第2話 不完全燃焼の日々

 移動、移動、また移動。


「なんで理系と文系を一緒にするかな……」

「いくら文系志望が多かったとしても、8人ならどうにかねじ込んでほしい」

「本当それ。今日とかずっと移動してるんだけど」

「俺らの休憩時間、伸ばしてほしい。これトイレ行く時間ある?」

「どうだろう。次どこだっけ?」

「化学基礎だから第4棟」

「げ、遠いな……」

「私たち先に行くね。先生には前の授業が延長したって言っておくから」

「私たちじゃ上まで手が届かないから、ごめんけど黒板はよろしく。でも先生も大変だよね。私たち8人のためだけに授業してさぁ」


 先に女子が化学教室に向かう。8人のうちたった2人の男子、俺と浅山で大急ぎで黒板を消すが、倫理の先生の筆圧が強すぎて、チョークが全然消えない。ゴシゴシと擦れば消えなくもないが、黒板全体に丁寧に黒板消しをかけている時間はない。うっすら読める状態で残っているが、理系の人たちには勘弁してもらおう。


 何せ時間がない。


 倫理の先生は3分オーバーで授業を終えたし、渡り廊下の繋がっていない第4棟に行くのに5分はかかる。しかも廊下は既に人でごった返しているから、第2棟から外に出るまでに普段より時間がかかるかもしれない。遅刻せずに教室に入るなら浅山がトイレに行く時間はない気がする。気にせず行けばいいとは思うけど。


 1学年6クラスある高校は2年生以降、文系理系各3クラスに分かれ、番号が小さい方から理系、文系となっている。それなのに、俺たち8人は2年3組に在籍している。通称、はぐれ文系。なぜ俺たちだけが理系にぶち込まれたのかというと、社会科目で世界史を選んだからだ。


 この保守的な高校では文系の社会科目は歴史と決まっていて、生徒は日本史と世界史の2択から選ばされる。毎年日本史が圧倒的多数で、世界史は少数派。今年は開講目安の10人にも達しなかったので、本来なら世界史の授業は行われず強制的に日本史にされるのだが、「世界史の8人を理系クラスに入れたらちょうど良い」という理由で例外的に開講された。希望の授業が取れるのは嬉しいけど、良いのやら悪いのやら。


 今日の時間割で言うと、1限目の数学は文理で進度が違うから同じく文系の2年4組と合同。模試の点で2つのグループに分けられ、得意な人は2年4組の教室で、苦手な人は一つ上の階の空き教室で授業を受ける。2限目は世界史で、第1棟の空き教室で世界史を受けている間、理系の人たちは教室で地理の授業を受けている。


 3限目は倫理で、珍しく俺たちが2年3組の教室で授業を受けるから、自分たちの教室がある第2棟に戻ってくる。8人のためだけに倫理の先生は授業をする。その頃、理系の人たちは物理で第3棟にある化学教室で授業だ。そして、これから始まる4限目は化学基礎なので、俺たちは理系の人と入れ替わりで第4棟の化学教室に向かわなければならない。たった8人のために化学のおじいちゃん先生は1限分、授業をしなければならない。理系の人は教室で生物の授業を受ける。


 昼食を挟んで5限目は国語総合で、やっと教室移動なしで授業を受けられるが、6限目は体育なので、今の授業はバレーボールだから体育館に移動する。こんな毎日なので正直、同じクラスだけど理系の人たちのことはあまり知らない。かろうじて名前と顔は一致していると思うが、同じ部活の人もいないので、人となりまでは知らないことが多い。


「あれ、まだいるの?」


 教室に人が入ってくる。振り向いて顔を見れば、生物の先生がいた。そういえば、3限目の間、2組から生物の授業がうっすら聞こえた気がする。


「あ、先生。黒板を消すの頼んで良いですか?授業は3分遅れで終わるし、チョークが濃すぎてひと消しじゃ消えないし」

「行って行って。それはもう仕方ないから」

「あざーす!もう本当無理」

「よろしくお願いします」


 浅山と俺は教科書とノートと筆箱を引っ掴んで教室から出る。「廊下は走りません!」という国語の先生の怒声が飛んできた気がするが知ったことではない。そんなことを言うなら走らなくていい時間割にしてくれ。浅山が粗相しても良いのか。


 無事、化学基礎の授業には間に合った。いや、正確に言うとチャイムが鳴るまでには間に合わなかったのだが、おじいちゃん先生は「遅刻はつけないよ」と優しく笑ってくれた。よって、セーフだ。


