第十五話 ラスト三十日
中間テストも終わり、本番一ヶ月前。私と平川くんは二人揃っての練習の初回を迎えた。私が音楽室のドアを開ければ、既に平川くんはサックスを手に持っていた。
「早いね。昼食べたの?」
「早弁したから」
「え、あ、そう……早弁……」
「だってほら、準備がいるからさ。待たせるの申し訳ないし。だから、別に糸井さんは早弁しなくて良いよ」
「……そうね、確かに。サックスはピアノみたいに蓋を開ければ良いだけじゃないもんね」
私はピアノの鍵盤の蓋を開けて、譜面台を立てて楽譜を書いた英語ノートを置く。楽譜を覚えているハノンの練習曲のうち一曲を弾いて、指をグランドピアノに慣らす。
「とりあえず今日は提出したセットリストの一曲目をやる?」
「そうだね」
「十七小節目から入ってね」
秋らしい曲を、と思って選んだ高校一年生の時に書いた曲、作品番号十九改め「木漏れ日影」。主旋律をサックスに譲ったため、ピアノは基本的に反復進行、シークエンスで伴奏を弾く形になる。それではあまりにもサックス中心になるからと、サックスのない状態でシークエンスを一通り、少し長めの前奏として弾くことになった。
十七小節目、アウフタクトのあとサックスが入ってくる。メロウで哀愁のある響きは、今日を選ぶ時に伝えたイメージにおおよそ合ったもので、ずっと別々で練習をしていてもちゃんと噛み合うものなんだなぁと感心する。
「ふぅ……」
「吹いてみてどうだった?入り、難しかった?」
「入りは別に。アウフタクトは吹奏楽やってればよくあるし、十六小節数えてなきゃいけないわけでもないしね。糸井さんの伴奏は問題ないよ。音色はどう思う?」
「正直、初回でここまで合わせてくれるとは思ってなかった」
「あ、本当?」
「うん。まぁ、良いのは良いけどもう少し軽い感じでも良いかも。タイトルが木漏れ日影、木漏れ日の影にフォーカスしているから明るくされると違うけど、真っ黒な影というよりは薄墨色の影というか」
「あー、なるほど。今のだと重すぎる?」
「ちょっとね。悪くはないんだけど」
「確かに伴奏も右手は粒が軽い感じするもんね」
「うん。左は結構しっかり和音押さえてるんだけど右が聞こえないってことはない?」
「それは大丈夫。まぁ、ここ音楽室だからステージだとどうなるかわからない。体育館の広さでちゃんと後ろの席まで聞こえるか……」
「わかった。リハーサルでの確認リストに入れるね」
時間が来て初日の練習は終了する。一曲目は平川くんが個人練習で音色を調整して、また来週確認することにした。
翌日からは「Sax by 3(サックス・バイ・スリー)」、タイトル通りサックスを三本、アルト、テナー、バリトンと使う曲の確認に入った。これがなかなか難しかった。元々は中学生の時に書いた作品番号七と去年書いた作品番号十六、今年書いた作品番号二十二という別々の短い曲を、間奏にピアノソロを入れて繋げたものなので、曲の中で雰囲気がかなり変わる曲だ。その点での音色やテンションの合わせ方も難しいが、なにより……。
「どう?持ち替え、間に合いそう?リードミスが多いけど」
ここにきて、平川くんのリードミスが増えた。この曲は四セクションで構成されていて、作品番号七から作品番号十六、作品番号二十二、そして再び作品番号七に戻ってくるという構成で三度の持ち替えがあるので難曲なのはわかるが、最初の作品番号七に比べて後の三セクションのミスが多い。
「多分大丈夫だと思うけど……」
「間に合わなそうならピアノソロを伸ばしても良いけど」
「いや、持ち替えそのものよりは、持ち替えるがゆえにマウスピースが変わるから、そこの練習をしなきゃいけないと思う。普段は同じ曲の中で持ち替えだから良いんだけど、今回は元々が別の曲で雰囲気もガラッと変わるから」
「そんなに違うんだ、サックスって」
吹奏楽だと金管楽器しかやったことのない私には、木管楽器は未知の世界だ。金管楽器だとマウスピースは単なるマウスピース、単体での存在だが、木管楽器だとマウスピースにリードやらリガチャーやら色々と付属品がある。色んなパーツがあるということ自体は知っているものの、それらのパーツにどんな種類があってどんなふうに違うのかは全然知らない。
「俺もガチ勢だから色々持っててさ。この曲ならこのマウスピースとリガチャーにしよ、とかこだわってリードも育ててカスタマイズしたのは良いが、となると息の吹き入れ方も変わるから通しでやる時の難易度がめっちゃ上がるってことを忘れてた。アルトはまぁ、どの曲でも使うからスタンダードなやつにしてるんだけど、テナーとバリトンはデュオだとこの曲でしか使わないから凝っちゃって。ほら、テナーなんてメタルだし」
