三章 異世界での交流


 二日後の朝、イルクが大工屋の夫妻を連れてやって来た。

「紹介します、ユーフェ様。こっちが大工屋の親方で、バド。そっちは伴侶のシスカです」

 驚くべきことに、バドはイルクよりさらに大きい銀狼族だ。鋭い双眸は金色で、左耳の近くにある銀色の毛を三つ編みにして、カラフルなビーズ玉で飾られている。

(銀狼族のおしゃれなのかな)

 ユーフェの後ろから、目を合わせないように気を付けて、ちらちらと様子を見る。

 前合わせの麻の上着は袖なしで、膝丈のズボンを履き、腰に黄色の帯を巻いていた。木の分厚い靴底がついたサンダルを履いている。

 ユーフェが剛樹を振り返り、軽く背を押す。

「ほら、モリオン。隠れていないであいさつを」

「……初めまして。沖野剛樹です」

「「オーキノ・ゴキ?」」

 バドとシスカは声をそろえ、不可解な単語を聞いたというあいまいな表情をする。

(『大きなゴキ』みたいな呼び方をされた……!)

 呼ばれた剛樹は、ひそかに衝撃を受ける。ユーフェが訂正した。

「その発音だと、彼の故郷では悪い意味になるらしくてな、モリオンとあだ名で呼んでやってくれ」

「そのほうが助かります、殿下。助手に雇ったという人族は、彼のことですか?」

 優しそうな声が、そう訊いた。シスカという名の人族の青年は、やんわりした雰囲気だ。二十代半ばくらいだろうか、短い髪とぱっちりした目は灰色だ。バドと同じように、髪の一部だけ三つ編みにして、カラフルなビーズを編みこんでいる。百八十センチは越えているだろう長身だが、バドと並ぶと小柄に見える。頬にそばかすが散っており、平凡な顔立ちをしていた。

「ああ。ちと事情があって、私が後ろ盾をすることになった。いろいろと世俗にうとくてな、奇妙な質問をしたり行動をとったりするかもしれないが、大目に見てやってくれ。私は人族のことは分からぬから、シスカが相談に乗ってやってくれるとありがたい。構わぬか、バド」

 ユーフェの問いに、バドは頷いた。

「構いません。どうやら子どものようですし」

「これで十八だそうだ」

「「十八?」」

 バドとシスカの声が、再び重なる。どうやら気の合う夫婦らしい。だが、剛樹は不思議でしかたがない。

「あの……夫婦って。バドさんとシスカさんは、どちらも男の方じゃ?」

「うん、そうだよ、モリオン君。それがどうしたの?」

「えっ。ええと……なんでもありません」

 シスカの平然とした態度に、剛樹は慌てて身を引いた。ここが異世界だと思い出し、うかつなことを聞いてはユーフェに迷惑をかけるのではと思ったのだ。

(後でユーフェさんに訊いてみよう)

 首をすくめて、ユーフェの後ろに戻ってしまった剛樹の様子に、シスカは首を傾げている。

「まるで野兎みたいに臆病な子だね」

「イルクが白鼠族と思って接しろと言っていた理由が分かったな。まあ、礼儀正しい奴じゃないか。王子様の縁者ですか? 銀狼族の礼儀をよくわきまえている人族のようですな」

「いや、バド。モリオンはただ人見知りで怖がりなだけだ。少し事情があって、私が面倒を見ることになった。深くは問うな」

 ユーフェが困り顔で言ったので、大工屋夫妻がハッと顔を見合わせ、緊張を帯びた空気になった。なぜかシスカが気の毒そうな表情になる。

「そうですね。過去の傷をえぐってはかわいそうです」

「ここで癒されるといいな」

 な、なんか二人が勘違いしている……!

 いつの間にか、剛樹は「過去にひどい事件があって、心に傷を負ってやって来た人族」扱いになっていた。

(人見知りも怖がりも、ただの俺の性格なんです、ごめんなさい!)

