかここに運び込むようにせよ」

「しかたありませんね……。モリオン様、準備が整うまで、しばしご不便をおかけします。今日はこちらのお部屋でよろしいですか? 明日には移れるように整えておきますので」

「ユーフェさん、俺、やっぱり……」

 家具を運びこむなんて手間だろう。剛樹が移動したほうが早い。罪悪感にかられて、剛樹はユーフェをとりなそうと思ったが、ユーフェは首を振る。

「駄目だ」

「あの……すみません」

 これを説得するのは無理だと判断して、剛樹は執事に謝る。

「モリオン様は悪くありませんよ。ユーフェ様だけでなく、王家の方々は頑固者が多いので、言い出すと聞かないんですよね」

「悪かったな」

 堂々と嫌味を言う辺り、執事とユーフェの間に信頼関係があるのが分かる。ユーフェは玻璃の離宮に運ばれただろう剛樹の荷物もこちらに移動するよう命じると、執事はお辞儀をして出て行った。剛樹はいかにも高価そうな部屋で、まるでネズミみたいに慎重に様子を伺った。

「壊したらどうしよう……」

「お前がぶつかったくらいで壊れるほど、やわな家具ではない」

「家具まで、強いかどうかなんですか?」

「これは鋼木だぞ。頑丈なのがうりだ」

「ああ、なるほど」

 銀狼族でないと扱えない、堅い木だ。剛樹がぶつかった程度では壊れないだろう。

「疲れただろう。今日はゆっくり過ごすといい。国王陛下と王妃陛下との謁見は明日だ。道中で教えた通りに対応すれば問題ないからな」

「はい」

 謁見が待っていたのだと、剛樹は一気に不安になった。二週間の旅の間、牛車の中で、礼儀作法を教えてもらった。謁見の間であいさつできる程度の作法は教わったが、日常レベルは難しい。

 他には、異世界漂着物についても報告することになっていた。

 ユーフェは断然、毛をすくためのコームやブラシをおすつもりのようだ。

「婚約お披露目のパーティーでしたっけ? あれはいつになるんですか?」

「一週間後だ。それまでに職人に見本を作ってもらわねばならぬからな、私はさっそく出かけてくる。良い子だから、部屋から出るのではないぞ」

 部屋の使い方は執事に教わるように言い、ユーフェは完全に剛樹を子ども扱いして言った。

「あの、ユーフェさん」

「ん?」

「元婚約者さんと、元の鞘に納まるんですか?」

「どうした、急に」

「それなら俺、応援しますから。ユーフェさんにはお世話になってるから、恩返ししたい」

 ユーフェは困った様子で、剛樹を見下ろした。

「私はもう吹っ切った。すでに変わってしまった。元には戻れぬよ。もし戻ったとして、私は彼女を疑い続ける。彼女の心変わりを監視するだろう。それは健全ではない」

「ユーフェさん……。そうですね、それが当たり前だと思います」

「そうか? 私は彼女の心変わりを許せない、心の狭い私も許せなかった。他人を許せないことより、自分を許せないことのほうがつらいのだな」

「ユーフェさんは、他人を許さないといけないって思ってるんでしょうか……。傷つけられたことを、許さなくてもいいと思います。簡単に許せという人は、きっと想像力が足りないんだ」

 剛樹はユーフェの大きな右手を、自分の小さな手で包んだ。

「それじゃあ、こうしましょう。自分を許せないユーフェさんを、俺が許します」

 ユーフェは目を丸くし、ふっと噴き出す。

「お前が許すのか?」

「そうですよ。そう言う人が、一人いたらいいでしょ?」

「ふ。そうだな、一人いればいい。なんだか胸が軽くなった気がするよ。王宮は思い出が多すぎて、気持ちが暗くなる。その場所に行くだけで、当時のことを思い出すのだからな」

 眉尻を下げて、ユーフェは少し情けない顔をする。

「いつまでも引きずって、情けない男だ」

「そうかな。それだけ大事だったなら、しかたないと思う。俺は、そんなユーフェさんが少しうらやましい。他人が苦手で、友達もいなかった。みんなが俺に求めてたのは、親や兄さん達へのつなぎだったから。仲良くしてくれても、それが本物なのか信じられなかった。いつか嫌な目にあうくらいなら、一人でいるほうが楽だ。絵と向き合っていれば、現実を見なくて済んだ」

 剛樹は苦笑を浮かべる。

「俺、ここに来て良かったと思うことが一つだけあります。ユーフェさんと友人になれたことです。ユーフェさんのことは、信じられる」

 つい大きなことを言ってから、剛樹は恥ずかしくなった。

「って、俺だけがそう思ってたら、とんだ大恥じゃん。すみません、忘れて!」

「いや、忘れぬ。お前は私の友だ」

 温かく笑っているユーフェを見上げて、剛樹は感動で胸を熱くする。

「ユーフェさん! ありがとう!」

 剛樹は珍しく気持ちが高ぶって、ユーフェの手をぶんぶんと振った。異世界に来て、こんな信頼できる人に出会えるなんて思わなかった。

「俺、ユーフェさんのことを応援するよ。良い人がいたら教えて。協力する!」

「何をどう協力するのだ」

「その人に、ユーフェさんがどれだけ良い人で、家庭を築いたらどれだけ安心してすごせるかについて話す。ユーフェさんは見た目をコンプレックスにしてるけど、どれだけかっこいい人でも、家庭内暴力なんてしていたらクズだよ。家ってさ、帰ってほっとできる場所でないと」

「私は及第点というわけか?」

「文句なしに百二十点です」

「それは光栄だな。もしそんな相手ができたら、モリオンに相談しよう。約束だ」

「はい!」

 ユーフェは剛樹の頭を撫でてから、笑いながら部屋を出て行った。しばらくして、お茶菓子を運んできた執事が、意外そうに言う。

「あのようなユーフェ様、ずいぶんお久しぶりに拝見しました。モリオン様といらっしゃると肩の力が抜けるのでしょうか。ユーフェ様をよろしくお願いします」

「お世話になっているのは俺のほうなので……」

「ああ、それが良かったのかもしれませんね。あの方は世話を焼かれるより、世話を焼きたいタイプなので。ご家族の過保護さにうんざりしておいででしたよ」

「つまり、あれがデフォルト……?」

 家族そろってユーフェみたいなのだとしたら、ユーフェのコンプレックスが加速するのも頷ける。家族はユーフェを小さいからと過保護に扱う。周りは立派な体躯の獣人ばかりだ。そのうち、いつまでも未熟で、認められないのだと感じて、ストレスになってもおかしくはない。

