二章 異世界での生活
寝こんでいた剛樹が起き上がれるようになった頃、広々とした倉庫兼研究室で、異世界漂着物を記録していたユーフェは、門の外でガロンガロンと鳴り響く鐘の音を聞きとった。
門のほうへ行くと、見知った者のにおいがする。
ユーフェが門扉を開けると、荷車の傍で、大きな銀狼族の男が帽子を脱いでお辞儀をした。近くの村に住む者で、通いの使用人である。名はイルクといった。
「おはようございます、ユーフェ様。料理をお持ちしましたよ」
「おお、ありがたい」
「中に運びますね」
「頼む」
イルクは慣れた動作で、荷車から荷物を持ち上げ、塔の一階にある台所へ運んでいく。二日分の料理やパンを納めた木箱、スープがたっぷり入った大鍋、鋼木の薪など、あっという間に空になった。
イルクは二日に一度は食べ物や料理を運んできて、洗濯や掃除、畑の世話などの雑用をしてから帰っていく。料理はイルクの妻が作ったものを持ってきてくれていた。
狼の獣人は伴侶を大事にする。いくら王子の身の回りの世話といっても、独身男の一人住まいに、嫁を仕事に出す夫はいない。
料理を温めなおすくらいはユーフェにもできるので、それで問題ない。最も不得意なのは洗濯だから、いっそ雑用はそれだけでも構わなかった。
荷を運び終えたイルクが部屋から出てきたところで、ユーフェはイルクを呼び止める。
「イルク、次からは料理をもう少し増やしてくれるか」
「え? 量が足りなかったんですか?」
「いや」
イルクは口が固いので、ユーフェは剛樹を助けた話をした。
「そういうわけだから、村人に小遣い稼ぎをしないかと声をかけておいてくれ。まずは二階の部屋の片付けから……」
聖なる泉から現われた人族。そんな変わった者に興味をひかれる輩もいるだろうから、念のため、イルクには剛樹がどこから来たのかは、妻以外には伏せるように命じて、村人には助手を雇ったと伝えるように言う。その上で、手伝いを頼むことにした。
「ユーフェ様、その人族っていうのは、後ろのあれですよね?」
イルクが指差すので、ユーフェは振り返る。
剛樹がそろりそろりと階段を下りてくるところだった。塔の階段は剛樹のような人族には大きすぎるらしく、まるで岩山を下りるみたいだ。慎重に足元を確認している。
「…………」
「…………」
ユーフェとイルクは顔を見合わせる。ユーフェは無言で驚いていた。そういえばトイレの時など、不調だからとユーフェが塔の下へ運んでやっていたから、剛樹が自分で上り下りするところを見ていない。
イルクが苦笑とともに提案する。
「ユーフェ様、二階より一階のほうがいいのでは?」
「……ああ、そうだな」
なんとか一番下に着地した剛樹は、二人がこちらを見ていることに気付いて、けげんそうにした。
◆
イルクはくすんだ銀毛を持った獣人の男だ。
ユーフェでも大きいと思ったのに、二メートルを越す巨体の持ち主に見下ろされ、剛樹は当然のように震えあがった。素早くユーフェの後ろに隠れる。
(左目の切り傷なんて、歴戦の猛者にしか見えないよ……)
鋼木の林の向こうにあるザザナ村の住人らしいが、とても村人に見えない。
「このちんまいのが、泉に流れ着いたんですか。普通の人族のようですね」
「ああ。だが、便利な道具が多い世界で暮らしていたとかで、生活する上で分からないことが多いようだ。何か困っていたら、教えてやってくれ」
「はい」
イルクは頷いて、剛樹に名乗る。
「俺はイルクっていうんだ。よろしくな、人族の男」
「俺は沖野剛樹といいますが、ここの方には呼びづらいそうなので、モリオンというあだ名で呼んでください」
「分かった、モリオン。なんだ、人族にしては礼儀正しいじゃないか」
怖くて目を合わせられないでいるのに、何故かイルクは感心した様子で言った。ちらっと見ると、イルクは正面ではなく横向きに立っている。
「礼儀正しいって何が?」
「人族ときたら、狼族に向かって、正面から目を合わせてくるんだ。あれはこっちでは喧嘩を売るって意味になるんだ。横から話しかけるか、目を合わせないのが礼儀だ」
「そうなんですか……」
巨体がおっかなくて目をそらしていただけなのに、たまたま銀狼族のマナーに合っていたらしい。驚きのカルチャーの差である。
(そういえばユーフェさんも、最初に話しかけてきた時は横からだったな)
扉を開けたら外にいたのは、たまたま部屋に入ろうとしていただけだろう。あの後、剛樹が尻餅をついて、転んで頭を打っていたから横に来たのだと思っていたが、あれはマナーだったのか。
「イルク、人族は私達のように鼻がきかないんだ。だから目を見て判断するらしいぞ」
「それでもだまされるでしょう、人族って。難儀ですなあ」
かわいそうにというイルクの言葉に、確かにそうだなと、剛樹も頷く。
「モリオン、いずれ村に行くこともあろう。初対面の銀狼族には、できるだけ遠くから話しかけたほうがいい。よそ者を警戒するからな。それから、いつものようにしておけば大丈夫だ」
「はい、分かりました、ユーフェさん」
剛樹が素直に頷くと、イルクが注意する。
「駄目だぞ、様をつけないと。ユーフェ様は王子なんだからな」
「構わん、イルク。助手にするが、聖なる泉に現れたのだから、神が寄越した客人だ。家族だと思って接するつもりだ」
「ユーフェ様が構わないんなら、俺はいいんですがね」
イルクは意外そうに返す。剛樹はユーフェに恐る恐る問う。
「家族……? 俺のこと、養子にするんですか?」
「まさか。私はお前より二歳年上だぞ、養子になどするか。弟のように接すると言っているだけだ。王子として保護をすると言っただろう? 後見人といえば分かるか?」
「保護者のことですか?」
「そうだ」
