第12話 過去
この世界に突然転移して深い森の中に放置された私は、有名な狩りゲームに出てくるような猛獣や巨獣ひしめく怯えながら必死に森を抜けるべく足を進めた。
時に息を殺し、時に走り、時に忍び足で、だ。
周囲の動植物は未知の世界のモノしかなく、口にすれば何が起きるか分からない。
助けが呼べない以上、少しの体調悪化も命取りになると考え、食事もままらなかった。
彷徨い歩く中、一日だけ雨が降ったのは本当に運が良かったと思う。
三日間歩き続けた結果、幸いなことに森を抜けて開けた街道に出られたが、私は一旦そこで意識を失った。
そして、意識を取り戻した時、私は馬車の荷台の中で手足を鎖で拘束されていたのである。
何事かと目を丸くして周囲を見渡せば、近くに居たのは私同様に手足を拘束されて目の光を失った男女と傲慢な顔付きをした屈強な男達だった。
一先ず命は助かったが、すぐに自分が『奴隷か何か』で捕まったと理解して愕然とする。
それでも、人がこの世界にもいたという安堵感はあった。
恐る恐る「あの、ここはどこなんでしょうか」と尋ねるが、屈強な男達は眉を顰めて私を訝しむ。
次いで、彼等が会話を始めたときに私は更に深い絶望に襲われる。
いや、薄々予想はしていたのだ。
それでも、目の前で実際に見聞きするのでは現実感が全く違う。
屈強な男達から聞こえてくる言葉が、全く聞いたことのない言語だったのだ。
改めてこの世界が地球でないことを理解すると共に、この先における自分自身の人生を悟って私は力なく項垂れた。
人の常識、価値観というのは環境によって育まれる。
だが、培った常識や価値観が全く通じない世界の最底辺位置に現代人が捨て置かれた時、人として生きていくことはできるのか。
その答えは『否』だった。
奴隷となった私に与えられた住まいは、日本のテレビなどで見たことのある独房が遥かにましと言えるような住まいである。
同性の奴隷達ともに床に雑魚寝し、排泄物は用意された蓋付きの木箱に行うため異臭漂う酷い環境。
そして、一日二回配給されるのは濁った水と必要最低限の食糧である。
同居人となった奴隷達との会話も試みるが、誰一人言葉が通じるものはいない。
また、同居人となった彼等は数日中にすぐ居なくなった。
売れた、ということだろう。
だが、私はいつまで経ってもお呼びが掛からなかった。
言葉が通じないため引き取り手がいなかったのだろう。
当時、私同様に売れ残っていた同居人が一人いた。
彼は薄褐色肌の年配の方で足が悪い様子だったが、私のことを気に掛けてくれて良く話しかけてくれた人物である。
『アルケオ』と彼は名乗っていたが、今となってはそれが正しい名前だったかもわからない。
何にしても、彼のおかげで日常の言葉が多少理解できるようになった。
そんなアルケオとの別れは突然に訪れるが、それは彼が『売れた』のではない。
いつまで置いておいても売れない。
つまり商品価値がないと判断された彼は、私の目の前で首を刎ねられ殺された。
おまけにアルケオの首を刎ねた男は、自身の剣術が優れていることを周囲に自慢するような仕草を見せる。
それに対して周囲の者達もおどけたり、笑ったり、冗談を言い返している様子だった。
しかし、ここでは『それが当たり前』なのだ。
賞味期限が切れた食品を捨てるような感覚で、彼等は奴隷【ひと】を在庫処分するのである。
見たことのない量の溢れ出た血で床に血だまりができ、目の前に転がってくるさっきまで陽気に話していたアルケオの首、鼻をつんざく血に含まれる鉄の匂い、小刻みに痙攣するアルケオの身体。
それらを目の当たりにした私は、その場で蹲って胃の中をひっくり返した。
同時に、それが未来の自分の姿でもあると嫌でも理解する。
生き残るためには、彼等に自身の存在価値を伝えなければならない。
そう考えた私は必死に考えを巡らせ、やぶれかぶれで披露したのが『算術』である。
言葉は通じなくても、物の数え方は普遍だった。
自身の指、床に転がる小石、独房の中に居る奴隷の人数を伝え続けた結果、私は屈強な男達を雇っている商人の目に止まる。
算術を扱えるのは思ったより珍しいらしく、商人は私を独房から出して身体を洗うと、様々な書類を計算しろと身振り手振りで指示してきた。
この機会を逃せば、待つのは死だ。
私は、ともかく必死で計算して渡された書類を終わらせた。
結果、商人は私の価値に気付いてくれたらしく、その日から私の生活は少し改善する。
しかし、雇い主の商人は私が言葉や文字を習うこと厳しく禁止した。
情報が外に漏れたり、私が何かいらぬ情報を得たりすることを嫌がったのだろう。
暫くすると、独房の時とはまた違った問題が発生した。
商人に雇われていた男達からの陰惨な虐めだ。
奴隷だった私が、雇い主に気に入られたことが彼等の癪に障ったのだろう。
事あるごとに因縁を付けられた挙げ句、思い出すの憚られる辱めも数々受ける。
雇い主の商人は私の状況を知っていたようだが、男達の機嫌を損ねる方が面倒臭いと判断したらしく、彼が何かしてくれることはなかった。
なおこの頃の私は、商人や男達に『黒髪』と呼ばれている。
言葉が通じないから、身体的特徴からそう呼ぶようになったのだろう。