 同情の視線に罪悪感を覚えるが、二人が良い人のようだということは分かった。

「あの……よろしくお願いします」

 ぺこっと会釈すると、二人は優しい目をして頷く。

「ああ」

「困ったことがあったら、僕達を頼っていいからね」

 ああ~、その優しさが胸をえぐる~!

 引きつった笑みを返す剛樹を、唯一事情を知るイルクが生温かい目で見ていた。

「なにぶん、急にやって来たのでな。日用品から家具まで、何も足りていないんだ。ひとまずバドには家具を注文したい。それから、シスカは服から日用品まで見繕ってくれ。町に行くのは怖いそうでな、できればシスカに同行してやって欲しいのだが」

「ユーフェ様、町にトラウマがある子を行かせるなんてかわいそうですよ。とりあえず今日は僕のお下がりを持ってきて、明日にでもバドと町まで代わりに買い出しに行ってきましょう」

「では、後で金を渡すから、足りなければまた言ってくれ」

「はい」

 謎の勘違いのおかげで、剛樹は町に行くことを回避できたようだ。シスカは気遣って問う。

「でも、モリオン君。冬着はどうしてもサイズを合わせたほうがいいから、その分は町に行こうね。少しずつでいいから、まずは村から慣れて……。僕の家に遊びに来てもいいし。息子と友達になれたら、もっといいんだけどな。長男が君より二歳下なんだよ」

「息子? えっ、十六の息子がいるの? 二十五歳くらいじゃ……」

 驚く剛樹に、シスカは噴き出した。

「それはさすがに盛りすぎだよ。三十三だよ、僕」

「三十三~~~~!?」

「そんなに驚く? 童顔とは言われるけど……」

 シスカがバドを見上げ、バドは首を振る。

「俺を見るなよ。人族の年齢は分かりにくい。俺は三十五だぞ」

 バドは年相応といった雰囲気だ。

「大丈夫だよ、モリオン君。君も十三くらいにしか見えないから」

「……すみません」

 若く見えるのを気にしていたのかもと、剛樹は悄然と謝る。

「えっ? あ、嫌味じゃなくて、事実だよ」

「…………」

「やめとけ、追いうちだ」

 バドがシスカを止めた。子どもっぽいと言われているみたいで落ち込むが、剛樹は特に言い返さない。

 イルクがゴホンと咳払いをした。

「あー、なんだ、とにかく、仲良くやってくれな。さ、まずは家具を置く場所の確認と行きましょう。ユーフェ様、俺は研究室は入れないので、立ち会ってください」

「もちろんだ。さ、こちらだ」

 バドとシスカは荷車から道具を取ると、ユーフェの案内で倉庫に向かう。剛樹もついていくべきなのか。迷っていると、イルクに呼ばれた。

「モリオン、朝食の準備を手伝ってくれないか」

「はい」

 バドとシスカより、イルクのほうがまだ慣れている。少しほっとした剛樹は、イルクを手伝うことにした。荷運びをしようと思ったが、どれも重すぎて持てない。

「あー、テーブルを拭いたり、皿を運んだり、そういうのでいいよ」

「すみませ……、いえ、そうします。ありがとう」

 ユーフェに謝りすぎは良くないと注意されたのを思い出して、急いで言いかえる。できる範囲で手伝うことにした。



 バドが必要な家具の長さや、剛樹の身長や腰の高さ、膝丈なども測っている間、シスカはお下がりの服を取りに帰ってくれた。

「染めなおして着ていたんだけど、結構ボロくってねえ。間に合わせだけど、ないよりいいでしょう? 新しい物を買ってきたら、こっちは引き取らせてもらうね」

 シスカが謝って差し出したのは、緑色の半袖の上衣と、深緑の下衣だ。黄色の帯も添えられている。下衣はズボンで、腰のあたりに紐が通っているので結んで固定する。その上に膝丈まである上衣を羽織、腰を帯で締めるのだ。見た目は和服と似ている。