「分かりました。でも、ユーフェさん、俺と二歳しか変わらないんですか? 大人ですね……」
「お前が子どもっぽいだけだ」
なんとも突き刺さることを言うが、ユーフェに比べれば、たしかに剛樹は幼く感じられるだろう。体格だけでなく、精神的にも。
「さて、と。その様子では二階は大変そうだから、一階をお前の部屋にするつもりだが、ここは台所と居間兼食堂、それから風呂場があるのだ。出入りがあるから、落ち着かないだろうな……」
うなるユーフェに、イルクも同意する。
「確かに、一人の空間は必要でしょうな。急に環境が変わったんなら、尚更ですよ。同じ一階なら、研究室のほうがいいのでは?」
「あそこにも暖炉はあるから、大丈夫だろうか。隙間風を塞いでおかないとな」
「それも含めて、大工に頼みましょう。家具の長さなんかも測らないといけませんし」
「そうだな」
剛樹がぽかんとしているうちに、話が進んでいく。
「あ、あの、俺、台所でも……別に……」
「はあ? 駄目駄目! 一人部屋は必須だよ。どんなに狭くても、一人につき一部屋を用意するのが普通だ」
イルクはとんでもないと言い張る。
「え……でも……居候なのに、悪いし……」
ごにょごにょと言い訳するが、イルクは首を振る。
「それで気疲れして体調不良になるんじゃあ、意味がないだろう。俺達、銀狼族はテリトリーを大事にするからな。自分だけのテリトリーっていうのが必要なんだ。伴侶は別だけどな。同じ巣を共有する……まさに愛の巣!」
なぜか急にテンションが上がったイルクは、拳を握って力説した。
「あ、愛……の巣」
面食らいながら、剛樹は繰り返す。
「イルクはこんな顔だが、愛妻家なのだ」
ユーフェが剛樹に教えた。
「まあ、イルクだけではない。獣人にも色々いるが、狼族は伴侶への愛が深い。一度、番を持ったら、死ぬまで連れ添う。浮気などありえん」
「情熱的な一族なんですね?」
剛樹は当たり障りのないことを言った。正直、純愛のまま共に過ごすというのはうらやましい。
「そう! その通りだ。礼儀正しいだけでなく、よく分かっているじゃないか。モリオン、お前のことを気に入った。今度、家内に会わせてやろう。村も案内してやるから、楽しみにしていろよ」
うれしそうにパタパタと尻尾を揺らし、イルクが大きな右手を剛樹のほうに伸ばす。
「ひっ」
思わず首をすくめると、ユーフェが割って入った。
「イルク、怖がっているからやめろ。私にもやっと慣れたのだぞ。最初など気絶されたのだからな」
「すみません、ユーフェ様。モリオンも悪かった。これからは白鼠族だと思って接するからな」
「はあ……」
よく分からないまま、剛樹は生返事をする。
「動きは素早いが、気が小さくて体も小さい獣人だ。体の大きな獣人を怖がるところが、お前とそっくりなのだ」
ユーフェが教えてくれて、そういう意味かと納得した。
「怖がってすみません。よろしくお願いします」
「おう! 風邪で寝込んでいたのだろ、具合はどうなんだ?」
「もう大丈夫です。あの、俺、ちょっとトイレのほうに……」
一階まで下りるのに時間がかかったので、結構ぎりぎりだ。そわそわする剛樹を見て、イルクは横にずれて道をあけてくれた。
塔から少し離れたトイレは小さな小屋だ。三段の階段を上り、扉を開けると、部屋の真ん中に溝があいている。下に桶が置いてあって、それをときどき運び出して、森の中にある共同の廃棄場所に捨てるんだそうだ。
すると、そのうち大きなハエがやって来て、卵を産み付けるので、糞を食べてしまうらしい。ユーフェが大きいと強調するようなハエがどんなものなのかが気になる。怖いもの見たさだ。
用を終え、井戸で手を洗ってから戻ると、玄関前にいたユーフェに手招かれた。
「モリオン、朝食にするぞ」
「はい!」
「もう大丈夫そうなら、今日から研究室に入ってみるか?」
「研究室……? あ、異世界漂着物の?」
この塔は三階建てで、二階は物置だと聞いていたが、他に研究室らしきものを見た覚えがない。もちろん、銀狼族の三階なので、剛樹にとっては五階くらいに感じる高さだ。
剛樹が上を見たからか、ユーフェは庭にある倉庫を指差した。
「あれだ」
「妙に広い倉庫だと思ったら、研究室なんですね」
「貴重品置き場でもある。異世界からの漂着物は、何に使うか分からない物も多いが、素材として見ると金になるからな。危険物があるかもしれないし、争い事を避けるために、王家が管理しているのだ。だからこの塔は高い塀に囲まれている」
門扉をしっかりと棒で鍵をかけていたのを思い出し、分厚い守りが敷かれているのはそのせいなのかと剛樹は頷いた。
「警備の人っていないんですか?」
台所から顔を出したイルクが笑った。
「ははは! ラズリア王家の人間がいるのに襲ってくるとしたら、物を知らない馬鹿だけだよ。男も女も、武芸の達人だ」
ユーフェは口元を引き締めた。
「私は達人というほどではない。兄達にかなった試しはないからな」
「あ、あー、すみません!」
イルクは口を手で押さえて、「やっちまった」というように首をすくめる。
「で、でも、殿下はお強いですよ」
フォローしようとしたが、ユーフェが不愉快そうに鼻を鳴らしたので、イルクはそそくさと台所のほうに戻った。いったいどうしたのかと、剛樹はイルクとユーフェを見比べる。なんとなく突っ込んで訊いてはいけないような雰囲気なので、質問するのはやめておいた。
「修業中、守備隊にいたと話しただろ?」
ユーフェがぽつりと付け足したので、剛樹はこくっと頷く。
「あ、だから強いんですね! 守備隊って警察みたいなものなのかな」
「警察権はある」
「剣って言ってたから、騎士団とかあるんですか?」
