狼王子は、異世界からの漂着青年と、愛の花を咲かせたい

夜乃すてら

一章 異世界からの漂着青年


「えっ、沖野おきの君の名前って、剛樹っていうの?」

 剛樹ごうきが名乗ると、たいていの場合、意外そうに目をぱちくりとされる。

「そうなんだ。俺がひ弱に産まれたから、両親が強く育ってほしいってつけてくれて……」

 むやみにあははと笑いながら、剛樹は名前の由来を伝えた。たいていの人達は優しいので、「いいご両親だね」で会話が終了する。

 タイミング良く、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

「それじゃあ、今後の準備はよろしくね。次の授業があるから、行かなきゃ」

「うん、よろしく」

 同じグループになった大学の同級生達とあいさつをかわし、剛樹はほっと溜息をつく。

 授業を担当している教授が、今度、個展を開く。学生達は、実務を教わるのをかねて、教授の手伝いをすることになっていた。

 剛樹は小柄でひょろいため、早々に力仕事から遠ざけられ、設備の準備グループに回されていた。

 剛樹は慌ただしく立ち去るメンバーを見送ると、荷物を鞄に詰めこみ、教室を出る。

 今日はもう講義がないので、帰宅するだけだ。山の上にある校舎を離れ、徒歩でゆっくりと坂道を下っていく。

(ふう。今日もばれなかった。良かった)

 剛樹は目を覆うように伸ばしている前髪をつまんで、安堵した。

 どうしてこんなに警戒しているのかというと、実は剛樹の家が、テレビによく出るほどの有名なスポーツ一家なせいだ。

 両親は世界で活躍するほどのテニス選手だったが、今では引退して、コーチの道を歩んでいる。二人の兄もまた、両親の才能を受け継ぎ、ジュニア時代から好成績をあげていた。

 ――強く育って欲しい。

 そんな願いをこめて、剛樹なんて大層な名付けをしてくれたのはうれしいが、剛樹にはスポーツの才能はなかった。他の競技でもてんで駄目である。どこで遺伝子がすねたのか知らないが、運動音痴なのだ。

 おかげで、誰かが剛樹がスポーツ選手の息子であると聞いて、期待に輝いた目が、そのうちがっかりして、その辺の石ころを見るみたいに興味が失せていくのを、幼い頃から何度も見てきた。

 剛樹が一人でいれば、テニスプレイヤーの沖野の息子だと気付かれないのに、兄達は何かと剛樹を構う。ほとほと嫌気がさし、大学では実家から遠い所を選び、一人暮らしをしている。

 文学部の芸術学科を選んだので、両親には就職に不利ではないかと、ものすごく反対された。しかし、父方の祖母が応援してくれて、学費を援助してくれることになったおかげで、こうして羽を伸ばしている。

 祖母は絵画教室を開いており、一部界隈では有名な画家だ。

 そちらの才能を継いだのだと思うが、あいにくと油絵を好む祖母と違い、剛樹が好きなのはコミックイラストなのだった。専門学校に行こうかと思っていたが、大学は行けと親が言うので、こうして大学生をしている。

 派手な両親と兄達のせいで、すっかり他人の視線が苦手になった剛樹は、前髪を伸ばして、伊達眼鏡をかけている。健康優良児なところだけは継いだみたいで、裸眼でも目は良いほうだ。

「うーん、あんまり反応が良くないなあ」

 丘の上にある大学から、丘下にある住居区に向けて、道路際を歩きながら、剛樹はスマホを操作して、よく使っているイラスト投稿サイトを眺める。芳しくない結果に、思わずうなり声を漏らしていた。

 評価が増えて、ランキングトップに行くのが夢だが、まだ夢のまた夢の段階だ。

 絵を描いて、SNSで進捗をアップして、仲間達と話し合うのが楽しい。

 できれば大学でもそういった友達が欲しかったが、内向的な剛樹には難しかった。良い人もいるが、基本、自分の世界に没頭するタイプが多い。アトリエではあいさつはするし、先輩の手伝いもするが、結局は一人で画用紙に向かう。

