四章 宝石名同盟と、ぶどうの実事件


 それから更に一週間もすると、家具がそろって、剛樹は研究室のほうに引っ越した。

 夕方から朝までは剛樹は一人の時間を持てるようになったが、もふもふとしているユーフェと離れると、逆に寂しくなった。

 剛樹は幼い頃、一人で寝るのを寂しがって、親のベッドにもぐりこんでいた。親が忙しくて留守にしがちで、どうしても怖い時だけ兄のベッドにもぐりこみ、そうでない時は祖母にもらった恐竜のぬいぐるみで我慢していたのだ。

 心細くなって、急にあれを思い出した。

 しかしさすがに十八にもなって、ユーフェをぬいぐるみ扱いするのははばかられる。なんでもいいから抱き枕みたいなものはないかと倉庫を探した。

「クジラのぬいぐるみだ! ジンベエザメの枕もある!」

 大きな引き出しを開けると、ぬいぐるみやおもちゃが保管されていた。引っ張り出してきて、ベッドに積み上げ、なんとか一人ぼっちの寂しさをごまかせるようになった。

 大学生になって家を出たばかりなのに、ゴールデンウィークにはすぐに家族に会いに帰ったのを思い出す。大学を卒業するくらいには慣れていただろうが、剛樹はまだまだ甘ったれな子どもなのがよく分かった。

 ユーフェに子どもっぽいと呆れられるはずだ。

「こんなのも漂着するのか。不思議だな」

 ジンベエザメの枕は最近のものだろう。低反発で気持ちが良い。

 ぬいぐるみに囲まれて寝ていると、朝になっても起きてこない剛樹の様子を見に来たユーフェに笑われた。

「可愛いのが可愛いものに囲まれていると和むなあ」

「十八の男に、可愛いってなんですか」

「人族は小さいから、子どもみたいだ。なんだ、寂しいから幼児がえりでもしてるのか」

「ユーフェさんと一緒にいるほうが安心するんです」

「む。私をぬいぐるみ扱いするな」

 ユーフェはそう言ったが、なぜか毛が膨らんでいる。怒ったのかと顔を見ると、そっぽを向く。

「ユーフェさん、怒りました? すみません。ユーフェさんは温かいし、もこもこふわふわの毛並みに慣れちゃって。……ん?」

 ユーフェの尻尾がぶんぶん揺れているのに気付いて、剛樹は首を傾げる。

「耐えられないなら、戻ってきても構わぬぞ。さ、支度をして、朝食にしよう」

「はい」

 そそくさと出ていったユーフェを見送り、剛樹はある可能性に気付く。

「もしかして、照れたのかな」

 獣人の感情は分かりにくいのだが、犬が尻尾を振るのはうれしい時だったはずだ。邪魔扱いされてはいないようなので、一人が嫌な時はお邪魔しよう。



 ぬいぐるみの名前と分類をするうちに、ぬいぐるみについているタグに書かれた製作年に気付いた。

 時間はばらばらで、年代の新しいものが先に漂着することもあれば、古いものが後で漂着することもあるらしい。

(これはいよいよ、俺が帰るのは難しそうだ)

 何せ、宙の泉につながっているどこかへのルートは、時間軸が定まっていない。どうやら地球の日本周辺らしいのは、タグや使われている言語から分かるが、どこに飛ばされるんだか分からない。

(第二次世界大戦の頃に飛ばされたら、俺、たぶん死ぬよな)

 ユーフェがここに住んでからの記録しか見ていないが、古いものはそれくらいの製造日が書かれていた。ある程度記録をしたら、王宮の保管庫に移すらしく、そちらにはもっと古い時代の物も置いてありそうだ。

(宙の泉には、良いものばかりが漂着するわけじゃないし……)

 そもそも王族が管理し始めたのは、昔、村が管理していた時に起きた事件のせいなんだそうだ。

 鉄の塊があって、溶かして使おうとした者がいた。だが、ピンを抜いた途端、爆発した。そして、その村人は死んでしまった。そこは鍛冶場で、ちょうど火を入れていたのだが、家も爆発で崩れ落ち、火事になった。その上、危うく森林にまで燃え移りかけたのだそうだ。