 化学基礎、国語総合、体育と授業を終え、キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴る。慌ただしい1日がやっと終わった。今週は掃除当番ではないから、掃除当番で残っている浅山と駄弁るのもそこそこに、リュックサックを持って部活に向かう。向かう先は食堂の2階。第2棟のエントランスは自販機のせいで混雑するから、まずは渡り廊下で第1棟まで行って、そこから地面に降りて食堂の建物に入る。


 大半の特別教室は第4棟にあるが、音楽室は食堂が建て替わる際に、第4棟の4階から食堂の上の階に移動された。まぁ、第4棟の4階のままだったらかなり不便だろう。校舎の中で最も古い第4棟は廊下や階段も他の棟に比べて狭いし、エレベーターはもちろんないし、そもそも4階から楽器を下ろすのは大変だ。大昔の先輩たちはどうやってコンクールや体育祭、文化祭の時に楽器を下ろしていたのだろうと思う。その頃はもっと部員の人数も多かったのだろうか。今は新しい建物だけあってエレベーターもついており、生徒単体では使用不可と言われているけれど楽器の運搬の時には堂々と使っている。楽器と一緒なのだから文句は言わせない。


 文武両道とは言いつつ、どちらかといえば勉学に力を割くこの高校では、吹奏楽部はあまり人気がない。現在の部員数は24人だが、そのうち6人は幽霊化している。昔は中編成のコンクールにも出ていたらしいが、今では小編成のコンクールに出るのがやっとという状況。顧問も「ゆるく楽しくやって、行事の時には華を添えればいいんじゃない?」というスタンスなので、さほど練習も厳しくない。


(正直、不完全燃焼なんだよな……)


 小学生の間ピアノをやっていたから楽譜が読めるし、と中学生になった時、特に得意なスポーツもなかった俺は吹奏楽部に入った。そこでのサックスとの出会いは運命だった。こんなに楽しくてかっこいい楽器があるのか、と虜になった。夢中になって、中学校にあったサックス、アルト、テナー、バリトンは全種類吹けるようになった。曲によってはアルトとテナー、テナーとバリトンを持ち替えて演奏したりもした。とにかく楽しかった。


 サックスを極めたいという気持ちは、吹奏楽部に入った中学1年生の頃から既にあった。音楽大学に行きたいなとも思ったし、入試も突破できる自信はあったし、今もある。ピアノも習うのをやめたとはいえズブの素人というわけじゃないから、ある程度練習すれば、ピアノ専攻というわけじゃないのだから合格できるレベルになると思う。


 けれど、わかっていた通り、親からは反対された。高校受験時点で音楽高校に行きたいと思ったけれど拒否され、それなら吹奏楽の強豪校に行きたいと思ったが、俺の学力に対して偏差値が低すぎるという理由でこちらも否定された。中途半端に偏差値が高いのも困ったものだと思う。反対を押し切ってまで強豪校に進学する勇気はなくて、結果、この自称進学校にいる。幸い吹奏楽部はあったから楽器には触れるけれど、合奏でグルーヴを楽しめるほど周りは上手くない。それでも1人研鑽には励むけど。


(まぁ、確かにオーケストラにある楽器じゃないし、音楽大学に行く意味があるのかと問われれば言葉に詰まるけど)


 サックスことサクソフォンは、基本的にクラシック音楽に使われる楽器ではない。19世紀中頃にベルギーで生まれた楽器だが、ヨーロッパよりはアメリカで、クラシックではなくジャズやダンスミュージックの世界で受け入れられた。ゆえに今でも吹奏楽を除くと基本的にはジャズ、ポップスやロックなどで登場する。


 要はポピュラー音楽の楽器であるから、頭の固い親には「わざわざ大学で学ぶものなの?」と言われるし、「どうやって食べていくつもりなの?何を目指すの?」と問われると、正直俺も答えに窮する。演奏家としての就職先で、他の楽器のようにオーケストラというわけにはいかないから、すぐに思いつくところはない。テレビ局も昔のような生演奏は少ないから、バンドを持っているところは限られるし、自衛隊の音楽隊も狭き門だ。警察の音楽隊はまず警察官にならないといけないし、希望したところで音楽隊に入れてもらえるかはわからない。音楽教室の先生になれれば良い方なのではないか、と思うが、親はその答えに納得しない。今日の進路希望調査にも音楽大学や専門学校の名前は書かず、近場の大学の商学部や経営学部の名前を書いた。


 趣味で楽しむ分には親も何も言ってこないから、今も吹奏楽部に所属している。不完全燃焼でも、サックスに触れないよりは触れる生活のほうがずっと良い。きっと大学でも吹奏楽部か、あるいはジャズ研究部のようなものがあればそちらに入るだろう。けれど、俺がサックスを専門に学ぶ日は早々来ないし、サックス奏者を職業にすることもきっと、ないのだろう。

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