 着古しているおかげで綿の布地が柔らかく、肌触りがいい。しかしシスカが申し訳なさそうにするのも当然で、袖や襟は擦り切れていた。

「物を大事にする人なんですね」

 着慣れたものというのは着心地が良いから、つい手元に残してしまうものだ。剛樹にはシスカの気持ちがなんとなく分かる。

「え? へへ、そうなんだよ。ありがと」

「シスカのはケチっていう……いてえっ」

「うるさいよ、バド」

 シスカにすねを蹴られてバドが悲鳴を上げている。

「お借りします」

「そんなにかしこまらなくていいって。それじゃあ、またね」

「椅子だけは調整に来るからよ。人族って小さいから、高さを合わせるのが難しいんだよな」

 そして大工屋の夫妻は帰り、剛樹はユーフェと遅い朝食にありついた。食事の席で、剛樹は質問をぶつける。

「あの、ユーフェさん」

「なんだ?」

 今日もガツガツと食べながら、ユーフェがこちらを見る。

「大工さん、夫婦って言ってましたけど、どちらも男ですよね?」

「それがどうした?」

「ここ、もしかして、女の人がいない……?」

「いるぞ。イルクの妻は女の獣人だ」

「そ、それじゃあ、ええと」

 混乱してきた剛樹はお茶を飲んで落ち着こうとして、逆にむせた。

「げほっごほっ」

「どんくさい奴だな。何を慌てている。どうした?」

「同性で結婚するのは、ここでは普通なんですか?」

 思い切って問うと、ユーフェはけげんそうにする。

「そうだが、それがどうした」

「普通なのか。それじゃあ、シスカさん達の子どもは連れ子で、再婚ってことですかね」

 十六の子どもがいるなら、バドが十九歳の時の子ということになる。それでも早婚だ。台所から、イルクが顔を出す。

「あの二人は再婚じゃないぞ、モリオン。初婚だ」

「あ、それじゃあ、養子」

「二人の子だぞ」

「ええ!? ということは、男の人でも産めるってこと?」

 するとイルクだけでなく、ユーフェまで笑い出した。

「ははは、何を言ってるんだ、モリオン」

「卵を産むのは鳥と魚、爬虫類、両生類だけだろうに」

「卵? え? 意味が分からないんですけど」

 どうしてそこで卵の話が出てくるのか。剛樹はめまいがしてきた。ユーフェはそこでようやく剛樹とかみ合わない会話の理由に気付いたようだ。

「もしや、お前の世界では、人間や動物は、花から生まれるのではないのか?」

「は、花~~!?」

 仰天のあまり、剛樹は椅子から転がり落ちた。



 それから、ユーフェはこの世界での命の誕生について教えてくれた。

 この世界では、吉祥花きっしょうかというものがあり、伴侶となった者達の祈りが通じると、花が咲いて赤子が生まれる。

「吉祥花は綺麗な水が湧く場所なら、どこにでも生えている」

「そんなすごい花がどこにでもあるの!?」

「でないと、子作りできぬだろう」

「ええ……、そう言われても」

 貴重な花ではないのが、不思議すぎる。

「吉祥花を神の花と祀る教会はあるが……、それはさておき。場所が限られているなら、野生動物はどうやって増えるんだ? 一部以外は、吉祥花から生まれるんだぞ」

「うーん、納得できるようなできないような。ええと、お話を進めてください」

「ああ。まず、森でつぼみのついた花を探し、鉢に入れて持ち帰る。それから十日、毎晩、つぼみの傍で祈り、夫婦の交わりをする。祈りが通じれば、花が咲き、二人の特徴を継いだ赤子が生まれるのだ」

 剛樹はすかさず手を挙げる。

「それって、無理矢理だった場合は、赤ちゃんは……」

「できない。どうしてかは知らぬが、二人が本気で子どもを望まなければ、子は生まれない」

「それじゃあ、政略結婚とか、親に無理に結婚させられたら、子どもができないんですね」

 気持ちがなければいけないのなら、どうしようもない。想像すると気の毒だが、なんとも不思議だ。

「結婚は双方の同意がなければできないが、それを破る者はいるな。まれに権力者が、相手の弱みを握って、子ができなくてもと結婚することはある。親戚から養子をとるのは、そういった時だけだ」