 他にも、宝飾品が漂着したせいで、発見者と村長の間でもめごとが起き、発見者が殺されてしまう事件もあった。

 そんな事件がいくつか起きて、噂が王宮に届いた。

 王は安全のためにも、宙の泉を王族が管理することに決めたのだ。

 だが、財宝が流れ着いた噂を聞いた者の中には、いまだに宙の泉を狙う者がいる。だから王族の中から代表を選び、ユーフェのように塔に住んで監視し、牽制しているんだそうだ。

 王族は男女どちらも武芸の達人だし、王族に危害を加えれば死罪だ。強盗するには、リスクが高すぎるというわけだ。

(泉に飛び込むのは、もうやめよう。日本に帰りたいけど、俺が帰りたいのは元の時代と場所で、それ以外は嫌だ)

 剛樹は臆病だ。向こう見ずではないから、こんな訳の分からない現象に飛び込む勇気はない。

 ここでの生活に少し慣れ、帰還への諦めがついたから、ほんの少しだけ前向きになり始めた。とりあえず助手の仕事をがんばるつもりだ。

 ユーフェとともにぬいぐるみについての報告書作りを終え、昼食を終えた午後、ガロンガロンと鐘の鳴る音がした。

 ユーフェの後ろから門の外を見ると、剛樹と同じくらいの身長をした銀狼族の少年が立っていた。灰色の上下を着て、青い帯を締めている。獣の足は裸足だ。

「王子様、こんにちは! モリオンを迎えに来ました」

 シスカとバドの長男で、ジュエルだ。金色の目の鋭さはバドとそっくりだが、剛樹にはなついてくれている。この一週間、イルクの家やシスカの家にもお邪魔して、少しずつ外に慣れる訓練を始めた。

「ああ。モリオンは怖がりだし、弱いからな。頼むぞ」

「はい、安心してください。大事な宝石名同盟の同志ですから!」

「はは、そうか」

 ユーフェは剛樹にも気を付けるように言ってから、外へ送り出した。

 剛樹はぺこっと会釈をしてから、森の間の道を歩き出す。ジュエルは剛樹の足の遅さを分かっているので、のんびり歩いてくれる。

 塔を少し離れた所で、ジュエルが含み笑いをした。

「王子様、過保護だよなあ。ほら、見ろよ。まだ、こっち見てる」

「え?」

 剛樹が振り返ると、ユーフェはまだ門の前に立っていた。剛樹が手を振ると、ユーフェは手を振り返して中に入る。

「あ、ばれたのが気まずそうだな。俺、モリオンがここに来たの、王子様には良かったと思うぞ」

「え?」

「大人達が言ってた。王子様は心に怪我をして、癒すためにここにいるんだって」

 ジュエルの言うことを聞いて、ユーフェが王宮にいたくないと話していたのを思い出した。

「家族と仲が悪いとか?」

「そこまで知らないけど、噂だと、婚約者にふられたんだって」

「婚約者も奥さんもいないって……」

「うん。だから、ふられたから、いないんだろ。銀狼族って愛が重いから、失恋しただけで病気になる奴もいるんだぜ。なんか、おっかないよな」

 ジュエルは初恋もまだみたいだ。そして、辺りを見回してから、声をひそめる。

「やっぱり王子様があんなだからだと思うぜ」

「あんなって?」

「大人なのに、小さいだろ。イルクのおじさんくらいが普通なんだ」

「身長が低いってこと?」

「そうだよ。王族なのに、なんかみすぼらしいっていうか、情けないよな」

 ジュエルの言葉に、剛樹はむっとした。

「何が駄目なんだよ。ユーフェさんは良い人だ」

「お、おい、怒るなよ。っていうか、お前、怒ることがあるのか」

「これからずっと、ジュエルって呼ぶからな!」

「エルって呼べってば。悪かったって! もう言わない!」

 ジュエルは慌てて謝った。

 ジュエルは自分の名前を嫌っている。「宝石みたいな子」という意味でジュエルと名付けたシスカの親馬鹿っぷりは微笑ましいが、ジュエルにしてみればキラキラネームで恥ずかしいそうだ。剛樹も自分が名前負けしているから、自分の名前が嫌いだ。気持ちが分かるから、ジュエルの頼み通り、エルと呼んでいる。

 剛樹のあだ名がモリオンだと知り、同志だと言って、ジュエルはすぐに剛樹になついた。二歳年下なのに、兄貴ぶって剛樹の世話を焼いている。

 宝石名同盟とは、宝石名を持つ同志の集まる同盟で、今まではジュエルの兄弟しかいなかったらしい。銀狼族の弟がダイアで、人族の妹がパールだ。村では「宝石三兄弟」と馬鹿にされているとか。