中世ファンタジーみたいだ。興味をひかれての問いに、ユーフェは首を振る。
「銀狼族に、騎士なんてものはいない。馬に乗らないからな」
「乗らないんですか?」
「私達が乗ったら重すぎる。馬が死ぬ」
「な、なるほど……!」
銀狼族は乗らないが、人族はロバや馬を使うそうだ。
「じゃあ、王様はどうやって移動するんですか?」
「使うとしたら、車を牛でひかせるか、輿だな。車をひかせるなら馬でもいいんだが、あれは臆病な動物だから、私達におびえて使いものにならん」
「はあ……なんだか大変なんですね?」
剛樹は目を白黒させて、無難なことを返した。
ようやくベッドを降りられるくらい回復したので、剛樹は初めて一階の部屋に入った。
中は三部屋に分かれていて、広い部屋が、居間兼食堂だ。左側に小部屋があり、奥には扉がない代わりに、入口に青い布がかかった部屋があった。
剛樹がきょろきょろしていると、ユーフェが好きに見るように言ったので、遠慮なく覗いてみた。
「台所……」
イルクがてきぱきと動く様子を眺める。ここの家具も獣人にあった大きさで、剛樹が使うには大変そうだ。
薪ストーブは調理用らしく、上に鍋をのせて温めている。水道はないが流し台はあった。大きな水瓶から、ひしゃく――半分に切って乾かしたひょうたんのようなもの――で水を汲んで使っているようだ。イルクは食器棚から皿を出して台の上に並べてから、流し台の隣にある調理台――丸太をスライスしたみたいなまな板の上で、果物を切っている。
台所の右奥には、勝手口もあるらしい。
剛樹は台所を出ると、今度は小部屋のほうを覗いてみた。
「風呂だ」
自然と声が弾んだ。
この土地には電気もガスもなく、異世界ファンタジーめいた魔法もない。明かりはアルコールランプかろうそく、暖炉の明かりだし、調理には薪を使っている。外にはロープをたぐるタイプの井戸しかない。風呂を期待しないほうがいいのではないかと思っていた。
(へえ、脱衣所と風呂場が一緒になってて、間に衝立を置いてるのか。なんかここだけ中華ものっぽい)
床は白いタイル貼りだ。脱衣所には棚が二つあり、背の高い棚にはタオルや小物が置かれ、テーブルに似た棚のほうには洗面器がのっている。どう見ても洗面台で、端にタオルが引っ掛けてあった。
風呂場には、石で塗り固められた浴槽がある。よく見ると中は鉄製で、底に木の板が敷かれてあるようだ。浴槽の傍には蛇口がある。
(水道がある? でも、台所にはなかったよな)
剛樹が蛇口を見ていると、ユーフェが戸口から教えてくれた。
「そこをひねると、水が出る。雨どいの水が、外のタンクにたまるようになっているのだ。外には焚口があるから、そこで火を焚いて、ここに入れた水を熱して湯にするのだ。温度調整はこの蛇口の水だ。冬場はタンクに雪を放り込めばいいから楽なのだがな。水が足りない時は、井戸から汲んで入れている」
「へえ、ってことは、五右衛門風呂みたいだな」
アニメか民俗系の博物館でしか見たことがないが、こんな形をしていた。
「モリオンも、こういう風呂を使っていたのか?」
「いえ、俺の国では古いものですよ。今は電気やガスがあるので、湯沸かし器で湯を沸かして、水道の水を温めて、お湯が蛇口から直接出てきます」
「……やけどしないか?」
「温度の調節ができるので」
「なるほど、お前が便利な物が多い世界から来たというのは、本当のようだな。ここにはそんなものはないから、お前には不便だろうな。南西のほうに、からくりを作るのに長けた国があるが、危険だから連れていくわけにもいかないし」
ユーフェの耳がペタンとなった。困っているのだろうか。
「どうして危険なんですか?」
「その国には、たいした資源がない。そのため、他国と戦をして、他国を支配下に置くことで手に入れているのだ。ここからは遠いから我が国には害はないが、その国の周辺では、小国から落とされている。お前がその国に行ったとして、徴兵されるだけだろう」
「い、行きません、そんな場所!」
「うむ。しかし、お前は素直だなあ。私が嘘をついているとは思わんのか」
ユーフェの指摘に、剛樹は首を傾げる。
「嘘なんですか?」
「いいや」
「それならいいじゃないですか。なんでそんなことを訊くんです?」
「お前みたいな世間知らずは、良いように利用されるだけだろうから、心配になっただけだ」
「ユーフェさんは優しいんですね」
良い人だと思う剛樹に対し、ユーフェはどうしてか溜息を吐く。
「親切にして、利用しようとしていたらどうするんだ」
「そう言われても……。俺は右も左も分からないので、利用されていたとしても、親切に教えてもらえるなら、それでお代になったと思えばいいかなって」
「その考え方にも一理あるが、気を付けるように」
「あの」
剛樹はうつむいて、ぎゅっとズボンの布を握る。日本で着ていた服を洗濯してもらえたので、今はそれを着ている。こちらに来る直前は、ちょうど六月の終わり頃だった。白いTシャツの上に、薄手の黒いパーカーを着て、紺色のカーゴパンツにスニーカーを合わせていた。
「俺、がんばってここのことを覚えます。迷惑だと思いますけど、でも、がんばるので」
ユーフェが注意するから、もう剛樹を鬱陶しく思い始めたのかと思い、必死に、ここに置いてもらおうと言葉を紡ぐ。
ここのことは何も分からない。ユーフェやイルクみたいな獣人ばかりだと思うと、外に出るのも怖い。まずはここでやっていくしかないのだ。
見捨てないでくれと頼む前に、ユーフェにひょいっと腕に抱えられた。
「うわっ」
「あー、悪かった。そんな緑オオトカゲを前にしたコケガエルみたいな顔をするな」
「え? 緑が何?」
謎の表現に、剛樹は面食らった。
(コケガエルって、蛙のこと?)