「側室とかめかけとかはとらない?」

「愛人ということか? この国では愛人も重婚も法律で禁止されているが、他国は違う。獣人によっては、ハーレムを作る者もいるようだぞ。妻が複数いても子が産まれるのだから、よほど夫の甲斐性がいいのだろうな。銀狼族ではありえぬ話だ」

 呆れを含んだ感心といった声で呟き、ユーフェは鼻の頭にしわを寄せて、ぶんぶんと頭を振った。まるで汚らわしいとでも言いたげだ。

「南方のほうにいるのだ。獅子族というのがな」

「獅子ってことは、ライオン?」

 ユーフェは重々しく頷く。

「鳥は卵を産むんなら、鳥系の獣人は……?」

「ああ、言いたいことは分かるが、獣人も人族も人間というくくりだ。人間は、吉祥花からしか生まれぬ。鳥系以外では、トカゲ族や魚人なんかも吉祥花からだ」

「魚人もいるの?」

「水底に国があるらしいが、港湾都市でもない限りは見かけぬよ。この国ではまず見ない。彼らは乾燥に弱いからな」

「面白いなあ」

 一度でいいから魚人に会ってみたいと、剛樹は好奇心をひかれた。絵に描いてみたい。

「花から生まれぬのなら、モリオンの世界では、どうやって子をなすのだ?」

 ユーフェの純粋な問いに、剛樹は困った。こんな話を真面目にするのは、保健体育の授業以来だ。しどろもどろながら、女性器と男性器の話をして、卵子と精子のことも伝える。

「ううん? つまり、そちらは卵から生まれるのか?」

「え!? 生まれるのは赤ちゃんだけど、そうだよね、卵……なのかな」

 他人が苦手なせいで、彼女いない歴イコール年齢の剛樹は、子作りのことなんて真剣に考えたこともない。首を傾げるしかなかった。

「ああ、悪かった。お前は医者ではないのだから、詳しくはなかろうな。とにかく、その、セイリ? というのは女性にはないが、愛液や精液はあるぞ」

「へ、へえ」

 堂々と下ネタを口にされ、剛樹は真っ赤になって目をそらす。ユーフェが笑い出した。

「くっくっくっく。十八だというのに、うぶな奴だな。しかし、朝食を食べながら話すことでもないか。とりあえず食べてしまえ」

「はい」

 剛樹は根菜たっぷりのスープをかきこんだが、なんとなく味がしなかった。精神的にいっぱいいっぱいである。

 ちなみに、ミルクのような栄養満点の蜜を出す花があって、赤子にはその蜜を飲ませて育てるらしい。これも森に行けば生えているし、鉢植えでも育てられるものなんだとか。

 赤子以外には、蜜は渋く感じるようで、食材にはならないらしい。

 よくできている世界である。

 食事を終え、茶を飲んでいると、ユーフェがこちらをじっと見ているのに気付いた。

「なんですか?」

「いや、そういえば注意するのを忘れていたのだがな」

「はい」

「大丈夫だとは思うが、ここの敷地の外に出る時は、よく気を付けるのだぞ。銀狼族はこれぞと思う相手以外には見向きもしないのだが、たまに例外がいてな。婚前交渉もいとわず、遊ぶ者もいるのだ」

「はあ……」

 ひとまず頷いた剛樹は、ユーフェが何を言いたいのか理解するや、目を丸くした。

「は!? もしかして、俺に襲われないように気を付けろって言ってます!?」

 ユーフェはこっくりと大きく頷いた。剛樹はぶんぶんと首を振る。

「いやいやいやいや。俺、男ですよ!」

「結婚と子作りに、性別は関係ないと言っただろ」

「根暗なぼっちです!」

「ぼっち?」

「一人ぼっちでいる奴って意味です」

「一人でいるような者なら、カモにちょうどいいだろ。悪い者は、弱そうな者を選ぶのだ」

「え? あ……確かに」

 そういう視点で見ると、剛樹は思い切り獲物候補になる。さあっと青ざめた。

「出かける時は、イルクやシスカの傍を離れぬようにな。村は大丈夫だろうが……」

「は、はい、気を付けます」

「人族は小さいから、獣人のなぐさみものにされると、体を壊して死ぬ者もいるそうだ。だから、人族は獣人を恐れる。獣人を嫌って、鎖国している人族の国もあるくらいだ。――ああ、心配だ。お前はどんくさいから、逃げられると思えぬ」