 そこに、王子の助手をつとめる人族の剛樹が加わった。あだ名の名付けが王子だと知って、王族がつけるような風雅な名前だと胸を張ることにしたらしい。ジュエルにしてみれば、剛樹は村の子ども達を黙らせるのにちょうどいい武器なわけだ。

 むすっとしたままザザナ村に近づくと、入り口で十四歳の銀狼族の少年が、七歳の人族の女の子の手を引いて待っていた。

「モリーちゃん!」

 パールがぱあっと明るい顔をして、剛樹のほうへ駆けてくる。銀髪を三つ編みにしていて、前合わせの青色の上着の下に、ふんわりした紺色のスカートを履いている。サンダルには花飾りがついていた。パールは途中でつまづき、べちゃっと転んで、わんわん泣き出した。

「ああ、ほら、だから走るなって言ってるのに」

 ダイアが耳をペタンとさせて、パールの傍にしゃがむ。剛樹みたいにどんくさいので、剛樹はパールに親近感が湧いていた。

「大丈夫? パールちゃん」

「うえぇぇぇ」

 剛樹にしがみついて、パールは泣いている。七歳の子は結構重いので、剛樹には抱っこできない。背中をポンポンと叩いてあげる。

「パールが怪我したら、俺が父さんに怒られるのにっ」

 ダイアはしょんぼりしている。

「パールちゃん、怪我はないから大丈夫だよ。痛かったね。痛いの痛いの、飛んでけーっ」

 剛樹はパールの膝についている泥と草を払ってやり、膝に手をかざして、外に放るしぐさをした。パールはびっくりして、目を丸くする。

「なあに、今の?」

「痛いのを投げたんだよ」

「本当だあ。痛くない!」

 転んだ辺りは雑草がふかふかしていたから、怪我をせずにすんだのだろう。パールはにこっと笑う。

 ダイアがほっと息を吐く。

「助かった」

 ジュエルも安堵している。

「ありがとう、モリオン。パールは泣き始めると、なかなか泣きやまないから助かるよ。母さんも面倒を見てくれてうれしいって」

「シスカさんにはお世話になってるから」

 男同士のカップルでも、父と母で呼ぶものらしい。寝床で女役をしているほうが母と呼ばれているようだ。

「ノンノおばさんが、お菓子を作ってくれたって。皆で食べに来るように言ってたよ」

 ダイアがそわそわと切り出す。うれしいのか、尻尾が小刻みに揺れている。

「うん。それじゃあ、皆で行こうか」

 笑顔になったパールの手を引いて、剛樹はジュエルやダイアとともに村の奥のほうへ歩き始める。

 途中、ジュエルが毛を逆立て、緊張を見せた。なんだろうと思ってそちらを見ると、背の高い銀狼族が立ちふさがっている。黒っぽい銀毛で、水色の目をしていて、ナイフみたいな鋭い印象がある。