 むしろ邪魔が入らないので、家で描くほうが好きだ。

「あ、感想が入ってる」

 にまりとして、小さくガッツポーズ。

 のんびりと歩きながらスマホを見て、返事をしようと立ち止まる。

 それがいけなかった。

 午前中に降った雨のせいで、大きな水たまりができていた。そこへ、人の少ない道だからとスピードを出していた車が通ったのだ。水が勢いよくはねて、剛樹は頭から水を被る。

(何、このコント……)

 SNSでネタにしようかな。頭の隅でそんなことを思ってしまうくらい、悲しいことに、剛樹には雑談のネタもない。

 帰ったら洗濯だ。

 次にそう思った瞬間、何故か目の前で気泡が飛び散った。

「ゴボボ!?」

 訳が分からぬまま、水の中でもがく。

 これは、車がはねた水の量とはとても言えない。

(嘘、俺、泳げない……!)

 運動音痴に加えて、カナヅチである。パニックになってもがいていると、後ろ襟を掴まれて持ち上げられた。

「ぶはっ。はあ、はあ。げほ、うぇ」

 地面に下ろされ、必死に息を吸い、吐く。目尻に涙が浮かんだ。

「宙の泉に人が流れ着くとはなあ。大丈夫か?」

 謎めいたことを言いながら、誰かが剛樹の背中をポンポンと叩く。

 ひぃひぃと息をして、なんとか落ち着いた。

 はねた水がかかっただけで溺れるなんて、とんだ間抜けだ。若干混乱しながら、日本人の癖でペコペコと頭を下げて礼を言う。

「大丈夫です。すみません、ありがとうございま……」

 固まった。

 目の前にあったのは、狼の頭だった。銀色の毛並みが美しい、青の目を持つ狼。鋭い牙を覗かせて、狼は問う。

「どうした?」

 狼がしゃべったとか、そんなことよりも。

 猛獣が目の前にいることに、驚いた。度胆を抜かれた。

 スポーツ選手ならではの度胸すら、剛樹は持ち合わせていなかった。

「ひ、ぇ」

 悲鳴ともつかない詰まった声を漏らし、剛樹はばたっと倒れた。

 薄れる意識の中で、そういえばスマホはどうしただろうかと、命よりはどうでもいいことを真剣に考えていた。



「スマホー!」

 叫びながら目が覚めた剛樹は、天井に向けて右手を伸ばしていた。

「え?」

 天井が石造りで、見覚えがない。剛樹の住んでいるアパートの部屋は、防音に向いた白いものだ。蛍光灯も見当たらず、薄暗い。明かりのほうを見ると、暖炉で火が燃えていた。小さな窓の向こうには星が瞬いている。

 ひんやりした空気に身をすくめ、なにげなく服を見下ろして驚いた。

「何これ、ワンピース?」

 薄い生地の長袖で、裾は膝より下くらい。やけに首元が広いし、袖が余っている。

「もしかして、サイズが合ってないのか?」

 そのことに気付いて、ゾッとした。

(どれだけ体が大きいんだ)

 想像できなくて首を傾げながら、恐る恐るベッドを降りる。裸足でペタッと石床に着地すると、ゆっくりと扉に近付いた。

(なんか変な夢を見たよなあ。車に水を引っ掛けられたら溺れて、狼が目の前にいて――)

 どうせなら、ちゃんと見ておけば良かった。そうすれば絵の参考にできたのに。そう思いながら扉を少し開けたところで、上から声が降ってきた。

「起きたか」

 扉の向こうでは、二メートル近い狼男がぬっと立ち、こちらを見下ろしていた。銀色の毛はつやつやしていて、袖なしの白いシャツを着て、腰を青い帯で締め、ゆったりした白いズボンを履いている。靴はなく、獣の素足に布を巻いただけだ。

「ひ……」

「おい、また気絶など勘弁」

「ギャ――――――!!」

「……そう来たか」

 剛樹は大声で絶叫し、後ろに下がろうとして足を滑らせ、思い切り尻餅をついた。勢い余ってそのまま倒れ、後頭部を打って痛みで悶絶する。

「お、おい、大丈夫か。どんくさい奴だな」

 狼男は動揺した様子で呟き、手に持っていた盆をテーブルに置くと、剛樹の傍らに膝をつく。

「ぎゃーっ」

 狼のドアップに剛樹はまた悲鳴を上げ、慌ててベッドに逃げようとして、またすっ転んだ。ベチャッと床につぶれる剛樹に観念したのは狼男のほうで、溜息をついてベッドの反対側まで移動する。

