第八話 まさか聞こえていたなんて
(本当に遭遇するとは……)
笹野さんから話を聞いて、何の用があるのか全く心当たりのないまま、半信半疑で家のWi-Fiがギリギリ入る玄関ポーチに座って英単語アプリをしていた。犬の鳴き声が聞こえて道に出てみれば、細身の黒デニムにダボっとしたスウェットを着て犬を連れた平川くんがいて、驚いた。思わず目つきが鋭くなってしまったが、平川くんはともかく連れている柴犬はニコニコ顔で尻尾を振りながらこちらを見ていた。
万が一にも犬が食べたら食中毒になる植物だらけの前庭に平川くんを招き入れるのはなんとなく憚られて、とりあえず近くの小さな公園に移動する。五時の音楽が鳴った後だからか、公園には誰もおらず一つしかないベンチも空いていた。私はさっさと腰掛けるが、平川くんは立ったままだ。
「座らないの?」
「糸井さんって犬、大丈夫?」
「動物は好きだし、アレルギーもないけど」
「なら良かった」
「犬の方は……えっと、撫でた方が良いの?柴犬だよね」
「ハナちゃんは柴らしくない柴だから。さっきも小学生にもみくちゃにされてた」
「確かに柴らしくない柴だね……」
平川くんもベンチに腰を下ろす。ヤッホーと言わんばかりに膝に手を置いてくる犬——ハナちゃんはよしよしと撫でてあげれば嬉しそうに目を細めた。こんなに懐っこい柴犬っているんだな……と変な感動で本題を忘れそうになる。
「なんで平川くんが、あそこが私の家だって知ってるの?」
「知ってたわけじゃなくて、推測で……」
「推測?」
「三週間前にハナちゃんと散歩に来た時、うちのクラスの合唱コンの、自由曲のピアノ伴奏が聞こえたから。表札も糸井だし」
「……ピアノの音、曲がわかるくらい、聞こえたの?」
私はゾクリとした。顔が強張る。まさか、窓を閉めて弱音器を使っても家の外に音が漏れていただなんて。車の音が聞こえた瞬間、弾くのを止めるようにしていたけれど、もしかしたらこれまでも両親の耳に入っていたかもしれない。あるいは近所の人との雑談でレッスンの課題とは違う曲を弾いているとバレているかもしれない。
「え、うん。あの日は今日と違ってすごく静かだったから。三連休の真ん中だったし、県内でも割と規模の大きな秋祭りがある日だったし、みんな出かけてたのかな。微かに聞こえた」
「そう」
「でも全然近所迷惑とか、そんなことはないと思う。曲がわかったのは聞いたことがあるからってだけだし」
「平川くん、吹奏楽部だもんね。耳は良いのか」
私は少し安心した。近所の人の耳には油断ならないが、とりあえず両親の耳に直接聞こえてはいないだろう。私が胸を撫で下ろす一方で、平川くんは驚いた顔をしていた。
「え、なに?」
「いや……糸井さんが俺のことを、部活まで知っているとは思ってなかったから。糸井さんみたいに人前で名前を呼ばれることないし」
「去年の文化祭、吹奏楽のステージでやけにサックスでソロを吹いた人だけ上手いなって思ってた」
「え」
「思わず上手いなって呟いたら、近くにいた子が名前を教えてくれたから知ってる」
「あ、そうなんだ」
「私も中学生の頃は吹奏楽部だったから。チューバだったから木管のことはわからないけど、上手いか下手かくらいはわかるし」
「そうだったんだ。へぇ、チューバ……高校で吹奏楽部に入らなかったのはチューバの椅子が空いてなかったから?」
「いや、単に毎日練習とか忙しいなと思ったから。かといって帰宅部になるのも勿体無い気がして。中学卒業と同時に英会話を辞めたから、その代わりになりそうで、かつ、緩くて楽しそうだったから英語部に入った」
「なるほど。だから発音がきれいなんだ」