「よう、宝石三兄弟じゃねえか。へえ、そいつが王子様の助手になったっていう人族か? 十八って聞いたが、本当か? 俺と同い年にしちゃあ、小さいじゃねえか」

 大きな手が伸びてきて、剛樹は身を固くする。ジュエルが彼の手をはたき落とした。

「おい、気安く触るんじゃねえよ、ロス! 怖がってんだろ! 白鼠族みたいに臆病なんだから、近づくんじゃねーっ」

「ああん、なんだよ、ジュエル。守備隊ぶってんじゃねえ」

「村長の息子のくせに、柄が悪すぎだ。もっと真面目になったらどうだ」

「宝石野郎に言われたくねえよ」

「んだと、こらぁぁぁぁっ」

 どっちもどっちな口の悪い会話をして、二人は掴みあった。ロスが回し蹴りをして、ジュエルがかわして殴りかかる。

 突然、喧嘩が始まってしまい、剛樹はおろおろしてしまう。

「モリオン、パール、今のうちに行くぞ。エル兄とロスは仲が悪いから、巻き込まれたら大変だ」

 ダイアがパールを抱きかかえ、剛樹をうながして、すぐ先にあるイルクの家に逃げ込む。イルクの妻が、ノンノという名前なのだ。

「ノンノおばさん、あれっ」

 慌てている剛樹の声に、ノンノが顔を出す。イルクと変わらないくらいの身長をした女の銀狼族は眉をひそめた。

「あの子達、またやってるの? あなた、ジュエルとロスを止めてちょうだい」

「ああ、分かったよ。ジュエルは良い子なんだが、ロスがかかわると駄目だな」

「ロスが悪いんでしょ。いーい、モリオン。ロスには近づいちゃ駄目よ。村長が甘くて、あの子のことを叱らないから、悪さばっかりしてるの」

 ノンノの注意に頷き、剛樹は事態の行方を眺める。

 イルクが二人を引き離して叱りつける。ロスはしぶしぶという態度で離れていき、ジュエルはその後ろ姿を、毛を逆立ててにらんでいた。



 イルクの子ども達とそろってラズリアプラムのコンポートを食べた後、バドの仕事を見学させてもらってから、シスカの待つ家へと向かう。

 シスカとバドの家の裏には小屋があり、シスカはそこで染物工房をしている。もともと、町で織物と染物の工房で育ち、バドと結婚してからは、村で染物研究をしているんだとか。

「銀狼族はにおいが強いからって、染物をしたがらないんだよ。だから、細々とやってるけど、それなりにもうかるよ。これなんて綺麗でしょ?」

 綺麗な深紅に染まった布や糸を見せ、シスカは楽しげに笑う。

「今度の誕生日にね、お母さんがこの布で服を作ってくれるのよ。お姫様みたいでしょ!」

 パールが胸を張り、シスカや兄弟の顔が微笑ましいものになる。

「パールちゃん、誕生日が近いの?」

「うん。八歳よ!」

「人形って好き?」

「大好き!」

 なるほどと、剛樹は頷く。それならパールへの誕生日プレゼントは人形にしよう。

「あ、モリオン君。町から遊びに来た友達がおすそ分けしてくれたんだ。君にもあげるよ」

「ぶどう?」

「うん。甘酸っぱくておいしいから、おやつに食べて」

 シスカから籠を受け取り、剛樹はお礼を言って、ザザナ村を出た。



 塔に向け、森の間の小道をジュエルと歩いていく。

「もしかして、パールに人形を作るのか?」

 ロスと殴り合いをしたせいで、左頬がはれた顔で、ジュエルが問う。

「いや、裁縫はあんまりしたことないから無理だよ。ボタンを付けるくらい……」

「ボタンを付けられるの? すげえよ! 人族は器用だよなあ。俺、あんな小さいものを持つのは苦手だ」

 ボタンを付けられる程度で褒められた剛樹は、銀狼族の不器用さを甘く見ていたことに気付いた。

「獣人には、ボタンを付けるのも難しいんだね」

「小型の獣人なら別だけどな。銀狼族でそういう服を着てるのは、人族を雇えるか、人族と結婚してる人くらいだよ。それじゃあ、人形にするんじゃないのか。俺はいつも通り、木彫りの人形かな」

「妹に誕生日プレゼントをあげるんだ。えらいね」

「だって、パールが喜ぶと可愛いだろ」

「エルは良い子だね~」

「子ども扱いすんなっ」

 ジュエルは怒ったような声で言ったが、剛樹を放り出さず、塔まで送る辺りは良い子だ。

「俺、絵を描くのが好きだから、紙人形をあげようかなって」

「紙人形?」

「うん。できたら見せるよ」

「パールの誕生日は来週の頭だから、それまでに見せてくれよ。それじゃあな」

 塔に着いたので、ジュエルはすぐにとって返して帰っていった。剛樹は門の脇に垂れている紐を引く。ガロンガロンと鐘の音がした。

 しばらくして、ユーフェが門を開けてくれた。

「おかえり、どうだった?」

「ただいま、ユーフェさん。皆でおやつを食べて、バドさんのお仕事を見学してきました」

「遊んでくればいいだろうに」

「パールちゃんと遊んでますよ」

 パールも剛樹と同じで人見知りするタイプらしいが、剛樹が同類だと分かるのか、兄みたいになついてくれている。末っ子の剛樹は戸惑いつつも、あんなに全力でしたわれると可愛いもので、気付いたら面倒を見ていた。