 そんな国もあるのかと頷いていた剛樹は、ユーフェの心配のしかたが失礼すぎて、首をすくめた。

 しかし否定できない。運動音痴なので、足も遅いのだ。

 いろんな意味でカルチャーショックを受け、その日、剛樹はぼんやりして過ごした。




 パチン、パチッ、パチン

 耳にさわる何かを弾くような音に、剛樹の意識はまどろみから浮上した。

 小さな窓から降り注ぐ朝日を頼りに、ユーフェが爪を切っている。

 家具や寝具がそろうまで、剛樹はユーフェと同じベッドで寝ていた。王子というのは、もっとのんびり過ごすものかと思っていたが、ユーフェの朝は早いし、規則正しい。

(あ、今日で一週間だ)

 異世界に来てからの日にちに気付いて、剛樹はなんとなくしんみりした気持ちになる。

 たった一週間なのに、もう半年近く経ったような懐かしさすら感じた。

(皆、どうしてるかな)

 剛樹がいなくなったことで、テレビや新聞、ネットで変な噂にされてはいないだろうか。望んで来たわけではないが、家族の生活が滅茶苦茶になっていたらと思うと、胃の辺りがキュウッと痛む。

 じんわりと涙がにじみ、すんと鼻をすすると、ユーフェがこちらを振り返った。

「なんだ、泣いているのか」

「……いえ」

「涙のにおいがするぞ」

「分かるんですか?」

「ああ」

 そんなにおいも分かるのか。狼の獣人というのは、嗅覚が鋭いらしい。

「今日で、一週間だなって」

「……寂しいな」

 返事の代わりに、剛樹の目から、ポロッと涙が零れる。

 寂しい。悲しい。頼りない。

 手を放したら飛ばされてしまう風船みたいな、そんな心地がする。

「不安定になるのはしかたがない。一人になりたいか?」

「いえ、一人のほうが寂しい」

「そうか」

 だってこの部屋は獣人向けで、天井は高いし、とても広い。ここに一人でいると、ぽつんと取り残された気分になる。

 剛樹は涙を袖でぬぐうと、ユーフェの隣に移動した。爪切りの形はよく見るものと同じだ。短く切って、丁寧にやすりをかけている。足元にはゴミ箱を置いていた。

 ユーフェが大きな体を丸くして、足の爪の手入れをしているのを見て、剛樹はなんとなく名乗り出た。

「俺がやすりをかけてもいいですか?」

「いいか?」

「なんだか窮屈そうですよ」

「ああ、手の爪ならいいんだが、足はどうも苦手でな。だが、お前が隣で寝ているから、怪我をさせてはまずいだろう?」

 朝っぱらから手入れを始めたのが剛樹のためだと分かり、剛樹は薄く笑った。

「ありがとう、ユーフェさん」

 言葉ははっきりしていても、この世界で、剛樹を一番気遣ってくれるのは彼だ。だんだん家族に対する親しみのようなものを抱き始めていた。

「うむ」

 照れ交じりに返し、ユーフェはシーツの上にタオルを敷き、そこに足をのせた。剛樹はその前にあぐらをかいて、やすりをかけていく。ショリショリ、サリサリ。丸くすると巻き爪になるから、四角になるように平らにする。全て終わらせると、ユーフェは心地良さそうに目を細めていた。

「爪の手入れは面倒だが、お前がすると気持ち良いな」

「へへ、こんなことならいつでも言ってください」

「いやいや、使用人扱いする気はない。だが、その誘いには心惹かれるな。言葉に甘えるやもしれぬ。その時は頼もう」

「はい!」

 剛樹は返事をすると、タオルをゴミ箱の上で振って、爪のくずを落とす。

 それからシスカから借りている服に着替えた。シスカも身長があったので、これでも剛樹には少し大きい。恐らく七分丈だっただろう袖が長袖みたいだ。なんとか着られるだけいい。