剛樹がユーフェの横顔を覗き込むと、彼は渋い顔をしていた。
「私はつい、王宮のように考えてしまうのだ。お前を迷惑に思っているのではなく、これからやっていけるのかと」
「心配になった、とか?」
「うむ……」
ユーフェは頷いた。
「しかし、最初から急ぎすぎるのも良くない。いずれ、周りを警戒できるようになれば構わない」
「はい」
そもそも剛樹は気が弱いので警戒心は強いほうだ。熱を出して寝込んだところを、ユーフェには三日も世話になったのだから、彼に気を許すのはある意味では自然だと思うのだが、ユーフェにはそう思えないらしい。
「あの、なんで……」
腕に座らせたのだろうかと問う前に、イルクが顔を出した。
「お二人とも、食事の支度ができましたよ。……何してるんです?」
「泣きそうだったから、つい」
「そんな赤ん坊じゃないんですから。人族を子ども扱いすると、怒りますよ。大工んとこの伴侶が、それで喧嘩してますからね」
「そうか、それは良くないことをしたな」
さっきは慌てていたのだろうか、もしかして。
ユーフェは剛樹を床に下ろして問う。
「怒ったか?」
「いえ。なんで腕に座らせるんだろうとは思いましたけど、疑問が解決したので。気にしてないです。ユーフェさんが優しい人なんだなと分かったので、いいですよ」
剛樹の返事に、ユーフェとイルクは不思議そうに言いあう。
「えっと、ユーフェ様、どうしてそんな結論に着地したんですかね」
「私が知るわけがないだろう。どういうことだ?」
ユーフェの質問に、剛樹も戸惑う。
「だって、ユーフェさん、子どもが泣きそうだと抱っこしちゃうんでしょ?」
「ん? まあ、そうだな」
「あやそうとして手を伸ばすんですから、優しいんだなと……」
剛樹の説明に、イルクが感嘆の声を上げる。
「ほう、なるほどな。納得だ。冷たい人なら放っておくもんなあ、モリオン、お前、良い子だなあ。って、俺まで子ども扱いしちまったな。すまんすまん」
「そんなふうに言われたのは初めてだが……まあ、悪い気はしないな。ほら、朝食にしよう」
大きな獣人達はのそのそとテーブルのほうへ行く。イルクは雑用のために部屋を出て、ユーフェと剛樹は台所で手を洗ってから、テーブルに向かい合わせに座った。
「どうだ、食べられそうか? 急に胃に入れるのは良くないからな、スープを中心に食べるといい。異世界の人族には毒かもしれない。体調が悪くなったら、すぐに言うのだぞ」
「はい」
ユーフェに慎重に注意されて、剛樹も身構えた。
見たところ、フランスパンのようなものと、サラダ、果物、分厚く切られたハムやウィンナー、野菜スープが大皿に盛られており、スープ以外は、トングを使って、自分で小皿に盛って食べるようだ。
「偉大なる森の神に感謝を」
「いただきます」
ユーフェの祈りの声と、剛樹の声が重なった。
「神様にお祈りしてるんですか?」
「ああ。我ら銀狼族は森とともに生きる獣人だからな。森の神に恵みへの感謝をささげるのだ。お前のはなんだ?」
「俺のところは、八百万っていうたくさんの神様がいるんです。食べる前に、そういう神様だとか自然だとか、作ってくれた人とか、いろんなのに『いただきます』って言います。食べ終わったら、『ごちそうさま』です」
「ふむ。それは良いことだな。この国は、信仰は簡単なものしかないが、お前の信仰であまり気にならないなら、森の神に祈っているということにするといい。外国人がこの国の文化を大事にしてくれていると分かると、親切にしたくなるものだ」
「そうなんですか。では、そうします」
異世界の森の神だろうと、神様には違いない。特に気にならないので、剛樹はユーフェのアドバイスを受け入れることにした。
改めて、両手を合わせる。
「森の神様、いただきます」
「いただきます」
ユーフェも一緒に手を合わせてくれたので、なんだかうれしい。
「ありがとう、ユーフェさん」
「うむ。モリオンも、ありがとうな」
そう返すユーフェに頷くと、剛樹はひとまず野菜スープに口をつける。ユーフェがじっとこちらを伺う。
「どうだ?」
「大丈夫です。コンソメスープみたいでおいしい」
「コンソメが何か知らんが、似たようなものがあるのか。他のも一口ずつ食べてみるといい」
ユーフェのすすめに従い、サラダやハム、果物を少しずつ取って食べてみた。果物はプラムみたいな見た目で、皮をむいて食べると、果肉は桃みたいに甘くておいしい。
「それはラズリアプラムといってな、この辺で夏によく採れる木の実だ。甘い実がなるように、ここの村人達が改良したものだよ。美味いだろう?」
「おいしいです。ここの人達は、ラズリアプラムの農家さんなんですか?」
「他にもいろいろと作っているが、ラズリアプラムがメインだな。鋼木も育てている。鋼木は、ラズリアではどこでも育てているがな。そうしないと冬を越せない」
ユーフェは剛樹にラズリアプラムをすすめる。
「病人食にも向いているから、食べるといい。そんなに気に入ったのなら、イルクの伴侶に、プラムパイを焼いてもらおうか」