「ああ、分かった。私は近付かぬから、安心しろ。ほら、出口はそこだ」

 よろよろと起き上がった剛樹は、逃げ道があることにほっとした。そして、わざわざ出口をゆずった狼男の気遣いを見て、敵意はないようだと感じとる。恐怖がゆるやかに落ち着いていった。

 殺されるのではと半泣きになってしまったので、袖で目元をぬぐい、深呼吸をする。

「……あの、すみません。ごめんなさい」

 出てきたのは謝罪だった。狼男を刺激したくなかったのだ。ベッドの陰に隠れたままの剛樹にも、狼男は気を悪くした様子はない。

「その様子だと、お前は私のような獣人がいない世界か、もしくは獣人が敵の世界から来たようだな。もしやお前の世界では、獣人は人を食うのか?」

「食う!? 俺、食べられるんですか!?」

 声が引っくり返った。

「まさか。獣人と人、見た目は違えど、同じ人間だ。共食いなどするか。狂人や危ない宗教の輩なんかは食う者もいるらしいが、禁忌だ。見つかれば処罰される。私は常識的な部類だから、安心していい。……まあ、信用するかどうかはお前次第だ」

「な、なるほど。とりあえず法律はあるような場所なんですね。規律があるなら大丈夫なのかな……」

 怖いのは無法地帯だ。狼男でも、理知的な様子を見るに、ある程度の文明はありそうだ。

「俺のいた所には、人間しかいなくて。人種は色々ありましたけど、あなたみたいな狼男は見たことないです。えっと、伝承とか神話とか、空想の話にはいましたけど……」

「けど?」

「だいたい悪役で」

「ふっ。なるほどな。それでその反応か」

 狼男が口の端を上げて笑うと、白い牙が覗いた。

「狼男というのは間違いではないが、正しくはない。私は銀狼族の獣人だ。名をユーフェ・ラズリアという。このラズリア王国で五番目の王子だ。異界からの客人よ、お前は私の名のもとに保護しよう。安心するがいい」

「あ、どうも……。俺は沖野剛樹といいます。ええと、どちらが名前ですか?」

「ユーフェだ」

「あっ、国の名前が後ろについてるんだから、そうだよな。これだから俺、ぼんやりしてるとか言われるんだ」

 ぶつぶつと呟いて、余計なやりとりをさせたことに軽い自己嫌悪を覚えてうつむく。

「まあ、それだけ混乱しているのなら、いたしかたないのではないか。オキノゴキ?」

「ありがとう、ユーフェさん。沖野が苗字で、剛樹が名前です」

「そうか、ゴキだな」

「やめて! ゴキじゃなくて、ゴウキ! ゴキだと嫌われてる虫と同じ名前だから! 俺、それでいじめられたことあるから!」

 小学生の時、短期間だけだがゴキ呼ばわりされて、登校拒否したことがある。事態を重く見た父が担任に相談して、子ども達を叱ってくれたので、なんとか教室に戻れるようになった。

 有名人の息子なので、ただ、そこにいるだけで生意気などと言われることもあり、正直、沖野家に生まれて良かったことなどほとんどない。

 どうやらそれだけでなく、兄達が「SNSにさらすぞ」という脅しを、子どもとその親にしたみたいだった。保護者が子どもを連れて謝りに来て、菓子折りを差し出して、猫撫で声でご機嫌とりをされたのは、さすがに気持ち悪くてよく覚えている。剛樹としては後味が悪く、次第にそのクラスメイトとは疎遠になった。

「う、害虫か。ゴーキ? 難しいぞ、この名前」

「ゴウは?」

「ゴー?」

「うーん……」

 ゴキよりも戦隊ものみたいな呼ばれ方のほうがまだマシだが、オキノでも呼びづらそうである。もごもごと名を呟いて首をひねっている狼男が、ちょっと可愛らしく見えた。

(犬って、意外と顔に表情が出るんだなあ)

 ペットを飼ったことがないので、剛樹は感心した。

「呼びづらいなら、あだ名でもいいですよ」

 なんだか申し訳なくなって、妥協案を出す。ユーフェの三角耳がピクリと動いた。うれしそうだ。

「それはありがたい。ふむ、お前は黒い髪と目をしているから……モリオンなんてどうだ?」

「モリオン? 黒水晶のこと?」

「おお、お前の世界でもそう呼ぶのか? どうだ、強力な邪気払いの石ともいわれていてな、この名がお前を守ってくれるだろう」 

 とっさにつけたにしては、良い意味を込めてくれたようだ。

(王子ってすごいなあ。……王子?)