「デフォ、ですか?」

 聞き返す執事に、剛樹は手を振った。

「あ、独り言です。そうなんですね、分かりました。えっと……それじゃあ、引き続きお世話になります?」

「ふふっ。そうされてください。幸い、あなたは国賓のようなので、問題ないでしょう。しかし十八と聞きましたが、細くて小さい方ですね。料理長に、精がつく料理を頼んでおきますね」

「あ、あんまり油っこいのはやめてもらっていいですか……?」

 あっさり味を好む剛樹には、ラズリア王国の料理はこってりして感じることが多い。「承知しました」と頷いて、執事は客室を出て行った。

 一人でお茶菓子を楽しんだ後、剛樹は牛車での旅疲れで眠くてたまらず、いつの間にか長椅子で寝てしまっていた。



 王宮には、専属の職人が多くいる一画がある。

 重要な品や、外に出してはいけない厳重注意の宝飾品などがあれば、そこで作らせる。出入りには必ず厳重なチェックが行われており、それは王族でも同じだ。

 唯一の例外は、王と王妃だ。

 衛兵からチェックを受けると、ユーフェはさっそく責任者の所に向かった。

「ジェラルド、ちょっといいか」

 口元の毛が垂れてひげみたいになっている老人が振り返り、ユーフェのほうへ駆け寄ってきた。

「おお、これはユーフェ様。お帰りだったのですか。あの手押しポンプとかいうものは、素晴らしいですね! 一つだけ分解させていただいたのですが、構造自体は簡単でしたから、複製できるでしょう! 試作したらお見せいたします!」

 興奮して口早に話し、ジェラルドはにこりとした。

 普段は寡黙な男なのだが、興味のあることになると途端に早口でまくしたてるようにしゃべるのが、ジェラルドの悪い癖だ。

 それでも今回は短い話で済んだ。

「私は塔に帰るから、報告は兄上にしておいてくれ。それでな、これも複製して欲しいのだ」

 毛すき用のコームやブラシを受け取り、ジェラルドはしげしげと観察する。

「はあ。これも漂着物ですか? 見たことのない素材ですね」

「モリオンはプラスチック……だったか。確かそう言っておったぞ」

「そういえば、異界から人間が漂着したとか! そのことは伏せて、国賓になさったそうですね」

 大臣にも教えなかった秘密は、ここではオープンになっているようだ。

 ここで見聞きしたことは、一歩でも外に出たら門外不出だ。破れば即処刑という重罪である。だが、この区画ではしゃべりたい放題だ。ジェラルドの言葉につられて、周りで作業していた職人達も集まってきた。

「こちらの滞在中に、漂着物の保管庫を見ていただけないでしょうか」

「貯めこまれるばっかりで、処分もできませんし……。もし危険物がまぎれていたら恐ろしいんです」

 彼らの気持ちも分かるが、ユーフェでは判断ができないことだ。

「待て。陛下の許しがなくば、そんな真似はできぬ。それに、モリオンは臆病でな……。白鼠族のようなのだ。嫌がるかもしれない」

「白鼠族! それほどですか……。最悪、塔での調査記録の報告を待つしかないですなあ」

 ジェラルドの呟きに、職人達はしかたがないかと頷いた。ジェラルドが言うならと、皆、あっさり受け入れる。もっとも年配で、職人達に技術を教えるのを惜しまないジェラルドは、皆に好かれているのだ。

「とりあえず、だ。これの複製を頼む。一回、使ってみるといい。生え変わりの毛だけが抜けて痛くないのだ。私の毛を見ろ、ふわふわだろ?」

「おおー、確かに。王族の皆様の毛並はお美しいですが、ここまでではありません。王侯貴族に馬鹿受け間違いなしですな!」

「成功したら、お前達には報酬を出すからな。頼んだぞ」

「畏まりました!」

 わぁっと歓声が上がり、職人達はコームとブラシに集まる。もうこうなると、ユーフェの存在など、彼らの頭からは消えている。

「では、帰るからな」

 一応、声をかけてみたが、返事はなかった。



 出る時のほうがチェックは厳しい。入念に身体検査をされてから、ユーフェはやっと解放された。

 あの調子ならば、一週間後のパーティーまでには間に合うだろう。

 自分の宮に帰ると、食堂に向かう。

「お帰りなさいませ、ユーフェ様」

「うむ。モリオンは食事はとったか?」

「いえ、これからお呼びするところです」

「そうか、では私が呼んでこよう」

 牛車の旅で疲れたのか、道中、食欲が減っていた剛樹を思い出した。今日は少しは食べるといいのだが。

 そして剛樹の客室をノックするが、返事がない。

 ドアノブを下げると、鍵もかかっていない。

 まさか賊にでも入られたのはと、さあっと血の気が引いたユーフェは慌てて中に踏み込む。

「モリオン!」

 見当たらないことに焦燥にかられたタイミングで、すぐ傍の長椅子から「うーん」とうなり声がした。

「なんだ、そこにいたのか……」

 剛樹は長椅子で眠っていた。身を丸くして、子どもみたいだ。

 銀狼族の使う家具は大きい。剛樹が寝転がっていたことで、出入り口からはまったく見えなかったようだ。落ち着いてみれば、ちゃんと剛樹のにおいがする。

「ふう、まったく。驚かせおって」

 長椅子を回り込んで、傍らに膝をつく。慣れない旅で疲れたのだろう。できるだけ町や村で宿泊したが、やむをえず野宿の日もあった。ユーフェとの雑談やスケッチをしている以外は、昼間はクッションにもたれて休んでいたから、夜に眠れなくなったのだろうか。

 安穏としている顔を見ていると、なんとなくムスッとしてしまい、左頬を指先で突く。思ったよりもやわらかい頬に驚いていると、剛樹が身じろぎして、ユーフェの右腕に抱き着いた。