「甘いケーキみたいなものですか?」
「そうだ」
「砂糖がある?」
「ああ。南部のほうで甜菜を育てていてな、たまのぜいたくで、甘い菓子を食べるのだ。プラムパイは今の時期しか食べられないから、お前は良い時に来たな」
目を細めているあたり、ユーフェも好んでいるようだ。
「食べてみたいです」
「よし、では後でイルクに頼んでおこう」
ユーフェは剛樹の様子が変わらないことを見届けて安心したのか、自分も食事に取り掛かる。テーブルいっぱいにのっていた料理が次々と消えていくのを、剛樹は唖然と見守っていた。
◆
朝食が済むと、ユーフェとともに塔の外に出た。
ついでに、ユーフェが雨どいを使った雨水タンクを見せてくれた。煉瓦を積んだ土台の上に、小さな浴槽みたいな石組みの箱が置いてある。ユーフェは一つずつ説明する。水漏れしないように、中は漆喰が塗られているとか、ゴミが入らないように木蓋がしてあるが、たまに栓を抜いて中を洗うとか。
風呂場の焚口も見せてくれた。四角い穴の中で薪を燃やすそうで、焚口の傍だけ屋根があり、雨の日でも濡れないようになっている。
「一階だけだが、床に細い煙道……煙が通る穴があってな、ここで出た煙が循環して、部屋を温めるようになっている。だから冬場は、焚口は蓋をしておかないと、風が通るから寒いぞ」
「今、開けてるのは、夏だから?」
「ああ。あまり開けっ放しも良くないがな。ネズミが棲みつくことがある」
「へえ、ネズミ……」
都会育ちの剛樹は、ネズミは動物園かペットでしか見たことがない。
(獣人とは別に、動物もいるのか……。それって共食いにならないのかな?)
聞いてみたいが、怒られる予感しかしないのでやめておいた。
「床暖房ってやつですか?」
「さあ」
「さあ……」
「王宮では見なかったからな。私はそこまで建築には詳しくない」
ユーフェは分からないことは分からないと、はっきり返した。
(この人、なんでもはっきり言うタイプなんだな)
考えていることはもちろん、自分の状況も伝えるみたいだ。
「ユーフェ様、床暖房であってますよー」
話が聞こえていたのか、井戸で水汲みをしていたイルクが大きな声で言った。
「だ、そうだ。ありがとう、イルク」
「どういたしまして!」
床暖房というのだな、と、ユーフェは興味深げに煙道を見ている。
「ユーフェさんって、いつもそうなんですか?」
「何が?」
「なんでもはっきり言うので。俺、誰かと話すのってあんまり得意じゃないから、すごいなあ、と」
「ふむ。私は兄には言い方がきついと言われるが、お前にはそんなふうに聞こえるのか?」
ユーフェの問いに、剛樹はしばし返事に迷う。結局、頷いた。
「きつく聞こえることもありますけど……、意見を言えるのはいいなと思います」
「だが、正論ならばなんでも言っていいわけでもない。正論は正しいがゆえに、刃にもなる。私のような者ばかりになったら、窮屈ではないか? お前はお前でいいだろう」
「そう……ですか?」
「ああ。それから、私がはっきり言うのは、私が命令する立場の人間だからだ。自分の状況を伝えた上で、どうして欲しいのかを分かりやすく伝えなければならない。言葉を惜しんで、相手が分からずにミスをしたら、私が悪いのだ。だからできるだけ、こんなふうに言っているわけだ」
「はあ」
感嘆とも溜息ともつかない相槌をして、剛樹はユーフェを眺める。
(この人、本当に『王子様』なんだなあ)
ユーフェは雨水タンクに蓋をしなおして、倉庫のほうへ歩き出す。
「さあ、こっちだ」
「はい」
改めて見ると、広々とした倉庫だ。
両開きの扉の鍵を開けると、ユーフェは中に入っていく。剛樹も倉庫に入り、目を丸くした。
「わあ」
小さな採光窓から光が降り注ぐ中、壁の両側には棚が並び、中央にも二列、ユーフェの腰くらいの高さをした棚が並んでいる。
出入口付近には流し台と水瓶があり、倉庫の真ん中には薪ストーブが置いてある。煙突が天井に伸びていた。ストーブより向こうは、棚との間を木製の衝立が遮っており、本棚やテーブル、椅子、長椅子や低く小さなテーブルもある。
「そこが集めた物を保管している場所で、ここが研究室だな。と言っても、毎日、聖なる泉の様子を日誌につけ、拾った物を記録するだけだ。使い方が分かればそれも書くが、それ以外は推測になる」
それで、とユーフェは一番奥の扉を示す。頑丈な鉄製の扉の取っ手には鎖が巻きつけられ、頑丈そうな錠がしてあった。
「この向こうは、危険物や貴重品を保管している場所だ」
「危険物ですか?」
「刃物だとか、よく分からない薬品だとか、なんだか分からないが嫌な感じがする物なんかだな。獣人は感が鋭いからな、危ないものはなんとなく分かるのだ」
「そうなんですか」
便利でいいなあと、剛樹は扉を眺める。
「そのうち見せてやろう。お前の部屋を、ここにしようと思う。そこの長椅子なんかを片付ければ、ベッドや身の回りの品は置けるだろう? 衝立で囲めば、目隠しにもなる。ここが嫌なら塔の二階しかない。それとも、村に住むか?」