「お前は無害にしか見えぬからな。幼子がなつくのも分かるぞ。なんだ、その籠は」

「シスカさんがくれたんです」

「村人と親しくするのはいいことだ。お前は大人しいからいじめられやしないかと心配していた。あの宝石名同盟の少年がいるから大丈夫そうだな」

「ジュエル?」

「ジュエルというのか? それは……また」

 ユーフェは言葉を不自然に切った。横顔が不憫そうである。

「弟がダイアで、妹がパール。宝石三兄弟って馬鹿にされてたとかで、俺がモリオンって呼ばれてるから、仲間ができてうれしいみたいですよ」

「まあ、なんにせよ、獣人の友ができたことは喜ばしい」

 門扉に板を渡して施錠すると、ユーフェは塔へ歩いていく。ユーフェが外出する時は、外からも鍵をかけられるようになっているそうだ。

 剛樹は籠を台所に持っていき、かけていた布を外した。つやつやした紫色のぶどうは見るからにおいしそうだ。味見で一つつまんでみる。

「ん、おいしい」

「モリオン!」

「ひゃいっ」

 剛樹は飛び上がった。

 台所の入り口で、ユーフェが恐ろしい顔をしてこちらを見ていた。剛樹の背筋がひやりとして、緊張で喉が引きつる。

「お前、それを食べたのか?」

「え……と」

 ――怒っている。

 頭が真っ白になり、剛樹は硬直した。なんとか声を出して、とにかく謝る。

「あ、あの、つまみ食いして、すみませ……」

「つまり、食べたのか?」

「食べ……ました。ごめんなさい!」

 うなるような低い声が恐ろしい。膝が震え始め、剛樹は逃げを打つ。流し台のほうへ下がったが、ユーフェが一足飛びで距離を詰めた。

「なんてことだ! 早く吐かないと!」

「え? ええ?」

 訳が分からないまま、ユーフェに腕をつかまれた。動きを押さえこまれ、背中を軽く叩かれる。軽いせきは出るが、吐くまでは無理だ。

「げほっ、な、何……」

 どうしてこんな真似をされるか分からない。

 怖くてしかたなくて逃げたいのに、ユーフェの力が強すぎて身動き一つできない。だんだん恐慌状態になってきた。

 ユーフェが舌打ちをした。

 その音に、身をすくめる。

「口を開けろ、モリオン」

「え? んっ、うぐっ」

 ユーフェの手は大きい。二本の指を口に突っ込まれて、剛樹はたまらずえずいた。吐き気がして、我慢できずにその場に嘔吐してしまう。すえたにおいが広がり、吐いた場面を見られたことに、頭が真っ白になった。

「よし、吐いたな」

「……う、うぇ」

「モリオン?」

 手が緩んだ隙にユーフェを突き飛ばし、剛樹は台所から逃げ出した。

「あ、おいっ。待たぬか、医者に行かねば!」

 玄関の扉を開けるのにもたついているうちに、ユーフェに追いつかれて、後ろから抱えられる。

「嫌だ。離して!」

「おい、落ち着け! 無理に吐かせたのは悪かったが、ぶどうには毒があるのだぞ!」

「……どく?」

 その一言に、パニックがすっと落ち着いた。

「急性腎不全を起こして、最悪だと死ぬのだ。どうしてシスカはこんなものをお前にっ」

 後ろでうなり声がして、剛樹はまたぶるぶると震え始める。

「すぐに医者だ! 医者!」

 ユーフェはそんな剛樹にはお構いなしに腕に抱きあげると、一階の部屋の戸棚から鍵を取り出して、塔を出て行く。門に鍵をかけて、剛樹の足だと歩いて十五分かかる道をあっという間に走り抜け、村の医者の家を叩いた。



「ああ、大丈夫ですよ、ユーフェ様。銀狼族や獣人のいくつかには毒ですが、人族には問題ないんです」

 ものすごい剣幕でユーフェに詰め寄られて診察した村医者は、あっけらかんと言った。

「そ、そうなのか……?」

 ユーフェのほうは肩透かしをくらった様子だ。

 剛樹はパニックやら恥ずかしいやらで、うつむいてぐすぐすと鼻をすすっている。

「大丈夫だぞ、モリオン君。怖かったのは分かるが、ユーフェ様は心配しただけだから」

 おっとりした雰囲気で、眼鏡をかけている銀狼族の医者がさとすが、剛樹はとても大丈夫ではない。

 正直、殺されるかと思った。

 それに、ユーフェがその気になれば、剛樹なんかひとひねりなのだという事実をまざまざと突きつけられ、急に目の前にいる狼の獣人が、恐ろしい生き物に見えたのだ。

(良い人で、優しくしてくれたのに。怖い。最悪だ)