「そうね。なんか吹き口がキラキラしてるとは思ってた」
「アルトとバリトンはエボナイトしか持ってないんだけどね。テナーはもう好きすぎてメタルも買っちゃった。持ってるマウスピースの中で一番高い。中学生の時に買ったけど、その年度の誕生日とお年玉を全部注ぎ込んだ」
「おぉ……」
「ちなみにエボナイトでもアルトはバンドーレンでバリトンはセルマーだから会社が違う」
「わかった。わざわざカスタマイズしてくれたのは嬉しいし、あとでいくらでもこだわりは聞くから、解決法を考えよう」
「はい、サーセン」
平川くんが頭を掻く。調律の際に注文をつけない限りは工夫のしようがないピアノとは違い、サックスは自分でパーツを選べるから、それもまた楽しみなのだろう。塾からの帰宅後、個チャには平川くんが所有するマウスピースとリガチャー、リードの写真と解説文が大量に送られてきていた。情熱がすごい。そして総額は考えないことにした。
「Sax by 3」の練習にかなり時間を取られ、最後に演奏する作品番号二十五を下敷きに加筆と編曲をした「夢に菊花」の練習は本番まで二週間を切ってからだった。
「練習は順調?」
「あ、先生」
「夢に菊花」の練習に入って三日目、音楽室を貸してくれている音楽の坂本先生が顔を覗かせた。
「柿食べる?うちに木があるんだけど、今年はあまりにもたくさん採れたから。部活でも出そうと思うんだけど、せっかくだから糸井さんも」
「いいんですか?」
「どうぞどうぞ」
音楽準備室で切ったのか、皿に乗せられて出てきた柿はみずみずしい。渡された爪楊枝を柿に突き刺す。柔らかいのでよく熟れているのだろう。齧れば果汁がとろけ出てくる。
「すごく美味しいです」
「良かった。それにしても本当、良い曲ばかりで生徒が書いたとは思えない」
「そういえば坂本先生にはバレたんでしたね」
「長年の勘でね。本当に、完成度はダントツ。サックスメインなようで、ピアノもただの伴奏にならないようによく考えられているし、これぞデュオって感じ」
「ありがとうございます」
「今やってる夢に菊花、二つの楽器だけで演奏しているとは思えない壮大な感じだけど、なんとなく物悲しい感じなのね。そもそも曲タイトルが不思議で。どうして夢と菊の花の取り合わせなの?」
坂本先生の質問は鋭い。タイトルの持つ不穏さに気がついている。一年生の時に「音大を目指すなら喜んで指導するわよ」と言われたことはあるが、きっとそれは社交辞令ではなく本気だったのだろう。その提案に「お願いします」と言えればどれほど良かったか。
「長いし直接的だから省略したんですけど、最初につけたタイトルは夢に菊花を手向ける、でした。他の曲が、表記だと日本語五文字程度の幅に収まるので一曲だけ長いのも変だよねって話になって」
元々どの曲も作品番号しかなかったため、文化祭に申請するのに合わせてタイトルを考えたが、このタイトル決めも難航した。何せ作曲してから時間が経っているので、どんなシチュエーションで降ってきた曲なのか私自身覚えていない。よって曲からの連想ゲームとなるのだが、夢と菊というキーワードが出てくるまでにもかなり時間がかかったし、私たちにとって一番センシティブな曲、覚悟の曲だから相応しいタイトルをつけるために何度も話し合った。
「そう。……二人人とも夢と決別するのね」
「はい。本職にするには縁がなかったんです」
しんみりと言う坂本先生に平川くんが苦笑いして言った。私も頷く。私は、私たちは、プロとしての音楽の道に縁がなかった。そして、縁を結ぶだけの運もなかった。
「プロにならなくても、音楽をやめないでね」
「もちろんです」
「俺たちのことなので、なんだかんだで大学のうちは楽器を続けていると思います。吹奏楽がない大学なんてほとんどないし」
「実家からの通学なら、ピアノのレッスンも通い続けられるので。でもまぁ、名前を全面に出しての演奏はなかなかないと思います」
「そうね……。文化祭の日は心して聞くわ」
坂本先生はそう言うと「お邪魔してごめんなさいね」と音楽室を去っていった。私と平川くんは顔を見合わせて、一つ特大のため息をついたのだった。
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