ユーフェの質問に、剛樹は即座にぶんぶんと頭を振って拒否を示す。
「……だと思った。この場所は塀に囲まれているし、私が傍にいるから安全だぞ。王族を襲う馬鹿はめったといない。兄に勝った試しはないが、その辺のごろつきには負けぬ。安心しろ」
「よろしくお願いします」
剛樹はぺこっと頭を下げる。そうしながら、なんだか引っかかるものがあった。
兄のことを口にする時、ユーフェの目が暗くなった気がしたのだ。しかし顔を上げた時には、ユーフェから陰は消えていた。
(気のせいかな?)
さすがに初対面で家族について口を突っ込めるほど、剛樹は図太くはない。とりあえず見なかったふりをした。
好きに見て回っていいとユーフェが言うので、棚を見ていた剛樹は声を上げた。
「あーっ、俺のスマホ!」
スマホを掲げて叫んだせいで、ユーフェが毛を逆立てていた。
「突然、叫ぶな。驚くだろう!」
「すみませんっ」
「危険物でもあったのかと……。なんだ、その四角い板は、お前のものか? そういえばお前を拾った後に、泉の底に沈んでいたのを見つけたのだったな。これは何に使うんだ?」
ユーフェが興味津々で問う。
「うーん、使えるかな。完全に水没してたなら、壊れたかも……。でも乾かせば復活したこともあるっていうし」
剛樹はぶつぶつと呟いて、スマホを軽く振ってみる。水が落ちてくる様子はない。
「三日、ずっとここに?」
「ああ」
「よし、付けてみよう」
電源ボタンを長押ししてみる。だが、スマホはうんともすんともいわなかった。剛樹はテーブルに手をついて、がっくりとうなだれる。
「壊れています。ここに画面が出て、光って、遠くの人と手紙を送れたり、電話……話をできたり、本の代わりになったり、そういう道具です」
「こんな小さな板でか? 仕組みは?」
少し迷った後、剛樹はユーフェにも伝わるように噛み砕く。
「とても精密な機械なので、俺には分かりませんし、どうもできません。ユーフェさんが家を使えても、家を建てられないのと同じことです」
「なるほどな。お前の話は丁寧で分かりやすい。もしかして違う世界にいても、会話ができたかもしれないのか?」
「いや、それはどうでしょうね。こっちには電波がないし……」
「デンパ?」
「うーん、目印、みたいなものかな。高い塔にめがけて、この機械からデンパが出て、それを塔が受信して、他の塔に送って、そこからまた他の機械の持ち主に送る感じですね。一台ずつ、番号が振られてて。ええと、住所みたいなもので、知っていないと送れません」
「なんだか複雑なのだな」
「ええ」
改めて説明すると、ものすごく難しいと思う程度には複雑だ。それをほんの数秒で実現する携帯電話ってすごいなあと、日常から切り離されると、急にすごさが見えてくる。
「あの……これ、もう使えないけど、もらってもいいですか?」
「当然だ。お前の持ち物なんだろう。故郷の思い出の品だ。記録からは消しておこう。しばらくたいしたものを拾っていないから、ページを破るだけでいい」
ユーフェはそう言うと、分厚い日誌帳を取り出して、ページを引っ張って破いた。新しいページにいくつかメモをとると、破いたページをくしゃくしゃにして、ゴミ箱に捨てる。
「これでよし、と」
「ちょっと分厚いけど、普通の紙だ」
本の形をしている。魔法学校の児童文学みたいに、羊皮紙をくるくると巻いて使っているのかなと思っていたから、うれしい誤算だ。
「ん? どうした?」
「ここでは羊皮紙っていうものを使ってるのかなって」
「あれは長年の保管に向いているから、重要な書類では今でも使っているが、大部分はこちらの紙だぞ。あとは、芸術扱いの本に使われていたはずだ」
ペン先も、漫画のつけペンみたいなものだ。インク壺にペン先をつけて書くみたいだ。
「インクは太陽の光に弱いから、書いたものは日陰か本棚や棚にしまうのだぞ。もし私が書類を出しっぱなしにしているようなら、ここの引き出しにまとめて突っ込んでおいてくれ」
「はい」
大きなテーブルには、引き出しが二つついている。一つは鍵付きで、もう一つは何もついていない。ユーフェは何もついていないほうの引き出しを示していた。
「ここの仕事はほとんど道楽のようなものだが、たまに役立つことがあってな。このペン先とかな。私は王宮にいたくなくてな、ここの仕事を引き受けて、塔で暮らしている」
「王子様なら、結婚してるんじゃ……?」
なんとなく王族は早婚というイメージがあるので、剛樹は恐る恐る問う。
「私には妻子はもちろん、婚約者もおらぬゆえ、気を遣わなくていい」
「分かりました」
剛樹はほっと息をついた。ユーフェは良い人だが、奥さんがどうかは分からない。剛樹を邪魔扱いするのではと不安だった。
「それだけか?」
「え?」
「どうして王宮にいたくないのかとか、訊かないのか」
自分から聞き返したわりに、ユーフェはピリッとした空気をまとっている。あまり深く聞かれたくないみたいなのは、剛樹にもなんとなく分かった。