 ようやく頭が追いついてきて、剛樹は青ざめた。

「あの、そういえば、違う世界って?」

 これが夢ではないのは、さっきから転んでいた痛みでよく分かっている。ユーフェは剛樹が異界から来たとも言った。それに地球には獣人なんていないから、ここが異世界と言われても納得だ。

(漫画やアニメでよくあるパターンだと、俺が世界を救うとかそういう!?)

 さーっと血の気が引く。

 運動音痴で、それほど頭が良いわけでもなく、ちょっと絵が上手い程度の平凡な男だと、剛樹がよく分かっている。画家で世界的に有名になろうなんて気概があるわけもなく、祖母のように絵画教室を開いてのんびり暮らそうというのが、剛樹の将来の夢だ。イラストレーターとして、本の表紙に関われたら幸せだろうなあなんて、SNSを見ながら憧れている。

「この世界、とても大変だったり!?」

「戦をしている所はあるが、この国は平和だぞ」

「魔王なんて現われたりして!?」

「なんだそれは? 初めて聞いた」

「じゃ、じゃあ、国の改革のために呼ばれたとか!?」

「呼ぶ? お前はそらの泉に流れついただけで、特に意味はないが」

 剛樹はのけぞった。

「意味が、ない!?」

 無意味に周りを見回して、頬を指でかく。

(戦うなんて怖いから無理だ。よし、結果オーライ。期待されても困るけど、無意味は想定外だぞ!)

 頭を抱え、剛樹は当然の要望を叫ぶ。

「それなら俺、帰りたいです!」

 ユーフェはどこか困った顔で沈黙し、深々と溜息をつく。

「どう説明したものかな。とりあえずついてこい、見せるものがある」

「はい!」

 勢いよく返事をした剛樹は立ち上がろうとして、ワンピースなんて普段はかないので、裾を思い切り膝で踏んで、その場にベチャッと倒れた。

「だ、大丈夫か……? 落ち着きがない子どもだな。十かそこらか?」

「え? 俺は十八です」

「……ちなみにこの国では、太陽が昇って沈み、また昇るまでを一日と数える。一年は三百七十日ほどだ」

「俺の世界は、三百六十五日です!」

「ざっと三ヶ月の差でも、これが十八か……」

 何故だろうか。かわいそうなものを見る目をされている気がする。ユーフェは子どもにするように、剛樹の前に膝をついて覗き込む。

「この国の者は、私以上に体が大きい者がほとんどだ。建物や家具、衣服も同じだな。お前はその調子で怪我をしそうだから、腕に乗せていって構わんか?」

「腕に乗る……?」

 お姫様抱っこのことだろうかと首をひねると、ユーフェは剛樹を左腕に座らせるようにして、ひょいっと持ち上げた。

「本当に座ってる……! すごい! おお、筋肉がすごい!」

「大丈夫そうだな。行くぞ。落ちぬように、肩に掴まっていろ」

「は、はいっ」

 部屋の外に出てみて、ユーフェの心配が分かった。階段の一段の大きさが、日本で見るものの三倍の高さがあるのだ。剛樹にしてみれば、軽い登山みたいなものである。

 ユーフェは身軽な足取りで、長い階段を下りていく。どうやらこの建物は塔のようだ。そして、外へ出た。


 塔は四角柱をしていて、玄関は森のほうを向いていた。分厚い塀と木製の門扉の裏には棒を渡して施錠されている。その向こうに、巨木がひしめく森があった。

「木が珍しいのか?」

 ユーフェが問う。それで剛樹はぽかんと口を開けていたことに気付いた。

「あんまり大きいので。樹齢千年の木みたいですね」

「ん? あれは十年程度の若木だ。鋼のような木という意味で、鋼木こうぼくと呼ばれている。幹は鉄色をしていて、硬い。質の良い炭になるから高値で売れるのだが、なにぶん硬すぎてな。私達のような力の強い獣人でなければ切り出せない」

