初 雪

きっぴ-

  

 車の中に弱く差し込んだ路肩の街灯の光に、幸子が胸に着けたブローチのダイヤが薄く輝いていた。

 二人の乗った車は真っ直ぐな国道を少しゆっくりと走っていた。

 何も言わずに彼女は車の窓の外をぼんやりと見つめている。

 11月、札幌はまだ雪は降らない。

 しかし窓の外は寒さに震えているようだった。

 

 松崎はハンドルを握りながらそんな彼女をちらりと見つめた。

「寒いですか」彼は声を掛けてみたが彼女は返事をしなかった。

「そろそろ食事にしましょうか」もう一度、彼が声を掛けた。

「それより早く帰りたいわ」彼女は力なく言った。

「教授は今日は帰らないんですよね」

「ええ、東京へ学会に出かけています」

「じゃあ、少しくらい遅れても」

 そう言って彼はもう一度彼女を見つめた。


 首にかけていたネックレスが美しく輝いた。 

 時刻はまだ7時前だった。

 国道沿いにファミリーレストランの大きな看板が見えてきた。

 するとそのレストランの広い駐車場に彼は車を止めた。

 彼がドアを開け、車から降りても彼女は降りようとしない、助手席のドアを開けてやると、 やや間を開けてようやく彼女はその細い足を地に着けた。


 しかし席に着き、コヒーを注文すると、突然彼女が小さな声で、囁くように言ったのだ。

「やっぱり帰らなきゃ・・・」

 松崎は驚くように彼女を見つめた。


「どうしたんです」

「主人から、榎本からメールが入ってる」

「返信しておけばいいじゃないですか、教授は東京なんでしょ」

「でも・・・」彼女の顔は美しいほどに蒼ざめていた。

「落ち着いてください」

「今さら引き返せませんよ」松崎は半分呆れた口調で言った。

「ごめんなさい・・・」

「最近なんだかどこにいても主人に見られているような気がしてしまって」

「今日出かけたいと言ったのはあなたなんですからね」

彼は叱りつける様に言った。


 

 その日、榎本は淑子と定山渓の温泉にいた。

「どうして奥さんにメールを入れるの?」淑子は不思議そうな顔で榎本を見た。

「自分でも分からんな」苦笑いをしながら榎本は淑子を見返した。

「私は嫌だな、私と会ってる時に、貴方が奥さんのこと考えてるの」


 榎本も不思議だった。何故自分がこんな時に幸子にメールを入れるのか、思い出せと言っても彼女の顔すら思い出せそうにないのだ。

「さあ、行きましょう」淑子が榎本の手を引いた。


 彼は広く熱い湯の中で冷たい風を感じながら考えていた。

 自分は何かに迷っていた。何が自分に幸子という女に引き付けるのか。あの時自分は仕方なくお見合いを承諾し、結婚したのだった。彼は今、自信をもって言える。

「幸子を愛してはいない」

 だが自分は彼女のもとに帰るのだった。


 彼には分からなくなっていた。

 結婚というものがどういうものなのか。

 結婚したから愛するのか、愛するから結婚するのか、自分は前者だったのだ。

 では、今さらもし誰かを愛してしまったら・・・。離婚・・・。

 それは出来なかった。


 何故なら向こうは名誉教授の娘なのだ。

 彼女との離婚が何を意味するかは明らかだった。


「背中流しましょうか」そこへ平然と淑子が入ってきた。

「おいおい、ここは男風呂だぞ」

「他に誰もいないからいいじゃない」

「最近の若い子は大胆だな」

 そう言いながらも榎本の目は風呂に入ろうとする淑子の裸体をしっかりと追っていた。


「アーいい気持ち」淑子はそう言いながら湯につかり、榎本の横に並んだ。

 知らない人が見たらそれは親子に見えたかもしれない。

「最近授業は出ているんだろうな」

 榎本は半分、湯から胸のふくらみが透けている淑子を横目で見つめた。

「大丈夫、先生をあてにしてるから」

 そう言いながら彼女はピンクの肩を榎本に摺り寄せた。


「勝手にあてにされても困るぞ」

「それに私、卒業しても医者になる気はないから」

「どうするつもりだ」

「先生のお嫁さんになる」淑子は無邪気に笑った。

「・・・・・」


 榎本はその言葉を否定も肯定もできなかった。

「いいでしょ」

「それはとりあえず医者になってからの話だ」

 そう言いながら榎本はいきよいよく湯舟から上がった。

 