「ふわふわ~」

 いったいなんの夢を見ているのだか。とても幸せそうにゆるんだ顔をするので、ユーフェは固まった。

 これが庇護欲というのだろうか。可愛い。

 しかし、困った。腕を取り返したら、剛樹が起きてしまう。

 それからユーフェは石のようにじっとしていた。腕も足もしびれて困り果てていたタイミングで、執事がやって来た。

「何をなさってるんですか? ユーフェ様」

 幼い頃からの付き合いがある執事は、ユーフェの様子に噴き出した。

「ぶっ、ふふっ、お、お優しいですね。幼子を起こさないようにするような、いたわりを……」

「うるさいぞ、モリオンが起きるだろう!」

 結局、執事の笑い声で剛樹が起きてしまったが、しびれが限界だったユーフェは逆に助かったのだった。




「……すみません。起こして良かったのに」

 もこもこ羊に包まれる夢を見ていたら、ふわふわの正体はユーフェの腕だったらしい。足がしびれて動けないでいるユーフェに、剛樹は謝る。

「旅の間、あまり眠れていなかっただろう。気にするな……うっ」

 ユーフェは立ち上がろうとして、ぶわっと毛を逆立てた。足のしびれが残っていたみたいだ。まるでロボットみたいな動きで、ぎこちなくゆっくりと立つ。

 剛樹が原因なので申し訳なく思うのに、一方で、毛の逆立て具合がハリネズミみたいで面白い。

「ふっ」

「モリオン、笑ったな!」

「ふひはへんへひは!」

 ユーフェに軽く頬をつままれ、剛樹は「すみませんでした」と謝る。お互いに笑っているので、ただのじゃれあいだ。

 そのうちユーフェのしびれが解け、ようやく二人で食堂に行くと、白いテーブルクロスがかかった長テーブルには、すでに料理が並んでいた。きらびやかな様子に剛樹が怖気づく前に、ユーフェが椅子を引いて剛樹を座らせた。獣人用のものに、台を置いてくれているので、食べるのに支障はない高さだ。

 ユーフェが自分の椅子のほうに行くと、執事が椅子を下げてユーフェを座らせ、にっこりと皿を示す。

「今日はユーフェ様のお好きな芋の冷製スープですよ。ぬるくなる前に、お召し上がりください」

「おお、うれしいな。夏はこれだ」

 ユーフェにすすめられるまま、食前の祈りをしてから料理に手を付ける。銀狼族は料理を全てテーブルにのせ、そこから好きなものを選んで食べるらしい。できるだけ食器の音を立てないのがマナーだが、食べる順番などは決まってないそうなので、お城に気後れしがちな剛樹にはありがたい。

「本当だ、おいしい!」

 銀狼族はこってりとした味付けを好むのだが、芋の冷製スープはあっさりしていて、剛樹の舌に合う。

「モリオン様、料理長には薄味でお願いしたので、味が物足りなければそちらの調味料をお使いくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 執事が親切に教えてくれたので、剛樹は会釈を返す。

 スープに夢中になっていたせいで気付かなかったが、なんと、傍に塩焼きの魚が置いてあった。ザザナ村の周りでは魚はたまにしか食べないごちそうらしく、ときおり、小川で捕まえた魚が食卓に上る程度だ。

 日本人としては、たまに魚を食べたくなる。肉厚であっさりした川魚はとてもおいしい。

「幸せそうだな、モリオン。ラズリ・フィッシュが気に入ったか」

「この魚のことですか?」

「そうだ」

「俺、魚料理が好きなんです。こういった塩焼きだと、特に好みで」

「なるほど。魚がよくとれる土地で暮らしていたのか?」

 剛樹は首を横に振る。剛樹が住んでいたのは、内陸のほうだ。

「俺の故郷は島国で、周りを海に囲まれています。山と川も多いです。海は遠いんですけど、魚を運ぶ技術があるので、遠方でも食べられるんですよ。お店に行けば買えるんです」

「海の魚をか?」

「ええ、冷凍させたりして……。でも、ここでは難しいかな。電気がないと使えない道具だから」

 聞いたことがないらしく、ユーフェは眉を寄せる。

「デンキ。よく分からぬなあ。後でメモを取らせてくれるか」

「でも俺、説明はできませんよ? ええと、そうですね。火という名前は分かるけど、どうして燃えているかって言われても答えられないのと似た感じで」

「モリオンは賢いなあ。そんな例えがすぐに出てくるとは、素晴らしいことだ。お前の言うことも分かるが、メモだけ取らせてくれ。異世界用語だと書いておこう」

「そういうことでしたら、分かりました」

 剛樹が食事の続きをしていいかと、皿とユーフェを見比べているのに気付いて、ユーフェが笑った。

「ははは、すまなかった。食べてくれ、冷めぬうちにな」

「……すみません」

 少し悪いことをしたと思ったが、焼き魚への誘惑には勝てず、剛樹はナイフとフォークでちまちまと魚を口に運んだ。

 結局、スープと焼き魚を表側の半分、パンを一切れでお腹いっぱいになってしまい、執事に心配された。

「モリオン様、お加減が悪いのですか?」

 剛樹が謝る前に、ユーフェが代わりに答える。

「気にするな。モリオンは我らよりずっと少食なだけだ。これでも食べたほうだぞ」

「そんなに……! 料理長に伝えておきますね」

 執事は驚愕して、ポカンと口を開けたが、ハッと我に返ると澄まし顔に戻った。



 旅の疲れでぐっすり眠り、起きると日はすでに高かった。

(明るい……。いやいや明るすぎるよ!)