「それじゃあ、斧の刃のほうが負けそうです」

「ああ。一本を切るのに、十回は研ぎ直しだ。できるだけ若木のうちに切り倒す。あの辺りの木は、今年の初冬に収穫するだろう。この木を扱えるから、私達の一族はここに国を築いたのだ。この辺りは冬が長い。冬を越すには大量の薪がいる。だが、冬のお陰で外敵は少ない」

 なるほど、分かりやすい理屈だ。合槌を打つ剛樹に、ユーフェはにやりと口端を上げて笑いかける。

「しかも都合の良いことに、この国の山は鉄鉱石や銀鉱石、岩塩なんかも採れる。貿易で栄えていて、かなり裕福だぞ」

「そ、そうですか……」

 鋭い牙が間近に見え、剛樹は首をすくめて目をそらした。あんなので首をガブッとされたら即死だろう。小学生の時、どこかの庭から逃げ出してきた犬に追いかけられたことを思い出し、剛樹は静かに震えた。

「寒いか?」

「いえ、その……」

「なんだ」

「牙が怖くて。すみません!」

 腕の毛がふわふわしていて気を取られていたけれど、やっぱり狼って怖い。

「ははは、お前は正直だな。だが、私で怖がっていたら、他の者には失神するしかなくなるぞ」

「え……?」

 苦味の混ざった言葉が自嘲的に響いた気がして、剛樹はユーフェの横顔を眺める。しかし獣頭の彼からは、表情を読み取れなかった。

 ユーフェは足音も立てずにゆっくりと歩き、塔の裏にある庭へ向かう。塔の脇には屋根付の薪置き場や倉庫があり、オーブン窯らしきものの他、井戸や畑があった。

「あ、あの……」

 剛樹は焦り始めた。見たことのない獣人とはいえ、他人を傷つけたと思うと、胸がざわめく。

「……ごめんなさい」

「ん? どうして謝った?」

「なんか俺が悪いことを言ったのかなって。怖いって言ったの、駄目ですよね。すみません」

 謝ってみたものの、心に命じたところで体のほうは正直で、ぷるぷると震えが止まらない。どうにかしようと焦り、余計に怯えてしまう悪循環で目がぐるぐるしてきた。

「お前のような人族は、獣人を怖がるものだ。気にしていない」

「すみません」

「なんだ、それは癖なのか? 本当に悪いことをした時以外、謝る必要はない。それにそんなふうに謝られると、私が悪人みたいだろう」

「え……?」

 そんな注意をされたのは初めてだが、彼の身になって考えてみると、確かにそうだ。例えば小人がいたとして、意味もなく剛樹にペコペコと謝っていたら、剛樹はバツが悪くなる。

「そうやって何度も謝ると、周りで見ていた者は、私のことを心の狭い男か、よほど恐ろしい男だと思うだろう? 謝るのは悪いことではないが、しすぎれば相手を悪者にする。良くない癖だぞ、それは」

「すみません」

 悪いことをしたと思ったので、剛樹は謝った。そしてまた謝ってしまったと、口を押える。

「……ありがとう。教えてくれて」

「うむ。それでいい。さて、そうは言ったが、私もお前に謝らねばならないな」

「え?」

 畑の間にある小道を通り抜けると、塀に囲まれた場所がある。そこへ入ると、ユーフェは剛樹を地面へと降ろした。目の前には小さな泉がある。

「これが宙の泉だ。聖なる泉として、王家で保護と管理をしている」

「宙の、泉……」

 聖なる泉というが、ごく普通のものだ。静かに水が湧きだしている。透明に澄み切っていて、おいしそうだ。

 縁に立って眺めていると、突然、水面に木の板が浮かんでいた。

「え!?」

 瞬きをしたら、木の板があった。底から浮かんできたわけでもなく、空から降ってきたのでもない。

「この泉はどうやら異世界と繋がっているらしく、こんなふうに物が流れ着く。モリオン、お前もこんなふうに現れた。溺れかけていたので引き上げたのが私だ」

 ユーフェは壁際に立てかけている釣り用の網を使い、ひょいと木の板をすくい上げる。ただのゴミのようだと呟き、壁際に置いている一輪車の上に投げた。どうやら運び出すためのゴミ置き場のようだ。