 湯殿から出て渡り廊下を歩いていると、もみじが見えた。

 真っ赤に色づいたもみじの色は、その時の彼にはまるで血の色に見えた。

 欲しいものを手に入れるには、身を切らねばならぬのだった。



 幸子と松坂は食事を終えると店を出た。

 少し雪がちらつき、枯れ木の間で揺れながら輝いていた。

「雪、雪が降ってる」幸子は顔を輝かせて子供の様に囁き、立ち止まった。


 松崎はそんな幸子を気にもせずに駐車場に止めた自分の車へ向かい、車のドアの キーをはずし、ドアを開け、振り向いた。

 幸子が白いワンピ―スの裾をちらつかせて、白い雪の中で踊っているようだった。

 彼はその時、そんな彼女に幼い頃亡くなった妹の面影を見た。


「どうしたんです。早くしてください」彼はそんな思いを気付かれないように、平静を装い彼女に声を掛けた。

 彼女は走って近づいてきた。

「やっぱり、今日は帰るわ」なぜか彼女は言った。

 しかし彼は車を走らせ、駐車場を出ると彼女の家路と逆向きにハンドルを切った。


「えっ、どうしたの」

「少し飲みましょう」松坂が平然と言った。

「飲むって、あなた車を運転してるじゃないの」彼女は驚いたように言った。

「帰らなきゃいいんです」彼は言った。

 彼女は、何も言わなかった。


 街中のホテルに着き部屋を取ると二人はホテルのバーへ足を向けた。

 時刻はようやく8時を過ぎていた。

 店内はまだ閑散としていた。

 人が集まるには、まだ早い時間だったのだ。


 周りは観光客だろう、外国人のカップルが数人いるだけだった。

 そんな中で二人はワイングラスを傾けた。

 しばらくすると、松崎は思い切って幸子に打ち明けた。


「今日、東京で医学部の学会など行われていませんよ」

「わかってます。毎回、学会、学会と言って・・・」

「その、腹いせに僕を利用してるんですか」

「腹いせなんて・・・」


 しかし彼女はそれ以上何も言えなかった。

 松崎は彼女のその気持ちには気がついてはいた。

 

 彼女の主人の榎本は、T大学卒業の若いS大医学部教授だったのだが、女癖の悪い事でも評判の男だった。その彼の女癖の悪さのせいもあって、その頃、彼の上司にあたった幸子の父の名誉教授が、早く彼の身を固めさせようと、自分の娘の幸子と見合いをさせて、やや強引に二人を結婚させてしまったのだった。そして松崎はその事を知っていたのだった。


 S大医学部助教授である松崎は医学部パーテーで彼女と知り合い、何となく付き合い始め、その事実を彼女から聞いたのだった。


「外に出て歩きましょう」少し飲みつかれた幸子が言った。

「創成川ぞいにでも行きましょうか」松崎が答えた。

 鍵を預け二人はホテルを出た。

 冷たい風の横切る大通りを歩いた。


 この季節の大通りは噴水もすでに止められ、茶色い枯葉が踊っていた。

 それでもその寒いベンチに、幾人かの少し淫らなカップルが腰を掛け、愛を確かめ合っていた。

 

 幸子は創成川につくと枯れたライラクの木に手を伸ばし、微笑んで松崎を見た。

 彼女の胸のブローチが薄く輝いていた。

 松崎はタバコに火をつけながら彼女を見つめた。

 

 この季節、ライラックはすべて葉を落としていた。

 時々、厚い雲の切れ間から三日月が流れた。

 ライラックの枯れ木の間にテレビ塔が見えていた。

 

 松崎はテレビ塔の時刻が9時になったらホテルに戻ろうと思っていた。

 そして9時過ぎ、ホテルに着いた二人はいつもの様にぎこちなく愛し合った。

しかしベッドの上で愛されながら、彼女は松坂の愛を感じていなかった。

 

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初 雪 きっぴ- @YosieKazuki

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