「よし、着替えたな。さ、下に降りて食事の用意をしよう」

「あ、ありがとう」

 ユーフェはそれが普通という様子で剛樹を腕に座らせ、足音も立てずに階段を下りていく。足音がしないのは、肉球のおかげだろうか。

 今日はイルクが来ない日だ。

 水汲みや火を使うのは剛樹には危ないからと、ユーフェにはテーブルを拭くことと、食器の用意を頼まれた。テーブルだって獣人サイズなので、拭いて回るだけで一仕事である。

「踏み台があると良さそうだな」

「はい……すみません」

「謝らなくていい。人族向けではないのだから、しかたがない。椅子に座るだけで大変そうだな」

 ユーフェの言う通りで、椅子によじ上った後、今度はテーブルが遠いので、クッションを重ねて座っている。これを繰り返すだけで、体を鍛えられそうだ。

 パンとスープの簡単な食事を済ませたら、畑の世話をして、宙の泉に向かう。

 今日はパイプのようなものがあった。水面に頭を突出し、斜めに沈んでいる。

「また、これか。これで三本目だな」

 ユーフェはうんざりした声で呟き、パイプを引っ張って地面に出した。底からあらわれたそれを見て、剛樹は目を丸くする。

「あっ、これ、手押しポンプだ」

「おお、何か知っているのか、モリオン」

「井戸で水を汲むのが楽になる道具ですよ。アニメで見たことがあって。ええと、確かここに呼び水を入れて……」

 泉にパイプの底を入れてもらい、斜めになっているものの、手押しポンプを出した状態で、ユーフェに支えていてもらう。そして、剛樹は手桶に水を汲んで、上から流し込む。

「これはなんの意味があるのだ?」

「えっと、パイプの中の隙間を水で埋めて、真空状態にしないといけないって……」

「真空?」

「空気がないことです。水を吸い込むので、空気を抜かないといけないんです。確か」

 水を入れてから、手押しポンプを動かすと、何回目かでガスッと音がして、水がバシャッと出てきた。

「うおっ」

「ほら、出た!」

「これはすごい。おおー、井戸業界の革命だぞ!」

 ユーフェは面白がって、手押しポンプを何度も動かして水を出した。本当はまっすぐ立てて固定するのだと教えると、ユーフェは急に慎重になった。

「そうか。壊してはいけないから、試すのはやめておこう。他にも二つあるからな、二つを王宮に送って、一つは分解して職人に仕組みを理解させよう。しかし、どう説明したものか」

「俺が図を書きましょうか」

「おお、お前は絵が描けるのだったな。では、さっそく報告書を書こう。その前に、王宮に手紙を出すか」

 手押しポンプとパイプを丁寧に地面に横たえると、ユーフェは足早に宙の泉を出ていく。どうするつもりなのかと追いかけると、ユーフェは研究室で手早く小さな手紙を書いて筒に入れると、研究室兼倉庫の裏に向かった。そこには鳥小屋があった。黒い目玉がギョロッとした、白い鳥が入っている。グロテスクな白鳥といった感じだ。全然可愛くない。

「な、なんですか、この鳥……」

「伝書鳥のグーグだ。ほとんど鳴かなくて、賢い。帰巣本能が強い習性を利用して、手紙を運ばせるのだ。三日もあれば王宮に着くから、荷物の引き取り手を寄越してもらう。お前のことを報告するために留守にしていたが、ちょうど昨日になって戻ってきたのだ」

 ユーフェはグーグの脚に鉄筒を固定すると、鳥小屋から出した。

「一日休んだから、もう大丈夫か? 働かせてばかりで悪いが、また王宮まで飛んでくれ」

「グゥ」

 グーグは短く鳴いて、翼を広げる。バサッと空へ羽ばたいた。

「よし、では報告書作りをしようか」

「はいっ」

 故郷のことを思って寂しくても、こうして役に立てると、少し気持ちがマシになる。

(俺、日本にいた時より役に立ってるかも……)

 そのことは、分からないことばかりの毎日の中で、なぐさめになっていた。

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