「え? え?」

 訳が分からなくて、無暗に「え?」を繰り返す剛樹。

「私はここで、異世界からの漂着物を研究している。すまぬが、モリオン。私はお前がどうすれば帰れるのか、方法を知らない」

「ええ――――!」

 衝撃的な事実に、剛樹は頭を抱えて叫んだ。



 ――帰れない。

 その言葉が、剛樹の頭の中にこだましている。

 ユーフェが嘘をついていないのは分かっている。たった今、剛樹は目撃した。突然、木の板が泉に現れたのを。

 それでも現実を受け入れがたく、信じたくなくて、剛樹は泉に飛び込んだ。

「モリオン!?」

 後ろでユーフェが驚きの声を上げる。

 底が見えるほど澄んでいた泉は、見た目よりも深かった。てっきり足がつくと思っていたから、剛樹は焦った。

「う、わ」

 バタバタともがいていると、水音がした。ユーフェのたくましい腕に抱えられ、なんとか息をする。地面に放り出され、剛樹は水を吐いて咳き込んだ。

「泳げぬのに飛び込む馬鹿があるか!」

「ごめ……、足がつくと……」

「川や泉の水は冷たい。なんの準備もせずに飛び込むのも馬鹿だ」

「……ごめん」

 確かに馬鹿だった。ただ、夢中だったのだ。さっき木の板が現われた場所に行けば、もしかしたら元の世界に帰れるのではないかと。

 ただの泉だった。

 残酷すぎる、それが現実。

 ついさっきまで、大学の帰り道にいたのに。あの平穏な時間が、車のはねた水をかぶっただけで終わりを告げるなんて、予想もしなかった。

(――気を付けていたら?)

 そんな疑問が頭に浮かぶ。

(どう気を付けるというんだ。こんな訳の分からないこと)

 めまいがして、気持ち悪い。泣きながら、喉を押さえて吐き気に耐える。

「う、うう。そんな。帰れない、なんて」

 ぎゅっと目を閉じると、家族の顔が浮かんだ。

「父さん、母さん、兄ちゃん達、ばあちゃん……」

 有名人の一家のせいで苦労はしたが、家族が嫌いなわけではない。スポーツの才能がなく、好まない剛樹に、それを押しつけるような真似は決してしなかった。一通り試させてはみたが、剛樹が嫌がったらもう言わない。

 楽しそうに試合をし、練習をがんばっている姿を見るのは好きだった。それこそ、絵に描きたいと思うくらいに。

「う、あ、あ、あ」

 声を上げて泣く剛樹の傍らで、ユーフェが状況を持て余しているのが分かる。しばらくそっとしておいてくれたが、夕日が差し始めると、来た時のように剛樹を腕に乗せた。

「この土地は夏でも冷えるのだ。風邪を引く。部屋に戻るぞ」

 すすり泣いている剛樹は何も答えない。

 結局、精神的なショックと、数時間ずぶ濡れでいたせいか、剛樹は熱を出して、三日寝込んだ。



 ふわふわの毛布が心地良い。無意識にすり寄ると温かく、ほっと息をつく。

「う……?」

 ぼうっと目を開けて、瞬きをする。なんだか長い夢を見ていたようだ。

 目の前には銀色の毛布があった。

「おい、毛をむしるなよ」

「?」

 顔を上げると、狼の頭があった。ひっと息を飲み、身を強張らせる。

(夢じゃなかったんだ……)

 心の底に悲しみが浮かび上がった。だが、今は泉を見た時よりは落ち着いている。ここに来た原因は分からないが、来た場所は分かった。けれど、泉を守っている王族だというユーフェにも、剛樹の帰し方が分からないのだ。当然、剛樹に分かるわけがない。