「訊きません。俺、ユーフェさんとは知り合ったばかりだし……部外者が首を突っ込むのは良くないと思うし。でも、話したいなら、聞きますよ。愚痴とか。俺、それくらいしかできることがないし」
「モリオン、お前、良い子だなあ。……ああ、すまん、また子ども扱いをしてしまったが、頭を撫でても構わんか」
「え? は、はい」
よく分からない申し出に頷くと、ユーフェは大きな右手をゆっくりと伸ばして、剛樹の頭をわしゃわしゃと撫でた。なんとも不思議な感覚だ。こんな大きな手の持ち主など日本にはいなかったし、剛樹の頭を難なく掴めるだろう。
(肉球の感じがよく分からないな)
触った時はプニッとしていたけれど、頭ではよく分からない。
「お前となら、問題なく暮らしていけそうだな。それで、ここでいいのか? それとも二階か?」
ユーフェは満足げに手を離し、改めて問う。
そういえばどちらに住みたいか聞かれていたのだった。
「俺はここがいいです。その、俺って結構、音に敏感で。階段の上り下りの音でも目が覚めると思うから」
「分かった。では、ここに用意しよう。着替えも買わないといけないな。仕立屋は町に行かないとないのだ。代金は」
「給料から引いてください!」
「分かった、では前払いという形で、いくらか出しておこう。イルクとなら行けそうか?」
剛樹が顔をこわばらせて黙り込んだので、ユーフェは苦笑する。
「無理か。うーむ、そうだな、大工の伴侶を呼ぼう。人族と一緒なら大丈夫かもしれぬしな」
「でも、俺、外はまだ怖くて」
「分かるが、不便だろう? 私は人族のことはよく分からん。村に住んでいる人族に相談したほうがいい。それから考えればいいのではないか」
「ユーフェさん、一緒に会ってくれますか」
頼むから一人にしないでくれという気持ちを込めて、じーっと見上げていると、ユーフェは頭をかく。
「分かった、分かった。そんな目をするな」
「よろしくお願いします」
言質をとったので、肩から力を抜き、剛樹はぺこっと頭を下げた。
村に住む人族と会うことになったが、今日は倉庫の中を見て回ることにした。
「あれ、メスシリンダーだ」
ガラス製の計量器だ。
なんだか見たことがあるものに、花がいけてある。
「おお、さっそく知っているものか? そのガラスの技はすごいよな。その線が何か知らぬが、よくできた花瓶だ」
「いえ、これは花瓶じゃなくて」
「違うのか?」
「水の量を調べるための道具ですよ」
理科の授業で習って以来だから、久しぶりに見た。花を抜いて、水の入ったメスシリンダーをテーブルに置く。
「これが目盛りで、単位はミリリットルです。液体の体積をはかる道具だったかな? 1ミリリットルが、1立方センチメートルだったはず」
「ふむ。そちらの世界での単位か」
「今だと、えーと、43.5ミリリットルかな……。水平な場所に置かないと、正確に出ないので気を付けてください」
「数字はこちらにもあるが、単位が聞いたことがないな。まあいい、とりあえず試しに……」
剛樹が水平に見るのだと教えたが、ユーフェは眉間にしわを刻む。
「むう。少し角度がつくだけで、目盛の位置が変わる……」
「水平に見なきゃ駄目ですよ」
ユーフェはメモ帳を出して、見えた物を記す。
「こう、端が三角に盛り上がるのだが、どこを見るのだ?」
「ここの水平のところです。目盛と目盛の間は十分の一まで読むっていう決まりがあります」
「ああ、この一番広い水平の部分が真ん中に来るから、43.5と言っていたのだな。なるほど」
分かったことだけ、ユーフェはノートに書いていく。
「例えば、どういったことに使うのだ?」
「そうですねえ。えーと、ここに入るもので、何か沈めていいものは?」
ユーフェは倉庫を出ると、小石を拾って戻ってきた。
「今は43.5ミリリットルですけど、この小石を入れると、53.5ミリリットルになりました。引いてみると、この小石の体積は10ミリリットル……ええと、10立方センチメートルですね」
「なるほど。つまり、物の大きさが分からない時に、調べられるわけか。私にはこれといった使い方が思い浮かばないが、計量を使うような部署に回してみるか。良い使い方が分かるかもしれぬ」
しかし、とユーフェはうなる。
「これほどの精密なガラス工芸技術はないからなあ。製造は難しい気がする。むむ。父上と兄上に報告だけしておくか」
ユーフェは椅子に座って、考え事を始めてしまった。これからすることを、メモ用紙に書き殴っていく。
中学の理科以来だし、普段は体積なんて使わないので、剛樹もいまいち何に使えるか分からないのだが、分かる人は分かるだろう。
「いいなあ、紙とペン……」
ユーフェを見ていて、剛樹はぽつりとSNS。
「なんだ、筆記具が欲しいのか?」
「俺、絵を描くのが好きなんです。コミックアートっていうんですけど……。芸術のほうも少しはかじっているので、そちらも描けないことはないですが」