 彼の親切への裏切りみたいに思えて、胸が痛い。

「今日はうちに泊まるかい?」

 医者の問いに、剛樹は首を振る。

 ここでユーフェを拒絶したら、元の関係に戻れない気がした。そちらのほうが怖い。

 ユーフェがほっと息を吐く。

「どこかでサンダルを落としたみたいだ。抱えても構わぬか?」

「裸足でいい……」

 剛樹は医者に頭を下げると、ユーフェの傍をすり抜けて出口に向かう。

「お、おいっ」

 おろおろそわそわしている空気を後ろに感じるが、今は傍に近づきたくない。夕日は沈んで、外はすっかり暗くなっている。

 結局、数歩も歩かないうちに、ユーフェに強引に抱えられた。

「下ろしてっ」

「怪我をするから駄目だ」

「だって、俺、くさいし……」

 吐しゃ物が服についていて、剛樹でもくさく感じて、余計にいたたまれない。嗅覚の鋭いユーフェに近付かれたくない。

「私が無理に吐かせたせいだ。悪かった。まさか人族はあれを食べても平気とは」

「すみません」

「謝るのは私のほうだ。書物でも取り寄せて、勉強しよう」

「……すみません」

 手間をかけさせて、申し訳なさで情けない。

「なんで謝るんだ。乱暴をしたと怒っていいんだぞ」

 森の間の小道をゆっくり歩きながら、ユーフェは持て余したように言う。

「だって、俺……」

「うん?」

「ユーフェさんに、殺されるかと。怖くて」

「体の大きな相手に押さえこまれたら、そりゃあ怖いだろう。私はな、銀狼族では小柄なのだ。だから、小さき者の気持ちは、少しは分かる」

 ユーフェの声は沈んでいた。

「家族は皆、大きくてな。私がどれだけがんばっても、兄にはかなわない。腕力も、体力もだ。持久力だって全然駄目で。しかたないから、体格の関係なしに倒せる体術を学んだ。私のとりえは瞬発力しかない」

 どんなにがんばっても家族には勝てない。スポーツ一家で育ち、スポーツに才能がなかった剛樹には、ユーフェの気持ちは痛いくらい分かる。剛樹はとうに諦めていたが、ユーフェはとりえと思えるものを見つけられるくらいには努力したのだ。それだけでもすごいと思う。

「銀狼族は、女ですら、私より大きい者がほとんどだ。二年前まで、私には婚約者がいた。私より小さい女の銀狼族だった。彼女となら……そう思ったんだが」

 自嘲気味に、ユーフェは笑う。

「ははっ、結局、彼女は大柄で強い男を選んだ。よりによって、私の兄を」

「ユーフェさん……」

 話を聞くうちに、剛樹の震えは治まっていた。

 今は、ユーフェの痛いほどの悲しみと自己嫌悪が伝わってきて、なぐさめたくなった。

「王宮にはとてもいられなかった。私は小柄だから、親や兄達は私を守ろうとする。私がいかに矮小な存在か、毎日突きつけられるのだ。私は、誰かを守るほうになりたかった」

 そんなふうに心をずたずたにされても、誰かを守りたいのだというユーフェの言葉に、剛樹は涙を我慢できなかった。

 肩にぎゅっと抱きつく。

「ごめん。ごめんなさい、ユーフェさん。俺を助けようとしただけなのに、俺、どうしても怖くて」

「ああ」

「親切心を裏切ったみたいで。そんな自分も嫌で」

 ぎゅっと額を肩に押し当てて、恐る恐る問う。

「俺のこと、嫌いになりました?」

 しばしの沈黙の後、ユーフェの空気がふっと緩んだ。

「そんなわけがあるか。責めるでもなく、私に嫌われるかを心配していたとはなあ。お前は臆病だが、優しいな」

「違うよ。ユーフェさんが優しいから、返したいって思うんだ」

「……そうか」

 大きな手がぽふっと剛樹の背を叩く。

 その後は特に会話はなかったが、不思議と穏やかな時間が流れていた。

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