 剛樹は飛び起きて、大急ぎで身支度をして食堂に顔を出す。

「すみません、寝坊しました!」

「ああ、気にするな。私が寝かせておくように言ったのだ。よく眠れたか?」

「はい、とても」

 ユーフェも遅く起き出したみたいで、スープをのんびり食べているところだった。朝食……いや、もうブランチか。間に合ったことにほっとして、剛樹は昨日の椅子によじ登る。

 すぐに執事が朝食を運んできてくれた。

 パンとスープを少し食べると、満腹になった。どうも朝はあんまり食べられない。剛樹が謝ってそう伝えると、執事は頷いた。

「かしこまりました。そういうことでしたら、お部屋におやつをご用意しておきますね」

「ありがとうございます」

 なんて優しい人だろう。剛樹は両手を合わせて拝む仕草をする。

「……? どうして祈ったのですか?」

「えっと、執事さんが優しいからうれしくて、拝んでしまっただけです」

「拝……ぶふっ。し、失礼しました。可愛らしい方ですね。どうもありがとうございます。ふふふ」

 何かツボに入ったみたいで、執事は横を向いて笑いをこらえている。

「執事、茶を頼む。モリオン、こっちに来い。今日は涼しい所でゆっくり過ごそう」

「あれ? 見本はいいんですか」

「昨日、頼んでおいたから大丈夫だ。今日休むために、昨日のうちに片付けたのだ」

「そうなんですか。それなら俺、王太子妃様から頼まれた絵を描こうかな」

「絵が好きだな、モリオン」

「はい」

 せっかくのんびりできるなら、好きなことをしたい。

 モリオンは部屋に画材を取りに戻り、ユーフェと合流すると、一階に下りた。ちょうどユーフェの部屋にあるベランダの真下に、日よけの布がはられた場所がある。ふかふかしたソファーとローテーブルが置かれ、涼しい風が通っていた。

「暑いなら、水を入れたたらいを持ってこさせるが」

「たらい?」

「足をつけて涼むのだよ。我ら銀狼族は暑さに弱くてなあ。肉球にしか汗をかかぬから、毛に熱がこもると倒れる者もいる。水で冷やすのが手っ取り早いわけだな」

「俺はいいです、ちょうどいいので」

「それじゃあ、私だけだな」

 ユーフェが執事に命じると、すぐに使用人がたらいと水ガメを運んできて、ユーフェの足元に設置した。執事は氷の入った冷たい飲み物とお菓子を置き、すぐに退席する。

 だらっとソファーにもたれるユーフェを横目に、剛樹はスケッチブックを広げた。

 それからしばらく、風にはためく布の音と剛樹が鉛筆を走らせる音が聞こえるだけだったが、剛樹が「ひくっ」としゃっくりをしたので、まどろんでいたユーフェが左目だけ開けた。

「なんだ?」

「しゃっくりです。うーん……食べ過ぎたのかな?」

「あれでか?」

「昨日、たくさん食べたので」

「昼まで持ち越すのか、すごいな」

 ユーフェは驚きをこぼす。剛樹はというと、思ったより止まらないしゃっくりに眉をひそめている。息を止めてみるが治まらないので、ユーフェに頼む。

「ユーフェさん、俺を驚かせてください」

「は?」

「しゃっくりを止めるの、驚かすといいんですよ」

「そんなこと、初めて聞いたぞ」

「ずっとしゃっくりしてると、ひっ、死ぬって言うじゃないですか。息を止めたり……ひっく……驚かしてもらって止めたりするんです」

 眠そうだったユーフェが、前のめりで起きた。

「なっ、人族はそうなのか? 驚かす? ――ええと、ワッ!」

「びっくりはしたけど、止まりませんね」

 耳元で叫ばれて、剛樹はビクッとした。だが、しゃっくりは続く。おろおろしていたユーフェだが、キッと真顔になって剛樹の肩に手を置く。

「すまぬ、モリオン!」

「へ?」

 肩を背もたれに押し付けられ、あごが上へと上げられる。ユーフェの獣頭が近づいて、白い牙の並んだ口が開けられた。そのまま剛樹の首に噛みつく。

「!」

 痛みが来るかと身構えたが、何もない。

「おお、止まったか」

 噛む前に寸止めしたみたいだ。命の危機を感じるレベルで驚いたおかげか、しゃっくりが止まった。代わりに全身が総毛立ち、背筋に冷や汗が浮かんだが。

「……び」

「ん?」

「びっくりしたぁー……」

 恐怖がスーッと波のように引くと同時に、目からボロッと涙が零れ落ちる。あんまり怖かったせいで、条件反射だ。

「お、お前が驚かせと言うから! 死ぬよりいいだろう!」

「そうですけど、本当に噛むかと」

「私に人を喰う趣味なんぞない! 噛んでも甘噛みだよ。銀狼族同士ならば加減をしていればたいした痛みもないんだが……お前の肌はやわらかいから、ふりでもできぬな」

 ユーフェは心配そうにこちらをまじまじと見て、剛樹の首を手で撫でる。肉球のひんやりした感触で、さっきとは違うゾワッとした感じが湧きあがった。肌が粟立つ。

「あ……の、ちょっと、それは……」

 これが何か分からないが、あんまり良くないことだろうことはうっすらと感じられ、剛樹はユーフェの手をそっと押しのける。

「ああ、すまぬな、急所を触られると怖いだろう」

「ええ」

 とりあえず肯定しながら、不思議に思っている。

「モリオン、顔が赤くないか? ほら、水を飲むといい」

「……ええと、はい」

 なんだか胸がドキドキするのは、暑さのせいだろうか。

 剛樹は水入りグラスを受け取って、あおるようにして飲んで、このあやふやな感覚を誤魔化した。



「モリオン君、我が国へようこそ」

「宙の泉からのお客様だなんて、吉祥ではないかしら。歓迎するわ」

 もふっとした銀の毛並みが美しい国王夫妻は、ほがらかで優しそうだ。

「ど、どういたしまして」

 緊張のあまりぎこちなく返し、剛樹はぺこっと会釈する。

「父上、母上。モリオンは人見知りが激しいゆえ、申し訳ない」

 ユーフェが気遣って代わりに謝ってくれた。長毛の王妃は、フェルネンとよく似た美麗な女性の銀狼族で、青い目をうるうるさせる。

「白鼠族のように繊細だと聞いているわ。違う世界に突然やって来て、どんなにか心細いでしょう。ストレスで弱って死んでしまわないかと、心配しているのよ。ねえ、あなた」

 王妃は優しそうな目を王へと向ける。大柄なものの、顔立ちや雰囲気はユーフェとそっくりな、いかめしい王は頷いた。

「そうだな、王妃よ。ユーフェ、しっかりと世話をするのだぞ。負担ならば、城から使用人や騎士を連れていけ。それとも彼と王宮で暮らすか?」

「えっ」

 それは嫌だという気持ちが、ぽろっと口からこぼれてしまい、剛樹はおろおろする。

「父上、モリオンはその弱さゆえに、いじめられないかと不安がっているのです。あの田舎のほうが、村人とも親しくしておりますし、安心できるのでしょう。私もあちらに戻りたいので、どうぞお気遣いなく」