 考えても分からないことを、えんえんと悩み続けるのは難しい。

 ここはどこだったかと周りを見て、最初に目が覚めた部屋だと気付いた。やたら大きなベッドは立派なものだ。

 もしかしてと問おうとして、ケホッと咳が出た。

 ユーフェは起き上がって、ベッド脇のテーブルにあった水差しからコップに水を注ぎ、剛樹の前に差し出す。剛樹は重い体をのろのろと起こして、なんとか水にありついた。まるで甘露のように感じるのは、喉がかわいていたせいだろう。

「ここってもしかして、ユーフェさんの部屋?」

「ああ。私は王子だが、この塔は王国の外れにあってな、王宮のようにとはいかない。通いの使用人はいるが、病人を置いておけるような部屋が他になかったのだ。お前、あの後、熱を出したんだぞ。薪を燃やしても寒いと言って震えるから、悪いと思ったが、隣で寝た」

 剛樹はユーフェの横顔を見た。何が悪いのかよく分からない。

「ここ、ユーフェさんの部屋でしょ。むしろ俺はあそこの長椅子でも良かったのに」

 暖炉の傍に、テーブルと椅子の他に、長椅子と小さな丸いテーブルがある。家具が大きいので、剛樹が使うとソファーベッドと変わらないだろう。

「悪いと言うのは、お前が私を怖がっているからだ。しかし、他に寝具がなくてな。ここに住んでいるのは私だけで、最低限の物しかない。あ、獣人の医者だが、一応見てもらったぞ。ただの風邪だから温かくして寝ておけば治ると言っていた。それにしては震えっぱなしで、見ていてひやひやしたぞ。人族は獣人よりか弱いから恐ろしい」

 嫌だという気持ちを表しているのだろうか。ユーフェの鼻の頭に皺が刻まれた。

 そう思う程度には、世話を焼いてくれたらしい。

 なんでもはっきり言う人のようだが、親切で良い人だ。

(へえ、獣人って胸のあたりの毛はふわふわしてるんだなあ)

 首元が広い服を着ているのは、あの毛のせいだろうか。

 銀毛に覆われた上半身をまじまじと見ていると、ユーフェは気まずげに身じろぎする。

「あんまり他人の裸を見るな」

「え、それで裸なの?」

 毛に覆われているので、剛樹には着ぐるみのような感じに見えている。

「当たり前だろう。人族には毛がほとんどないが、獣人はこんなものだ。私は王族だから、人前では服を着ていないとどうも落ち着かない。銀狼族は寒さに強い反面、夏場はズボンしかはかないような暑がりが多い。もちろん、そういうのは男だけだぞ」

「でも、夏毛と冬毛があるんじゃ?」

「ああ。冬のほうが毛深くなる。春と初冬に換毛期があってな、洗濯と掃除が大変だ」

 妙に庶民的なことを言うので、剛樹は首を傾げる。

「ユーフェさんは王子様なんですよね? まるで家事をしているみたいだ」

「簡単な家事ならできるぞ。ラズリア王家に生まれた者は、一年間、民と混じって暮らす修業期間がある。私は守備隊のほうにいた。護衛はつくが、身の回りのことは、全て見習いと同じことをする。食べる物も、宿舎も、家事の分担もだ。それから先祖代々の習わしに従い、鋼木の伐採にもたずさわるし、丸太から薪作りもする」

 ふさふさと、ユーフェの尻尾が揺れた。

「自分でできることが増えるのは面白い。生きる術が身につくということだ。王宮で暮らしていた頃より、もっと民と国を好きになった。最初はつらかったがな」

 当時を思い出したのか、目を細めて、くくくと笑う。

 それからユーフェは剛樹を覗き込んだ。

「モリオン、大丈夫か? 故郷を失うのはつらいだろう。しかし、私が泉にいる時に現れたから、まだ幸運だったぞ。それに、今は夏だ。真冬におぼれていたら死んでいたかもしれぬ」

「……うん。俺、ユーフェさんに助けられてついてたと思う。まだ整理できないけど、前より落ち着いた。看病までありがとう。最初から迷惑ばかりかけていて申し訳……」

「モリオン、私は謝られるより、他の言葉を聞きたい」

「ありがとうございます、ユーフェさん」

「うむ」

 にっと笑うユーフェ。牙が覗いたが、不思議と今はそこまで怖く見えない。熱にうなされている間、ユーフェに助けられていた。彼の親切さは本物だから、安心できたのだろう。

「とにかく、ここでの生活をどうにかしなきゃ。でも、ここで俺にできることってあるのかな」

「生活は心配するな。私が王子として保護すると言っただろう。聖なる泉に漂着した人など初めてだ。一応、王宮には報告しておくが、どう見ても普通の人族だからな。問題はなかろう。ここは獣人の国だが、人族も多く住んでいる。我々はこの通り、手が大きいのでな。あまり細かい作業は得意ではないのだが、人族は器用だ。働き手としてかなり助けられている」