「別にネイティヴ並みってわけじゃないのに変に注目されるから、嫌になることもあるけどね」
「え、ネイティブにしか聞こえないけど……」
平川くんは首を傾げる。表情を見る限りお世辞というわけではないのだろう。嫌味な感じも揶揄う感じもしないから、少し警戒を解く。私の表情が緩まったからか、平川くんもほっとした顔になった。
「そういや今日って、言い方がアレだけど……俺を待ってたの?」
「そう。木曜日に笹野さんから言われて。要領の得ない話でよくわからなかったんだけど、日曜日の夕方に犬の散歩をしているらしいから外に出て待ってたらって言われて。なんで私の家を知ってるのか知りたかったし」
「あ、そうなんだ。いやぁ全然知らなかったけどね。高校生になってからばあちゃんに頼まれてハナちゃんの散歩してて、結構な頻度でこの住宅街の中を歩かせてもらってるけど、本当に三週間前にあれ?ってなったから」
「いやまぁ、良いんだけど。その頃から時々視線を感じていたんだけど、それって平川くん?」
「え、あ、た、多分……ごめん」
平川くんが狼狽える。視線の主がわかったのは良いが、仮にその程度の話題だけなら躊躇わずさっさと聞いてくれれば良かったのに。と思っていたら、何か察したのか平川くんが口を開く。
「その、タイミング見計らって話しかけようと思ってたんだけど、俺、全然教室にいないし、帰りは気がついたら糸井さんいないし、掃除当番もちょうど班が被らないから。二班でやる教室掃除で被ればまだ時間があったのに」
「そういや、平川くんの班って今週トイレ当番か」
「そうそう。……ハナちゃん、おトイレ?」
ベンチからリードの伸びる範囲でウロウロとうろついていたハナちゃんが踏ん張り始める。平川くんがハナちゃんのお尻からフンが地面に落ちる前にトイレットペーパーを巻きつけた手で受けてビニール袋に入れる。ハナちゃんはスッキリしたらしく、嬉しそうに私に駆け寄ってくる。
「いきなりごめんね」
「全然。謝ることじゃないと思うけど」
「糸井さんは犬、飼ってたことあるの?」
「ないよ。飼ったことあるのはハムスターくらい。手の上でフンをされるのなんて日常茶飯事」
「確かに……」
ハナちゃんが嬉しそうに脛に頭を擦り付けてくるから、私はハナちゃんの顔まわりをわしゃわしゃと撫でる。本当に人懐っこい柴犬だ。たまに散歩途中の犬を撫でさせてもらうことはあるけれど、こんなに柴犬を撫でたのは初めてかもしれない。
「糸井さんと話がしたかったのは、ばあちゃん家と近所ってだけじゃなくて……」
「まぁ、そうだろうとは思ってたけど。私の家を知ったところで平川くんに大した得はないし。何?」
「あの日、伴奏以外で弾いていた曲は何の曲?ゲームとか映画のサントラ?」
「え……」
「何曲か弾いていたよね」
「待って、待って。そんなにこの辺りばかり散歩したの?」
「あ、いや……その、伴奏とは別の曲が始まった時、ハナちゃんが糸井さんの家の前に座り込んじゃって。じーっと座ってずっと聞いてたから、かなり気に入っていたみたいで、何の曲か教えて欲しいなって。サックスで吹いてもメロディーが映えそうな曲もあったし」
「あ……」
「ふ〜ンふラリラリティーラランラみたいな曲とか」
「…………」
「糸井さん?」
平川くんが口ずさんだメロディーは紛れもなく私が作った曲の一つで、私が作った曲を聴いていたことは疑いの余地もない。しかもかなり正確だ。勝手に吹かれて、出どころが私だと言われたら困る。かといって答えられないのはおかしいし、でも似たような曲はすぐに思いつかない。
(どうしよう……)
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