第十一話 息の詰まる家
「ただいま……」
私は内心ヒヤヒヤしながら家に帰る。午後六時前となると、昼寝をしていた親もさすがに起きているだろう。特に行き先もなにも、出掛けたことすら伝えていない。言い訳は考えているが、乗り切れるか、否か。
「おかえり。どこ行ってたの?」
リビングダイニングに入れば、母親はダイニングの机についてテレビを見ながらもやしの根切りをしていた。キャベツと一緒に生姜焼きの下に敷くのだろう。機嫌は悪くなさそうで一安心する。
「散歩」
「どこに?」
「このあたりをぐるっと。途中で同級生に会ったから立ち話もしたけど」
「そう。パパが今風呂に入ってるから、次入りなさい」
「はーい」
「運動も大事だけど、ちゃんと勉強しなさいよ。今からみんな追い上げてくるんだし、今トップでも意味無いんだから」
「わかってまーす」
私は二階の自室に向かう。バタンバタンと足音を立てたい気持ちをなんとか堪えて、静かにドアを開け、部屋に入った。
「はぁーあ」
いつもより一際丁寧にドアを閉め、盛大にため息をついた。緊張が解ける。ズルズルとドアにもたれかかったまま座り込んだ。フローリング、勉強机と椅子、ベッド、参考書や図鑑で埋まった本棚が三つ、座椅子、クローゼット。自分の部屋があるのは恵まれていると言われればその通りだし、特にこだわりはないので部屋の設備に文句があるわけではない。置物やクッションの類いを置いたところで、埃を積もらせるだけだ。
(電子ピアノがあればな……)
ただ、一点惜しいとすれば電子ピアノがないことだ。昔はタッチや音色が違うと、本物のピアノにこだわっておばあちゃんの家からピアノを持ってきてもらったけど、今はもう音大を目指す未来はない。それならいつでも弾ける電子ピアノの方が都合が良い。
とはいえ、いくら貯め続けたお年玉で本体価格は賄えるとしても、この二階にピアノを運ぶには階段の幅が狭すぎるから、窓から吊り上げて搬入する必要がある。大掛かりだ。絶対に人目につく。そもそも、家にピアノを運び込んだ時点でどうやっても親にはバレるだろう。部屋に運び込んでもらえさえすれば自力で動かせるからクローゼットに隠して、クローゼット内で弾けばワンチャン……と思った時代もあったが、修学旅行中に勝手にクローゼットの中を整理されたから、無理だろう。
風呂に入る準備を終えて、平川くんに今まで録り溜めた音源を送る。弱音器ありでの演奏ゆえにぼやぼやとした音だが、家から漏れる微かな音でも正確に音程が取れる平川くんなら問題ない。
(成績さえ落とさなければ、ピアノ通いも咎められないだろうし)
今学期になってから、前にも増して親は成績の話を口にするようになった。私が周りの生徒に抜かされるのではないかと気が気でないらしい。もちろん私も大学受験が大事だとはわかっているが、毎日のように言われ続けていると辟易としてくる。こんなにも参考書に囲まれた部屋にいる私が勉強していないと思っているのだろうか。
そもそもの話、地元で薬剤師になるだけならほどほどに勉強しておけば充分だと思う。研究系に行くなら別だがそうではない、市井で働く薬剤師になるのであれば国家試験に受かれば良いのだし、わざわざ偏差値の高い大学を目指す必要があるのかわからない。もちろん授業料の観点からすれば国立大学に受かって欲しいのだろうし、私も目指しはするけれど、得られる将来は変わらないのになんでそんなに頑張らないといけないのだろう、と思う。
(かわいかったなぁ、ハナちゃん。写真撮れば良かった)
平川くんと話ができたのはもちろん良かった。今まで話をする機会もなく名前だけ知っている相手だったが、話をしていてストレスの少ない、素朴な人だった。デュオで文化祭に出るというのも気が重い来年の生活の楽しみになった。
だが、今日一番の収穫はかわいい黒柴と戯れたことだ。柴らしからぬ人懐っこさ、密度の詰まったもふもふの毛並み、焦茶色の愛らしい目、ペロリと舐められた時の舌の柔らかさ。日常のストレスが全て吹っ飛んだと言っても過言ではない。
未だ三百にも満たないスマホのカメラロールの大半は、サブスクしている勉強アプリの動画授業のスクショだったり、塾の先生の板書だったり、友達に見せてもらった参考書の写真だったり、塾の掲示板に貼り出されたお知らせの写真だったりして、カメラロールなのに文字文字としている。この中に犬がいたらどんなに癒しになるだろうか。
「ふふふン、ふふふン、ンふふーンふふーフふ」
尻尾どころか白っぽいおしりごとをふりふりして、跳ねるようにして帰っていったハナちゃんの後ろ姿を思い浮かべると、ご機嫌な一曲が頭に浮かんでくる。バタン、と風呂場のドアが閉まる音が聞こえた。父親が風呂から出てきたのだろう。私は急いで、浮かんできたフレーズをハミングしてボイスメモに録音し、一階へと降りた。
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