 ユーフェがフォローしてくれたおかげで、王を不機嫌にさせるという最悪の事態は回避できた。

「すみません……」

 首をすくめて謝る剛樹に、王は否定を返す。

「構わぬ。そうか、田舎のほうが落ち着くのか。なんと謙虚な人間だろう。――それで、そなたら、いつ結婚するのだ?」

「「は?」」

 突然挟まれたとんでもない問いに、剛樹とユーフェの間の抜けた声が重なった。

 王はけげんそうにする。

「その親しい様子に、ユーフェが気を許しているのを見ると、そういうことになったのではないのか?」

「そういうこと……?」

 なんの話だ。剛樹がユーフェをうかがうと、ユーフェは鼻の頭にしわを刻んでいた。

「確かにモリオンは良い人間ですが、すぐに恋愛事にもっていくのはおやめください」

「ユーフェ、我らはそなたのことも気にかけておるのだ。お前は愛情深いゆえ、伴侶を持つべきだ。あの娘のことは残念だが、そなたは若いのだからチャンスはいくらでもある。彼でなくてもいいのだぞ。なんなら見合いを設けても」

 王がヒートアップし始め、王妃が咳払いをした。冷たい声が、涼やかに割り込む。

「……あなた?」

 たった一言で、王はぐっと口を閉じる。

「ねえ、約束しましたわよね。ユーフェから言い出すまで、そっとしておく、と」

「し、しかしな、ユラリエ。ユーフェに子ができたら、城に戻るやもしれぬだろ。息子が傍にいないのは寂しい!」

「子どものようなおっしゃいようですね。宙の泉の研究は、我が国にとっても大事なことです。小さな子どもにするような過保護さを見せるのは、大人の矜持を刺激するとは思いませんの? 息子は息子でいつまでも子どもですが、一人の人間として扱うべきでは?」

 王妃の言葉はどこまでも正論で、王はうなだれた。

「……すまぬな、ユーフェ」

「私を心配してくださるのはうれしいです、父上」

 しゅんっとしている父親に、ユーフェは優しい返事をした。

(王妃様、王様を尻に敷いているんだなあ。それにしても、笑顔なのに怖い)

 どこでも母親とは強いものらしい。王妃がこれだけしっかりしているなら、ラズリア王国は安泰だろう。

「そうだわ、モリオンさん。漂着物の保管庫があるので、よかったら、一度確認していただけませんか? 特に危険物置き場の扱いに困っているのです」

「構いませんけど……」

 危険物と聞いて、剛樹の返事はあいまいになる。

「私も同席するゆえ、そう構えなくてよいぞ」

 ユーフェがそう言ってくれたので、剛樹はほっとした。

「良かった」

「モリオンを一人で行かせるわけがない。他の銀狼族への恐怖で動けなくなるだろう?」

「……すみません」

 他の銀狼族である国王夫妻を前に、剛樹は縮こまる。

「そうか。動けなくなるほどか。研究者には無礼をしないように注意しておこう。しかし、モリオン。保管庫は国の最重要機密でな。中のことを口外すると、処刑という決まりゆえ、もし約束を守る自信がないなら断って構わんぞ」

 王の忠告に、剛樹は目を丸くする。

(え? 秘密をしゃべったら処刑?)

 剛樹は硬直し、どう返事をするか迷った時、ユーフェが太鼓判を押した。

「それならば問題ありません、父上。モリオンは臆病なので、怖すぎて約束違反などできぬでしょう!」

 そうだろう? という目で、ユーフェがこちらを見つめる。信頼にあふれる純粋なまなざしに、剛樹は苦笑した。

 それはそうだが、それをまるっと肯定するのもどうなんだろうか。

 剛樹は沈黙し、結局、こくりと頷いた。

「約束は守ります。そもそも、ユーフェさんにお世話になってる身なのに、いづらくなるようなことはできませんよ」

「世話になった者を裏切れない、か。良い人間だな」

 王はしみじみとSNS。

 なんだか美化してとられたような気がするが、剛樹が小心者だからに他ならない。

「それから、王太子の婚約披露目のパーティーにも、ぜひ参加していってくれ。後で人族のお針子をよこすから、ユーフェ、頼んだぞ」

「は。かしこまりました、父上」

 ユーフェは慇懃に礼をとる。

(え? パーティー?)

 静かに驚いている剛樹に、ユーフェは目をキラキラさせて話しかける。

「モリオン、どんな衣装を作ろうか。楽しみだな」

「え……?」



 そして、パーティー当日。

 美しく輝くホールで、剛樹は銀狼族風の盛装をして、ユーフェの傍にいた。

 こういった公式行事では、王族や貴族は袖の長い服を着るらしい。どこか日本を思い出させる前あわせの服の腰を帯でとめているのも、ズボンを履くのも一緒だが、布の質ときらびやかさは格段に上だ。

 剛樹は淡い青の上着と白いズボンを身に着け、やわらかい布の靴を履いている。執事に仕度をすると言われて、朝から人族の男性使用人にエステのようなものをほどこされた。男相手でも裸をさらすのは羞恥でしかなかったが、使用人は機械的にてきぱきと仕事をこなした。オイルマッサージをほどこし――若いのに首と肩のこりがひどいとしかめ面され――、無駄毛をそられ、髪と眉を整えられて、フェイスマッサージと肌の手入れまでされた。気が付いたら、服を着せられて、鏡の前に立っていたのだから驚きだ。

(あれだけで少しあかぬけた気がするから、すごいよなあ)

 怒涛の午前中を思い出して、剛樹はため息をつく。かなり有能な使用人に違いない。

 この洗礼はユーフェも味わったようで、ユーフェの毛並みも、ホールの明かりを受けて光り輝いている。銀狼族という名の通り、銀ピカだ。深い紫と白を合わせた衣装をまとっていて、これがまた格好いい。