 ユーフェは右手を広げてみせた。五本指で、短く切られているものの、爪が鋭い。そして、薄らと黒い肉球がある。

「肉球?」

 恐る恐る触れてみると、プニッと柔らかい感触がした。

「ああ。剣を握る時に、滑り止めになって便利だぞ」

「滑り止め扱いなの……?」

 そんな感じなのかと、剛樹はきょとんとする。

「私は、お前がいた世界がどんな場所か、興味がある。ひとまず私の助手として働くといい。異世界からの漂着物には謎が多くてな。もしかしたら、モリオンに分かるものがあるかもしれない。分類が進むから助かるぞ」

「あ、そうか。俺と同じ世界から流れ着いた物があるかもしれないってことだもんな、なるほど」

 異世界から流れ着いた人間が、剛樹が初めてなら、それは自分にしかできない仕事だ。役に立てるのだと思うと、気持ちが明るくなった。

「ふ。元気が出たようだな。人族が何を食べるか分からないが、パン粥と果物を用意しているから、持ってこよう。初日を含めて、四日は食べていないだろう?」

「ありがとうございます、ユーフェさん。――ん?」

 お腹がペコペコだが、風邪の時はむしろ何も食べないほうがいい。消化にエネルギーを使うより、体をいやすほうに使ったほうがいいらしく、沖野家では水分をとって、あとは粥を少しといった対応をしていた。

 礼を言った剛樹は、ここにいたってようやく奇妙なことに気付いた。

 ユーフェはベッドを降りて、椅子の背に引っ掛けていた袖無しのシャツを上から被るようにして着る。青い帯を巻きながら、剛樹を振り返る。

「どうした?」

「なんで俺、ユーフェさんと言葉が通じてるの?」

 ユーフェは、窓から差し込む青みがかった光の中で、青い目をパチクリとさせた。

「いや、私に問われてもな……。何故だろうか」

「俺も分からないよ」

 互いに首を傾げる。そもそもあの泉が謎で、人智を超えたものなのだ。

 剛樹には日本語のように聞こえるし、日本語を話しているつもりだ。違和感がないので、よく分からない。

「まあ、理屈は分からぬが、便利だからいいのではないか? だが、興味深い。この大陸は、北部と中部、南部では使われている言葉が違うのだ。他の言葉も理解できるのか、今度、実験させてくれ」

「分かった。他の言葉も分かるなら、俺、通訳の仕事もできるってことだよね。いつまでもユーフェさんにお世話になると悪いから、がんばって独り立ちするよ」

 せっかく良い人と知り合えたのに、剛樹が負担をかけたせいで鬱陶しがられて嫌われるなんて事態にはなりたくない。

「ん? 助手の仕事ならば給料を出すぞ。賃金をもらうのが独り立ちなら、もう大丈夫ではないか? まあ、モリオンの好きにすればいい。とりあえず、二階を片付けて、お前の部屋とするか。村人に手伝いを頼んで、家具も頼むかな。大工の伴侶が人族だから、人族に合ったものを作ってもらおう」

 ぶつぶつと言いながら、ユーフェはテーブルに筆記具を出して、さらさらとメモをしていく。

 興味を覚えた剛樹は、そのメモを覗き込んだ。

「文字は全然読めないです」

「そうか、記録は私がするから問題無い。学びたいなら教えてやるが、最初から急ぐことはない。まずは体を治すことだ」

「ありがとう。ところであの……トイレってどこですか?」

 なんとトイレは塔の外らしい。獣人は鼻がきくので、生活圏にトイレを置くのは不快なんだそうだ。

 結局、台所などの生活スペースが一階の部屋に集まっているというので、一階に降りるついでに、ユーフェに運んでもらった剛樹だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る