「欲しいなら、やるぞ。画材はないから、とりあえずこのメモ用紙とペンとインクでいいか? 使い方は分かるか?」
「えっと、このインクは染料のほうですか?」
「そうだ」
「なら、分かります。ペン先をたまに水につけて、インクを溶かして乾燥させればいいんですよね。服についても、洗えばとれるのかな」
「ああ。時間がたつと取れにくいから、服についた時は早めに洗うことだ」
備品置き場から予備の品を取り出すと、ユーフェは剛樹の前に置いた。剛樹が無言のまま目を輝かせて、ペンとインクを撫でていると、ユーフェがふっと笑う。
「なんだ、嬉しそうだな。楽しみがあるのは、良いことだ。仕事が一段落したから、泉のほうに行こう。少しは運動して、体力をつけたほうがいい。人族にしたって、腕が細いぞ。これで十八とは、信じられないな」
「はあ……」
これでも、現代人は昔よりも栄養豊富なので、健康なほうなのだが。剛樹は運動音痴だが、病弱でもなく健康優良児だ。ここに来た時に寝込んだのは、精神的なショックのほうが大きい。体は健康でも気が弱いので、精神的な打撃を受けやすいのだ。
ユーフェと泉を見に行った後、少しは体を動かそうということで、草むしりや畑の世話もすることになったが、帰り際にイルクが菓子を出してくれた。プラムを使ったプラムゼリーだ。
壁のない小屋――薪置き場の下に地下室があって、夏場でもひんやりしているらしく、そこが食料や種の保管庫らしい。イルクの奥さんが作ってくれたゼリーを、そこに置いて冷やしてくれていたようだ。
「王宮になら、氷室があるから、冷蔵室に氷を入れておけば夏場でも冷やせるのだがな。ここでは井戸水で冷やすのがせいぜいだな」
「はは。王宮に比べたら、ここは不便でしょうなあ。ですが食べ物は豊富なので、殿下にもご満足いただけると思いますよ」
「ああ、そうだな。モリオン、イルクの伴侶は、王宮に奉公に来ていたことがあってな。料理の腕は、ここいらでは一番だ。金さえ払えば、だいたいなんでも作ってくれる」
「俺も残り物で良い思いをさせてもらってますよ」
イルクは白い牙を見せて、にんまりと笑う。
「朝ごはんもおいしかったです」
「簡単なものでよければ、俺も作れるから、お前にも教えてやろう。故郷の味というのは、本人にしか分からんものだろう?」
イルクは見た目は怖そうだが、結構、世話焼きな人みたいだ。剛樹がぺこっと会釈をすると、うんうんと頷く。
「イルク、大工の伴侶に、モリオンの相談に乗ってほしいと伝えておいてくれ」
「ああ、そうですね。その変わった服だと目立つでしょうし、早いところ仕立屋に連れていったほうがいいですな。しかし、変わった格好だな。その靴はなんだ? 不思議だなあ。靴屋に見せたら喜びそうだが、材質はなんだ? ん~?」
イルクはしゃがみこんで、剛樹のスニーカーを眺める。
「イルクさんの本業は靴屋さん?」
「いや、俺は農民だよ。ラズリアプラムと大麦、他にもこまごまと作っていてな。ハーブなんかもあるぞ。税物以外は、町で開かれる市で売ってるんだ。それから鋼木と、家畜も数頭。家で食べる分なら、チーズやバターなんかも作ってる。村内で余分なものを買い取って、ユーフェ様に料理や食料として出しているわけだな」
「そんなにいろいろしていたら、忙しいんじゃ?」
「ははっ、俺は体力だけは人一倍あるからな。どうってことないよ。ここに来るのは二日に一度だから、用がある時は早めに言うんだぞ」
思わずというようにイルクが手を伸ばしたが、剛樹が首をすくめると、手を引っ込めた。
「ああ、悪い。なーんかお前を見てると、うちのチビみたいに頭を撫でたくなるんだよな」
「分かるが、もう少し慣れてからにしてやれ」
「はい、分かりました。ユーフェ様」
なんだかよく分からないが、彼らは剛樹を子ども扱いしている。庇護の対象として見ているということなんだろう、たぶん。
「では、俺は帰りますね。明後日、大丈夫なら大工の伴侶も連れてきます。たぶん、大工もついてきますよ」
「分かった。私も立ち会う」
「はい」
イルクはお辞儀をすると、鍋や容器を入れた木箱を抱えて塔を出ていく。
イルクが外に出ると、ユーフェは木の板を渡して、門に鍵をかけた。
「モリオン、誰かが訪ねてきても、お前は出なくていいからな。イルクのような良い者ばかりではないし、獣人を怒らせると、人族はあっという間に殺されてしまう。もちろん、殺人は罪になるが、短絡的な者もいるから警戒していたほうがいい」
「わ、分かりました」
そんな注意をされると、余計に外が怖い。不安で顔を引きつらせる剛樹を見て、ユーフェは苦笑する。
「また緑オオトカゲににらまれたコケガエルのような顔を……。悪かった。私は少々大げさに言っているだけだからな?」
「はい」
その緑オオトカゲとコケガエルっていうのはどんな生き物なのだろうか。
想像してみながら、いつか見てみたい剛樹だった。
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