「どうした、モリオン」

「始まったばかりなのに、すでに疲れていまして……」

「あの身支度は慣れないと大変だよな」

 ユーフェは分かると言って、大きく頷いた。

「それにしても、こんなに大規模なパーティーだとは思っていませんでした。部屋に帰りたいです」

「お前は本当に、人前が苦手なのだな。白鼠族みたいだ」

 ユーフェは呆れたように言い、客のほうを見た。

 そこには真っ白い毛を持つ小柄な鼠の獣人の一団がいて、ビクビクしながら辺りをうかがっている。他にも、おなじみの人族以外に、猫やライオン、ワシに似た獣人を見かけた。

「ラズリア王国は鉱山も所有しているから、豊かな国だと教えただろう? その王太子の婚約者発表だぞ。各国から要人が集まるに決まっている。祝いに来て好感を示しつつ、貿易の売りこみに来ているのだ」

 昔から親しくしている同盟国もあるが、とユーフェは付け足した。

「宙の泉のことも知られているしな」

「えっ、そうなんですか?」

「隠せるものではないからしかたがないが、公開はしていないよ。危険なものも流れ着くと教えただろう?」

 そういえば、恐らく手りゅう弾らしきものを拾った鍛冶屋が爆死したのだったか。

「質問してくる知りたがりもいるから、私の名を出して答えないようにしなさい」

「分かりました」

 ユーフェがフォローしてくれるのは助かる。

 他国の客が多いといっても、大部分は銀狼族だ。こんなふうに大勢の銀狼族が集まる場に来ると、ユーフェが小柄なのがよく分かる。彼が体格を気にして思い詰めるのもしかたがない。

(圧がすごい……!)

 男女ともに背が高く、男のほうは大柄だ。これだけそろうと、剛樹は畏縮してしまう。気のせいか、白鼠族も、じりじりと人の少ない隅へ移動しているようだ。剛樹もそちらに避難しようかと思ったが、ユーフェに止められた。

「モリオン、どこに行く」

「俺みたいなのは、隅のほうにいたほうがいいと思います」

 頭上から大きなため息が降ってきた。

「モリオン、逃げたいのは分かるが、私の傍にいなさい。そのほうが安全だ」

「安全ですか?」

「一人になったところを誰かに話しかけられて、対応できるのか?」

「……」

「沈黙は肯定とみなすぞ」

 剛樹はそれでいいですと頷いた。ろくな受け答えもできずに、しどろもどろになってみっともない様をさらす自信のほうがある。

 それはそれとして、隅というのは吸引力があり、剛樹は無意識にそちらに行かないように、ユーフェの上着の裾をつかむ。

「それでよい」

「……すみません」

「いや、こちらこそお前に嫌な役目を強いている。今のお前は国賓だから、こういった公式行事には顔を出さないと、王家の面子が立たぬのだ。最低限の出席をしたら帰ろう」

「分かりました」

 客だからこそ、礼儀は通さなければならない。

(いじめられるより、我慢するほうがましだ!)

 とにかく大柄な銀狼族が怖い剛樹は、気合を入れた。

「ユーフェさん、公式行事で紫の衣を着ていいのは王家だけなんですよね? こんなに親族がいらっしゃるんですか?」

 会場内には、思ったよりも紫の服を着ている銀狼族が多い。

「ああ。臣籍にくだったとはいえ、フェルネン兄上が正式に国王として即位するまでは、兄弟は王族の扱いだからな。王孫まで入れれば、これくらい多い」

「お孫さんもいるってことは、結婚が早いんですね」

「ああ。銀狼族は十六歳が成人だから、早いとそれくらいには所帯を持つよ」

 剛樹の常識だと、十六歳は高校一年生だ。最近ではそれほど若い年齢で結婚する者は少ないので驚いた。

(でも、こちらは花から子どもが産まれるんだから、出産でのリスクはないのか……)

 ということは、もしかしてこちらの女性には子宮はないのだろうかと不思議に思ったが、そんなプライベートすぎることを誰かに訊く度胸もない。

 ぼーっと考えていると、紫の衣を着た銀狼族がこちらに集まってきた。

「ユーフェ、久しぶりだな!」

「元気そうで良かったわ」

 どこの世界だろうと、親戚の様子はそう変わらないらしい。ユーフェはあっという間に親族に囲まれ、あいさつや質問を投げられた。

「兄上方! 一度に話しかけられても、私には理解できません!」

 しびれを切らしたユーフェが声を上げると、彼らはごめんと謝りながら笑う。フェルネン以外の三人の兄も大柄で、年齢がいくつか離れているらしい。執事が過保護だと言う意味が、剛樹にも分かった。兄嫁も一緒になって、ユーフェを心配しているのだ。子どもならともかく、大人に対してはおせっかいに感じられるほどだ。