これは、後で知ったことだが『黒髪』を持つ人種はこの世界では珍しいそうだ。
陰惨な苛めに耐え続けて一年が経過した頃、流石に精神と体力の限界を感じた私は、聞き覚えたカタコトの言葉で商人にお願いをした。
『イジメ、ツライ。ヤメサセテホシイ。オトコタチ、ケイサンデキナイ。オネガイシマス』
男達が計算できないというのは事実だが、これには商人が彼等の給料を多少ピンハネしていたことをそれとなく暗示したのだ。
しかし、これは商人にとって『私は価値がある』という驕りだった。
すぐ暗示に気付いた商人は激昂し、私を独房送りにする。
そして、その日の内に私の処刑を男達に命じたのだ。
私を嫌っていた彼等は、喜んで商人の指示に従って剣を用意した。
屈強な男達に首を落としやすいように組み伏せられ、下卑た視線と嘲笑を浴びせられる。
突然に異世界転移させられ、それでも必死に生き延び、地獄のような日々を過ごした結果がこれか。
だが、これはこれで、もう楽になれるのかもしれない。
絶望、悔しさ、不甲斐なさ、怒り、様々な感情が駆け巡って意味も分からずに涙がとめどなく溢れ出てくる。
男達が剣を振り上げ、私が死を覚悟したその時、『彼女』がやってきたのだ。
「おい」
強い口調と共に、独房の出入り口が吹き飛ばされる。
何事かと皆の目が点になる中、白金(プラチナブロンド)の髪を爆風で靡かせながら、ほっそりとした小柄で目付きの鋭い少女、いや幼女が腕を組んでやってきた。
呆気に取られていた屈強な男達だったが、すぐに我に返って彼女に襲いかかっていく。
しかし、彼女はいとも容易く、男達を蹴散らしてしまう。
そして、戦く商人の前に立った幼女は告げた。
「ここに誰も聞いたことのない言語を話すという、世にも珍しい黒髪の奴隷を売っていると聞いてな。もしそれが本当なら出来る限り穏便に、平和的に、迅速かつ丁寧に買いたいと思ってやってきた。断るなら、力ずくでせねばならんが、どうする」
彼女が目を細めて白い歯を見せた笑顔はとても魅力的だが、とても暴力的で圧があった。
最早脅しとも取れる笑顔を前に、商人は勢いよく何度も首を縦に振る。
「そうか、それは有り難い。では、この者を本当に買うかどうか判断したい。お前達は外に出ていろ」
睨まれて一喝された商人は、屈強な男達と一緒に部屋からすぐさま出て行った。
彼女はやれやれとため息を吐くと、うつ伏せで床に倒れている私に顔を寄せる。
「お前だな。世にも不思議な言葉を使う奴隷というのは。ほら、しゃべってみろ」
「ハイ。ワカリマシタ」
カタコトで頷いた私は日本語で『この言葉です。何処かで聞いたことはありませんか』と尋ねた。
彼女は「ほう……」と再び目を細めて白い歯を見せるが、今度は新しい発見をして期待に満ち満ちた嬉しそうな笑顔だった。
「面白い。本当に聞いたことのない言語だ。よし、気に入った。お前を買おう」
「……⁉」
この時の私は、彼女がなんと言ったのかは正確にはわからなかった。
しかし、その表情や言葉の抑揚から間違いなく私を現状から救ってくれたことだけは理解できたのだ。
「お前、私の言葉を全て理解できるわけじゃないみたいだな」
「ス、スミマセン」
平謝りすると、彼女は「気にするな」と私の頭をくしゃくしゃと触った。
「じゃあ、まず言葉と文字を教えてやらないとな。あ、でも、まず名前がないと不便か」
彼女は腕を組んで少し唸った後、「よし、決めたぞ」と口火を切った。
「お前の名はアラン・オスカーだ。いいな、アランだ。ア、ラ、ン。それがお前の名だ」
「ア、ラ、ン」
名前なぞ、久しく呼ばれていなかった。
日本人として過ごしていた時の名前を伝えても、商人や男達はおろか奴隷達も呼んでくれず、ただ『黒髪』と蔑称のように言われていたのだ。
アランと呼ばれただけなのに、私は異世界に来て初めて『人』として扱われた気がして涙が再び溢れ出した。
「な、なんだ。泣くほど嫌だったのか」
「チ、チガイマス。ウレ、ウレシ、デス。ワ、ワタ、アラン。アラン」
頭を振って嬉しいことを告げると、たじろいでいた彼女はきょとんして破顔した。
「そうか。気に入ってくれたなら良かった」
「ア、ワタ、アラン」
私はそう言って自身を指差すと、「ア、アナタハ……」と彼女に失礼のないよう掌を向けた。
「お、自己紹介をしていなかったな。私の名アリサ・テルステラだ。これからよろしくな、アラン」
こうして、アリサは私を地獄から救い出してくれたのだ。
師匠、貴女が居なければ私はあの時、死んでいた。
どうして貴女は、私より先に亡くなってしまったのか。
殺しても死ぬような人でもなかった。
ずっと師匠の傍にお仕えして支えることが、私にできる唯一の恩返しだったのに。
「師匠……師匠……」
戦魔女の顔を見たのが切っ掛けとなり、記憶の奥底に眠らせていた記憶と感情が次々と溢れ出てしまう。
私は涙と鼻水が止まらず、顔をくしゃくしゃにしていた。
「アラン殿、アラン殿。そう泣かれては話もできぬ。落ち着いてはもらえぬか。私の顔が怖いというのなら、兜を被っておこう」
彼女が兜を被ろうしたところを、私は顔をマントで拭いながら制止する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます