第4話 犬の散歩とピアノの響く住宅街

「次は尾山、尾山、お出口は左側です。開くドアとお足元にお気をつけください」


 自宅の最寄り駅からは6駅先、高校の最寄りからは2駅先の小さな駅で、俺は電車を降りた。


(ここからが面倒なんだよな……)


 一つため息をついて、駅の北口を出てまっすぐ歩くこと数十メートル、右手に出現したなかなかの勾配で細い坂道を登る。もっとなだらかで車が通る道もあるが、そちらは徒歩だとかなり遠回りになるから、少々キツくても坂道を登る。背中のリュックサックが重い。


 登って登って、その先の山沿いのニュータウンの中をぐるぐると歩き回りながらさらに登ること20分。俺の存在に気がついた犬がワンワンワンと嬉しそうに吠えるのが聞こえる。


「ばあちゃーん、来たよー」

「はいよ〜タクちゃん、ご苦労さん。ハナちゃんも大喜びよ」


 ばあちゃんが言う通り、柴犬のハナちゃんは尻尾をブンブン振りながら飛びついてくる。ハナちゃんは柴犬の癖に懐っこい、柴らしくない柴だ。わしゃわしゃと撫でてやればゴロリと転がってへそ天した。毎度思うけど本当に柴か?


「散歩は夕方だけどね」

「今日もよろしくね。朝は一応20分くらいは行ったんだけど」

「まぁ、トイレのために行かざるを得ないしね。でも無理しないで、ばあちゃんが倒れた方が大変」


 じいちゃんとばあちゃんが柴犬を飼い始めたのは4年前。ボケ防止と散歩相手として、豆柴とされていた黒柴の子犬が家族となり、雌だったからハナと名付けられた。ハナちゃんハナちゃんと可愛がられたからか、すくすくと育ったハナちゃんは豆柴ではなく普通の柴の大きさに育った。「全然豆じゃなかったねぇ」と言いつつも、じいちゃんとばあちゃんはハナちゃんにメロメロで、そのせいかハナちゃんはビックリするくらい人懐っこい柴に育った。


 しかし一昨年、じいちゃんが脳卒中で急死。その半年後に、ばあちゃんは足を怪我して、完治はしたものの前ほどシャキシャキ歩けなくなった。


 とはいえ、ばあちゃん1人の日常生活なら特に問題はない。歩くのが前よりゆっくりになったというだけで、それでも年の割にはしっかり歩いていると思うし、家のことは自力でなんでもできるし、車の運転は医者と教習所のお墨付きだから買い物にも問題はない。だから、同居することにはならなかった。


 唯一の問題はハナちゃんの散歩だ。ハナちゃんはまだまだ若いし、散歩が大好きな犬だ。前は朝も晩も1時間くらい散歩に行っていた。ばあちゃんが入院中に預けていたドッグスクールでも、元気が有り余っているハナちゃんは、トレーナーにしっかり散歩してもらっていたらしい。


 しかし、ばあちゃんが足を怪我してから、散歩は長くても1回30分になった。歩くスピードも前ほど速くないから、必然的に歩く距離が短くなる。それなのにハナちゃんのご飯の量は前と同じだし、おやつも食べる。ハナちゃんはわがままボディまっしぐら。獣医に怒られて、おやつは封印されたしご飯もダイエットフードになった。あとは運動だが、ばあちゃんの足の状態だと散歩を増やすというのは難しい。


 そこで白羽の矢が立ったのが俺だ。高校に上がってから、中学の時みたいに毎週末部活があることはなくなった。加えて、ばあちゃん家にはWi-Fiがないから、家にいる時みたいにスマホで無限にゲームをしたり動画を見たりということはできない。


「ばあちゃんの家でしっかり勉強して、ハナちゃんの散歩して帰ってきなさい」


 そう親から命令されたのが高校1年生、初めての中間テストが終わったあとだ。以降、毎週とまでは言わないが月2、3回は日曜日にばあちゃん家に行って昼ごはん食べて勉強して、夕方に1時間から2時間、しっかりハナちゃんの散歩をして家に帰ることとなった。


「高校はどんな?楽しい?」

「普通だよ。まぁ、毎日移動ばっかで大変」

「あれは本当にダメよね。来年もそうなるようならばあちゃんに言いなさい。これでもオージーってやつだから」

「さすがに先生たちも改めると思うけどね……」


 昼ごはんを食べながら、ばあちゃんと近況の話をする。俺の高校はばあちゃんの母校でもあるので、ばあちゃんは学校の話をよく聞きたがる。ばあちゃんが卒業した家政科はもうないけれど、名残りなのか第4棟には調理室が2つもあるし、裁縫室(現在の名前は家庭科室)も2つあって、未だに足踏みミシンも据えつけられている。


 食後、今週の課題を終わらせて、来週の授業の予習をしたらそろそろ17時だ。俺が立ち上がった瞬間、ばあちゃんの足元に伏せていたハナちゃんも立ち上がる。


「ハナちゃん散歩行こう」


 そう言えばハナちゃんは自分のハーネスとリードを咥えて来る。ボトッと俺の足元に落として満面の笑みを浮かべた。ショッキングピンクに白い水玉のハーネスにハナちゃんの前足を通す。反射材のついたリードもピンクだ。「ピンクか……ラブリーすぎないか?」と最初は思ったが、これはハナちゃんの持ち物であって俺の持ち物ではない。今や羞恥心はない。ハナちゃんがラブリーなのだから問題ない。


 ばあちゃんに見送られて家を出る。ニュータウンの中をぐるぐる歩き回るか、平地に降りるかはハナちゃんの気分次第だが、基本は平地へ降りることが多い。ばあちゃんとの散歩では平地まで降りないからだろう。あとはどちらの道に行くかだが、今日はさっさと平地に降りたい気分らしく、俺が登ってきた急な坂を下っていく。緩やかな坂は帰りに取っておくらしい。


 一度駅に行き、南口から伸びる歩道橋を渡って平地へと降りる。駅前のチェーン店が集まる商業地を抜けると住宅街になり、ハナちゃんはこの住宅街が好きだ。多分小学生に会うと「かわいい〜!」と撫でてもらえるからだろう。本当に柴犬なのか。


「ハナちゃん、今日はみんなお出かけしてるのかもね」


 普段は前庭や道路上で遊んでいる子どもたちがいるけれど、今日は静かだ。10月中旬、三連休、紅葉シーズンでもあるし旅行に行っているか、あるいは県内のどこかで開催されている秋祭りに出向いているのかもしれない。


 ハナちゃんは少ししょんぼりしながら住宅街を歩く。本当に住宅街は静かだ。遠くから車の音、たまに踏切、電車の音が聞こえてくる以外の音がない。フンフンと電柱を嗅ぐハナちゃんの鼻息が大きく聞こえるほどだ。


 ぐるぐると住宅街の中を歩きながら、帰りに歩く傾斜の緩やかな広い道路に向かって歩いている時だった。


(あれ、これうちのクラスの合唱コンの自由曲……?)


 静かな住宅街に微かに響くピアノの音。思わず立ち止まる。ハナちゃんが不思議そうな顔をして見上げてくるが、俺はピアノの音に惹きつけられていた。


 高校では1年生と2年生で1月末に合唱コンクールをする。歌う側の練習は11月の文化祭の後に始まるけれど、伴奏者が余裕を持って練習できるようにと課題曲の発表と自由曲の選択は9月中に行い、楽譜も渡されているはずだ。


(それにしても、今の時点でこんなに弾けるなんてかなり上手いけど。誰だっけ、うちのクラスの自由曲の伴奏者……)


 課題曲の伴奏は、同じ文系の笹野さんだから記憶にある。自由曲の方は理系の女子だったと思うが、誰なのか覚えていない。指揮者はどちらの曲も浅山だ。なにせ音痴なので「俺は絶対に歌わない!でも内心点は欲しい!」と指揮者に立候補した。明日浅山に聞けばわかるだろうか。


(いやいや、でもうちの高校の人だとは限らないしな……。このあたりの中学校でも、他の高校でも合唱コンってあるはずだし)


 考えている間にちょうど曲が終わる。


「ごめんごめんハナちゃん、行こうか」


 再び歩き出せば、またピアノの音が聞こえた。今度はハナちゃんがペタンとお座りする。耳がピクピクと動いて、茶色いレンガ調の壁の家に顔を向ける。表札には「糸井」と書かれていた。ピアノを弾いているのはこの家の人らしい。


(なんの曲なんだろう……)


 ハナちゃんが動かないので、俺も立ち止まって耳を澄ます。聞く感じ、クラシックの曲ではない。サックスでメロディを吹いたら映えそうな曲だと思うがジャズでもない。ポップスでもなさそうだ。敢えて言うならゲーム音楽や映画音楽だろうか。何度も同じメロディを繰り返す曲もあれば、J-POPというわけじゃないだろうがAメロBメロサビがありそうな感じの曲もある。


「……ハナちゃん、そろそろ帰ろう?」


 ハナちゃんに声をかけるが、ハナちゃんはじーっと座って動かない。時刻は18時15分。20分くらいは立ち止まって聞いていただろうか。緩やかな上り坂を登って帰るなら、ここからだと40分はかかる。


「もっと聞きたいのはわかるけどさ……俺も聞きたいし。でも遅くても19時37分の電車に乗らないとさ……その次って1時間後なんだよね……」


 くいくい、とリードを引っ張ると渋々ハナちゃんは立ち上がった。トボトボと歩くのをあの手この手で急かしながら、ばあちゃんの家へと急ぐ。


(でもいい曲だったな……曲名わかるなら知りたいんだけど……)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る