「ねえ、このお兄ちゃんは誰?」

 第二王子の五歳になる息子が、剛樹を指さした。それで彼らはようやく、ユーフェの後ろに隠れている小さな人族に気づいたらしい。大人達はざわついた。

「わっ、いつからそこに?」

「最初からいましたよ。こちらはモリオンです。国賓として滞在中です」

 詳しいことは使用人に聞くように言って、ユーフェは簡略な紹介をした。剛樹は首をすくめ、目も合わせられず、頭を下げる。

「モリオンです、ユーフェ様の研究助手をしています。よろしくお願いします」

「助手? 宙の泉の研究の? ええ、新しい婚約者かと思ったのに」

 彼らはそろってがっかりとため息をつく。ユーフェは毛を逆立てて怒る。

「いい加減にしてください! モリオン、庭にでも行こう」

「ちょ、ちょっと待って、ユーフェさん。わあっ」

 親族の干渉に腹を立てたユーフェは、剛樹の手を引っ張って歩きだす。当然、足の長さが違うので、剛樹は転びそうになった。

「すまぬ」

「え? ちょっ、ユーフェさん。これもどうかと思います!」

 いつものようにユーフェの腕に乗せて運ばれ、剛樹はあたふたと抗議する。

 そんな二人を見送って、親族らは顔を見合わせる。

「なあ、あれで婚約者ではないのか?」

「ちょっと期待が持てるかもしれませんわね」

 こりない親族達は、にんまりと含み笑いをした。




 婚約披露パーティーは夜会なので、すでに日は暮れている。

 ガラスのランプがあちらこちらに置かれた庭園は、夜空から星を散りばめたみたいで綺麗だ。

 剛樹はパーティー会場のほうを気にして問う。

「もうすぐパーティーが始まるのに、庭に出ていいんですか?」

「モリオンは私に開始まで兄上達にからまれろと言うのか?」

「しかたがないですね、分かりました。始まるまで、ここに避難していましょう」

 剛樹はすっかりユーフェに同情している。兄達に心配されるのはありがたいことだろうが、あんなふうに子ども扱いして構われるのはうっとうしいものだ。

「ちょっと騒がしいですけど、温かい人達ですね」

「そうだな。王宮では殺伐とした家族関係になりやすいと聞くから、私は恵まれていると分かっているよ。だがなあ、私はもう大人なのだから、放っておいてほしいのだ」

「まあ、それは分かります」

 ユーフェの大きな耳が、ぺたんと寝ている。剛樹は特に彼の言葉を否定もせず、うんうんと頷いた。

 花壇の傍にはベンチがいくつか並んでいる。それに二人で座ると、ホールの様子が見える。明かりとざわめきが遠く、まるできらびやかな夢を覗く観客になった気分だ。

(不思議だなあ。なぜか違う世界に来て、王家のパーティーに参加してるなんて)

 宙の泉があったのがこの国で――最初に会ったのがユーフェで良かったと、剛樹は改めて思う。ユーフェのほうを見ると、彼は夜空に視線を向けていた。

「モリオン、あの空の赤い星が見えるか?」

「赤い星ですか?」

 ユーフェが示す先では、赤い星がくっきりと輝いている。

「南の一つ星といってな。夏になると、南に見えるのだ。この国では『家の星』と呼ばれている」

「家っていう星座なんですか?」

「違う。あれが見えたら、もう遅い時間だから早く家に帰るようにという、どの家庭でも教わることなのだ。もうすぐ収穫期という合図でもある。先祖が実りとともに家に帰って来るのだ、と」

 お盆みたいなものだろうかと、剛樹は日本の風習を思い出す。違う世界でも、似たような考えはあるものらしい。

「よくよく考えれば、私の帰宅にお前を付き合わせていることになる。家に帰りたくなって、悲しい思いをさせたのではないか」

 急にユーフェが星の話なんて始めるのでどうしたのかと思ったら、ユーフェは星を見て、剛樹の状況に気づいたらしかった。気まずそうに、鼻の頭にしわを寄せている。

(傷つくことや億劫なことがあって、ユーフェさんにとって家は気が重くなる場所だろうに。俺を気にかけてくれるんだな)

 彼なりに気持ちが張っていたのだから、剛樹について気づくのが遅くなるのも当然だ。それに、そもそも剛樹は家や家族を見てどう思うかなど、気にしていなかった。

「家に帰りたくないかと訊かれれば嘘になりますけど……。俺はユーフェさんの傍にいるのは楽しいですよ」

 ユーフェの青い目が、びっくりしたように、ぱちぱちと瞬きする。

「楽しいのか?」

「それに、安全なので助かっています」

「そうか」

 ユーフェの耳がピンと立ち、尾が揺れる。うれしそうにこちらに手を伸ばそうとして、はっとして引っこめた。

「どうしました?」

「頭をなでたくなったが、パーティー前にぐしゃぐしゃにしては執事に叱られる」

「あはは、そうですね」

 確かにあの執事ならば怒りそうだ。

「なあ、モリオン。こちらにはネズミ族や人族向けの離宮もある。お前が過ごしやすいなら、王宮に残れるように手配しようかと思っていたのだが……」

「ユーフェさん、俺、いじめられるから嫌だって言ったじゃないですか!」

「私の執事がいれば、そう怖くもないだろうと思ってだな」

「俺が邪魔だってことですか?」

 不安になって問うと、ユーフェは大きな動作で首を横に振る。

「いや。ラズリアの冬は厳しいからな。お前のように脆弱……か弱いと、塔の生活はどうなのかと思ってな」

「ぜ、脆弱……」

 ユーフェは言い直したが、剛樹にはしっかりと聞こえた。ガーンとショックを受ける剛樹に、ユーフェは謝る。

「すまぬ! 悪気はなくてな。ただの事実だ」

「フォローしてるつもりなら最悪ですよ?」

「とにかく、冬の備えはしっかりするつもりだが、無理そうだと思ったら、きちんと主張するように。研究室の改築もしたほうがよいかもしれぬな。考えもしなかった」

「冬服は用意してくれたじゃないですか?」

「住まいのことまで考えていなかったのだ。我ら銀狼族は暑さには弱いが、寒さには強いからな」

 そういえば、床暖房の仕組みは塔のほうにあるのだったか。そもそも研究室は住居として造られた建物ではないから、耐寒性が低いのかもしれない。

「漂着物に、ちょうどいい暖房器具があれば使わせてもらおうかな」

「おお、それはいい。漂着物の研究所には連れていくつもりだったから、そこで探すとするか」

「よろしくお願いします」

 ユーフェはベンチから立ち、剛樹に左手を差し出す。

「そろそろ会場に戻るとしよう」

「はい」

 自然と掴まって立ち上がった剛樹は、わずかに首を傾げる。

「あの……。俺、立つくらいできますよ?」

「ん? 無意識だった」

「俺が小さいから構いすぎているなら、ユーフェさんと同じように、嫌な気持ちにもなりますからね?」

 いくら剛樹が臆病で人付き合いを苦手としていても、生活する分には困ることはない。ユーフェは世話を焼きたい性分みたいだが、あんまり過保護にされるのは良くない気がする。

「怒ったのか?」

「いえ。ただ、俺はここの生活に慣れないといけないんです。独り立ちできなくなったら、困るのはユーフェさんじゃないですか」

「特に困らないが」

「依存されたら嫌でしょう?」

「お前が頼りにしてくれるのはうれしいぞ」

「……?」

 剛樹はけげんに思う。そこはそうだとはっきり言うところのはずだ。どうしてユーフェと会話が噛み合わないのか、理解できなかった。

(普通、生活能力のない人間に居座られるのは迷惑なはずだけど)

 ここまで世話してくれただけでも充分なのに、ユーフェはまったく気にしていないどころか、頼られるとうれしいなんて言う。

(もしかしてユーフェさん、誰にでもこうなのかな……)

 思わぬことに気づいた剛樹は、なぜだか胸の奥がもやっとした。

「俺、ユーフェさんが利用されないように、助手として頑張って守りますね!」

 この傷ついた優しい獣人が、誰かに良いように使われるのは嫌だと素直に思う。

「急に何を言い出すのだ、お前は。たまに意味が分からぬ。異世界人だからか?」

 ユーフェのほうも首をひねってつぶやく。

「まあいい。ほら、行くぞ」

「はい」

 ラッパの音とともに、「国王陛下ご夫妻、ご入場!」と聞こえてきたので、急いで会場に戻る。客にまぎれて、玉座に向けてお辞儀をした。



 国王夫妻のあいさつの後、フェルネンとアレクサが正式に婚約者として紹介された。

 それが終われば、フリータイムだ。

 高位から順番にあいさつをしている間、客は伝手作りをしたり情報交換をしたりと、パーティーで少しでも利益を持ち帰るべく行動を開始する。今回ばかりは、婚約披露の後なので、会場はおめでたい空気に染まっており、客達は浮かれた様子で雑談に花を咲かす。

「王太子殿下とアレクサ嬢の結婚式は、来年の春か。こちらもお祝いの準備をしなくては」

「あなた、王都のドレスショップで礼服を注文しておきましょう」

 式への準備に頭を悩ませる貴族もいれば、純粋に恋愛話をしてはしゃいでいる者もいる。

「本当はすぐにでも結婚したいだなんて、王太子殿下ったら、熱くて素敵よね!」

「元々、アレクサ嬢で内定していただなんて。道理で、あの時、シエナ嬢をこっぴどく振ったわけだわ」

「しっ。あちらにユーフェ殿下がいらっしゃるのよ。静かに!」

 かしましい女性のおしゃべりの中から、剛樹の耳はシエナとユーフェの単語を聞き取った。思わずそちらを振り向くと、視線に気づいた女性達は、そそくさと離れていった。

(シエナって確か、ユーフェさんの元婚約者だっけ)

 ユーフェを愚弄した無礼な女だと、フェルネンが激怒していたのを思い出す。いまだに恐ろしい出来事だ。そりゃあ、噂話が耳に入るのを恐れて、彼女たちが逃げ出すはずだ。

「ユーフェさん、あの……」

 大丈夫だろうかと心配になったが、ユーフェは彼女達の話を聞いていなかったらしい。ちょうど給仕からグラスと菓子の皿を受け取り、剛樹に差し出した。

「ん? どうした。ほら、お前が好きそうな菓子だ。食べるといい」

「ありがとうございます。でも、ええと……」

「帰るのは陛下や兄上達にあいさつしてからだぞ」

「うう。はい……」

 ユーフェが聞いていなかったことに安心したものの、ユーフェは剛樹が帰りたいと言い出すのを、とっくに看破していたのでぎくりとする。

 会場では順番に名前が呼ばれ、玉座にあいさつに向かう人々が見える。そのうち、あの列に加わらないといけない。剛樹はうなだれたものの、ジュースを一口飲んで、目を輝かせる。

「おいしい!」

「お前は本当に、ラズリアプラムが好きだな。ラズリアプラムのジュースだ。王家のパーティーに出されるものだから、最高級品だぞ」

「さ、最高級品……!」

 道理で、びっくりするほどおいしいはずだ。鮮やかな黄桃色のジュースは、ねっとりとした甘みがあるのに、少し酸味があって、後味はさっぱりしている。

 大事に飲もうと決めて、剛樹はちびちびとジュースを飲む。

「小鳥のような飲み方をしなくても、お代わりならたくさんあるから気にするな」

「はいっ」

 ユーフェは途端に笑い出し、皿のケーキはラズリアプラムを使ったパイだと教えてくれた。生クリームの甘さとラズリアプラムの酸味がぴったりで、頬が落ちそうな一品だ。しばらく無言で夢中になって食べ、ジュースをお代わりしたところで、ユーフェと剛樹の名が呼ばれた。給仕に食器を渡すと、二人で玉座のほうへ向かう。

 そして、練習通り、あいさつをつつがなく終えると、剛樹はパーティーからの撤退を選んだ。

(ラズリアプラムのジュースには心残りがあるけど、もう充分味わったから、よしとしよう)

 パーティーで銀狼族や他国の客にいじめられるんじゃないかとおびえていたが、ユーフェの傍にいたおかげで特に問題はなかった。それに、あいさつの時に、アレクサが剛樹を「親愛なる友人」と呼んだおかげか、後方に戻った時には、周りからの視線が少しやわらかくなったような気がする。

(でも、やっぱり早く塔に帰りたい……)

 剛樹はそう思い、ふと自分の思考に引っかかりを覚える。

(帰りたい、かあ。すっかりあそこが家になってるみたいだ)

 あの村で嫌なこともあったが、それでも塔はこの世界での家だ。

(漂着物の研究に役立つように、できるだけ頑張るぞ!)

 それがユーフェへの恩返しにもなるし、剛樹の立場を固めるためにも必要なことだ。

「モリオン!」

「うわっ」

 急にユーフェに名前を呼ばれて左肩を抱き寄せられ、剛樹は驚いた。考え事をしていたせいで、銀狼族の男にぶつかりかけたようだ。

「逃げたいのは分かるが、前を見ないか」

「すみません」

「目を離した隙に、酒を飲んだわけではないな?」

「俺の不注意ですよ」

「ふらふらと危なっかしい。ほら、戻るぞ」

「はい」

 ユーフェに背中をやんわりと押され、人波を縫って、出口に向かう。この時間に帰る客は少ないようで、廊下は護衛兵以外はおらず、静まり返っている。

 しばらく歩いたところで、後ろから鈴の鳴るような声がかけられた。

「ユーフェ王子殿下!」

 背中越しでも、ユーフェの手に強張りが感じられる。剛樹がユーフェの視線を追うようにして振り返ると、淡い青のドレスに身を包んだ、小柄な銀狼族の女性が立っていた。

「シエナ……」

「どうかお願いいたします。一度、わたくしとお話をしてくださいませ」

 シエナは目を潤ませ、膝を折って深々とお辞儀をした。

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